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第159話

「呆れて物が言えぬ」  ヴォルフガングの平坦で冷ややかな言葉に、バッハシュタイン現侯爵は視線を落とした。   「其方、主家に対し、随分と大それた野望を持ったな。私が知らぬと思うたか」  長椅子に娘と並んで座ったバッハシュタイン侯爵は、膝の上で握った拳の中で汗をかいた。隣で娘…エヴァンジェリンが気遣わしげに父の横顔をそっと見たのを感じた。  ハインツ・バッハシュタインは、幼い頃から兄ヴォルフガングが苦手だった。  父である前侯爵譲りの藍色の黒髪と青灰色の切れ長の瞳のヴォルフガング。対して自分は母譲りの金髪。  黒に近い程、竜は強い。  その濃い色を持つ兄は、侯爵位を継がずにリリエンタール公爵家の家宰となった。  リリエンタール家の家宰は、バッハシュタイン家の次男以下が代々着いていた。本来であれば、ハインツが家宰となる予定だった。  ところが、前侯爵はヴォルフガングを後継から外し、公爵家の家宰に任命した。  ヴォルフガングが侯爵として相応しくないのではない。ハインツが家宰としての能力が欠けていると判断されたのだ。  優秀な補佐を何人も付けられ、ハインツはバッハシュタイン家を継いだ。  優秀な兄の上に立ちたかった。兄に傅かれる立場になりたかった。侯爵を継いだとしても、兄は自分に頭を垂れる事は無い。  幼いレオンハルトが一代限りの公爵としてリリエンタール家の当主に着任した時、ハインツは小躍りした。ちょうど娘が産まれたばかりだったからだ。  最大の幸運が巡ってきたと、心の底から歓喜し、叫びたかった。  娘を公爵家に嫁がせる為に、幼少から淑女教育を始めた。妻譲りの美貌に磨きをかけ、実務教育にも力を入れた。  娘は当主と並び立っても遜色のない、賢く、美しい淑女に育った。当主も絶対に娘を気に入る筈だ。  ハインツは兄に勝ったと確信した。  ところが婚約を打診する前に、肝心の当主が出奔したのだ。更に、長く行方不明の末、あろうことか伴侶を伴って戻って来た。    竜人族で同性の伴侶は珍しくない。  更に、稀少種の白竜だった。  このままでは娘に勝ち目は無い。  焦ったハインツは皇城に出向いた。 「…兄上もご存知の筈です」  声を震わせずに喋る事が出来、ハインツは内心ほっとした。 「ハインツ、其方、やはり…」 「白竜は皇城が保護をする。それは周知された事実ではありませんか。僅かな手掛かりや噂程度でも報告の義務があります。私はバッハシュタインの当主として義務を果たしたまでの事。何ら誹りを受ける謂れはありません」  己は貴族として正しい行いをしたまで。  背筋を伸ばしてハインツはヴォルフガングを睨んだ。 「白竜は見つけ次第、皇城へ…皇帝陛下へ献上するのが決まり事」 「皇城は其方に何を提示した」 「……」 「報奨として領地か? 陞爵か? 公爵家の外戚の地位がそんなに欲しいか」  氷の刃と化した眼差しに、ハインツはひやりと肩を竦めそうになったが、何とか堪えた。侯爵としての矜持が何とか支えた。  エヴァンジェリンには、その父の態度が誇らしく見えた。 「伯父様。いえ、家宰様、ご当主様とわたくしの婚姻は皇帝陛下の勅命です。これは揺るぎない事実です」  勅令書を持つ自分は正しいのだ。  皇帝の勅令は重い。公爵家と言えど拒否は赦されない。白竜を所持するリリエンタール家を救えるのは自分しかいない。  エヴァンジェリンは胸を張って言葉を続けた。 「白竜を所持する事はリリエンタール家の為になりません。仇となります。あれは皇城へ献上致しましょう」 「不敬」  鋭い一言でエヴァンジェリンの言葉をヴォルフガングは切った。  