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第161話
ふと、胸の奥にざわつきを覚え、ブラッドはいつも包み込んでいる温もりを求めて身動ぎした。
「…レオン……?」
眼を開けると、隣にいる筈の青年の姿が無かった。敷布に手を当てると、僅かに温もりが残っていた。
天蓋の帳の隙間から薄紫の明かりが差し込んでいる。
夜が明けかけているようだ。
躰を起こすと、扉を叩く音がした。
「おはようございます、お方様」
リーンが茶器を乗せた車を押して入って来た。
ブラッドが目覚めたのを察したようだ。
天蓋の帳を開いて柱に括ると、柔らかな光が寝台に差した。夜は明けているが、陽は昇りきってはいないようだ。
「搾りたての山羊の乳をたっぷり入れた紅茶です」
リーンから差し出された杯を受け取り、一口、含んだ。
優しい味わいと香りが鼻腔を刺激した。
「ありがとう。ちょっと、落ち着いたかな」
リーンが僅かに微笑んで目蓋を伏せた。
「何が起こっているの?」
いつもより早い時間に起きたのに、ちょうど良い間合いだ。それを用意出来ているのだから、リーンは更に早く起きたのだろう。
徐々に近づく圧迫感。
覚えのある物々しい気配。
大きな…大きな戦の時の肌を斬りつける空気。ブラッドと違い戦闘系に特化した竜人族であるリーンは、その気配に早々に気づいたのだろう。
「夜明けと共に皇軍が領都を囲み、展開しております」
「こうぐん?」
「皇帝直属の軍です。黒地に金の昇り竜の旗は、皇軍しか掲げる事が出来ません」
「どうして、その軍が…?」
リーンは首を横に振った。
「様子を見られる?」
正面玄関へ続く階段の踊り場から領都全体が見下ろせた。
丘陵地に建つ城から伸びる正門に続く道を中心に、貴族街、上級民街、一般人街、商業地と広がっている。轟音とともに跳ね橋が降り、正門が開いた。
そこから漆黒の大柄な騎士を先頭に大軍が雪崩込んで来た。内壁に沿って軍が街を囲み、長槍を石畳に立てた。
その頃には物々しい物音に起き出した領民が、不安気に様子を見に家から出ていた。少しずつ増え始めた人々に、兵士らが長槍の鋭い先端を向けた。
その様子に、ブラッドは眉を顰めて唇を噛んだ。
そこへ、レオンがヴォルフガングを従えて階段を降りてきた。
差し出された手を取り、傍らに並んでレオンの温もりを感じたが、胸の奥に生まれた黒い染みは消えなかった。
食堂で二人が朝食を取っていると、来客の到着が告げられた。
「玄関で待たせておけ」
抑揚のない口調で告げ、レオンはパンを千切って口に放り込んだ。じゃが芋を蒸してすり潰した羹を飲む。塩胡椒の効いた、山羊の乳と野菜の出汁との絶妙な調和に感心した。
「美味いな」
「美味しいね。スヴェンさんの作る料理とは、風味がちょっと違うね」
「スヴェンは北部料理が中心だったな。城の調理人は、確か南西部出身だと記憶していたが」
給仕をしていたヴォルフガングに眼をやると、香草と胡椒をまぶして炙った鶏肉を切り分けていた手を止めないで頷いた。
「さようでございます。仙境だけでなく、人界でも修行をしており、古今東西のあらゆる料理に精通しております。宮廷料理から田舎料理まで提供出来ます。ご要望があれば、遠慮なくお申しつけ下さい」
ブラッドは微笑んで小さく頷いた。
ふと、短い期間だったが、滞在していた辺境伯領で食べた料理を思い出した。洗練された宮廷料理とは違うが、供する相手の事を考えた素朴な料理や焼き菓子。
優しい人々と幸せな味。
ほんの束の間、ブラッドは遠くなった記憶に思いを馳せた。
それを破るように扉が荒々しく開けられた。
「おお! 美味そうな匂いだな!」
黒い鎧の金属音を立てて無遠慮に入って来たのは、深い藍色の短髪の大柄な青年だった。
「俺にも馳走してくれないかな。朝が早過ぎて腹が減っているんだ」
「お前の分は無い」
「家宰殿。椅子を用意し…」
「ヴォルフガング、将軍閣下を客用の食堂へ案内しろ」
青年は言葉を遮られても機嫌を悪くはしなかった。むしろ上機嫌に歩み寄って来た。
「やぁ、美しい人!」
レオンと対面で食事をしていたブラッドは、唐突に目の前に顔を近づけられ、蒸し焼きの人参を喉に詰まらせた。
「…んっ!」
「ブラッド!」
「お方様!」
アウグストを顔ごと押し退け、レオンはブラッドの背中を優しく叩いた。ブラッドの給仕をしていたリーンが、慌てて水の入った硝子の杯を差し出す。
「大丈夫か、ブラッド? ほら、水を飲んで」
「う、うん…。こほっ」
「落ち着いて、ゆっくり飲め」
水を飲んで喉の詰まりが解消されると、ブラッドはほっと息を吐いた。
「ふぅー…。うん、もう大丈夫」
「あちゃー、申し訳ない」
頭を掻いて謝罪する青年をブラッド以外の三人が睨んだ。
「おいおい。悪かったって、そんなに睨むなよ。俺とお前の仲だろ?」
「ヴォルフガング、こいつをつまみ出せ」
「はっ!」
ヴォルフガングは躊躇うことなく皇軍の将軍の腕を掴んだ。
それに抵抗しようとして青年は片眉を上げた。掴まれた腕が外れない。
(このおっさん、強いぞ)
「失礼ですが、将軍閣下には別室にて歓待させて頂きます」
殺気を滲ませ、ヴォルフガングはにこりともせずに退出を促した。
(従った方が無難か。けど、こんなに感情を顕にするレオンは初めて見るなぁ)
ブラッドを背に隠し、半眼となって自分を睨むレオンを青年は見た。
(それ程この伴侶が大事らしいな)
滅んだとされている白竜を生きている間に見られるとは思わなかった。
真珠色の艷やかな肌。ふっくらした紅く愛らしい唇。金環の翠の瞳。
その瞳に自分のみを映したくなる。
人のものと知っていても、魅力的な人物に惹かれ、どうしても自分のものにしたくなる性分には困ったものだ。
「美しい人。お名を呼んでも宜しいか?」
人好きのする笑みをレオンの背に庇われているブラッドに向けた。
肩を跳ね上げ、ブラッドはレオンの背にしがみついた。
「ぼ、ぼくは、あなたの名前を知りません」
「おお。そうでした。自己紹介がまだでしたね、美しい人。俺は皇軍大将軍を務めるアウグスト・カロッサと申す。アウグストと呼んでくれ」
「馴れ馴れしい。もっと離れろ」
レオンが邪険にアウグストの顔を押し