エヴァンジェリンは喉の奥で悲鳴を上げた。氷の刃で頭から躰を真っ二つに斬られたと思った。  鳥肌が立ち、冷や汗が噴き出た。 「思い上がるな、小娘」  ヴォルフガングのから放たれた気が、数万の刃となってエヴァンジェリンに突き刺さった。  冷ややかな、無機物でも見るような眼差しに息が出来ない。およそ肉親を見やる眼ではなかった。 「言葉に気をつけろ。『お方様』です。伴侶の鱗を強請るなど、竜人族にあるまじき恥知らず。命を取られても文句も言えないところだ。慈悲深いお方様に感謝するのだな」  ヴォルフガングは言いながら扉を開けた。 「皇城との遣り取り、全て話せ」  扉の向こうに、ヴォルフガング以上の冷ややかな鋭い眼光のレオンが立っていた。  レオンに蟄居を命じられ、憔悴したバッハシュタイン侯爵父娘を見送り、ヴォルフガングは内心で嘆息を吐いた。  暫く実家に顔を出さない内に、随分と質が落ちたものだ。名門家の矜持も自尊心も質が劣化したらしい。  ヴォルフガングは主に向けて深々と頭を下げた。 「大変申し訳なく…」 「頭を上げろ」 「お館様…」 「侯爵家までは、お前の管轄ではないだろう。むしろ、俺の管理能力不足が問題なのだろうよ」  髪を搔き上げ、レオンは行儀悪く長椅子に片脚を上げて嘆息を吐いた。 「いいえ。お館様には一切の瑕疵はございません。私の責任において処理しておきます」  しかし、とヴォルフガングが僅かに眉を寄せた。 「皇城に付け入る隙を与えてしまいました。まさか、あの弟にあのような行動力があるとは思いもしませんでした」  規則や規範から外れる事を恐れる気弱な弟。気がつくと、陰から窺うような視線を向けてきていた。その視線に含まれていた仄暗い意味も。  自分に対して持っている卑屈な劣等感。  己だけで昇華できないで、長年、鬱々と抱えてきた。それでも対外的には侯爵家令息として、今は侯爵家当主として卒なくこなしている。  だから放置していた。  自分はリリエンタール公爵家の家宰に注力した。  ふと、きつい眼差しを思い出した。 「皇城へ赴いたのは、あの娘の入れ知恵でしょう」 「…だろうな」  余計な事を…。  ヴォルフガングは内心で舌打ちをした。 「バッハシュタイン侯爵家は取り潰しましょう」 「ヴォル?!」  大体、主家に対して越権行為も甚だしい。しかも伴侶の鱗を強請るなど、竜人族にとり、何においても恥ずかしい行為に他ならない。  それを血筋の者が行ったのだ。  既に家を出ているとは言え、ヴォルフガングは羞恥で躰中の血が沸騰しそうだった。  その分、彼らに対する怒りは深く激しい。 「無礼で非礼。そして、主家に対しての裏切り。叛意は明白です」 「主家と言えど、独断で侯爵家を取り潰したら、今度は俺が皇帝に対しての叛意を疑われる」 「お館様…」 「俺に対して皇帝が勅命を下す事は無い」  そうだ。  魔力を搾取させる代償に、お互いに干渉しない不文律を決めたのは向こうなのだ。 (俺が欲しいのは、権威の象徴としての白竜じゃない。ブラッド個人だ)    胸に手を当てると、ブラッドの鱗から仄かな暖かさを感じた。離れていても伴侶の気配がある。居場所が分かる安堵感。  そして、ブラッドの魔力に包まれている多幸感。口許が弛んでしまいそうになる。  今更、手放せないし手放す気は無い。   その日、二人は深夜まで今後の対応を話し合った。  数日くらいの徹夜は物ともしない頑健な竜人族だが、目覚めは最悪だった。  領都の周囲を大軍が囲んでいた。  黒地に天に駆け昇る金糸の竜が刺繍された無数の旗が風にはためいていた。  皇軍だった。      

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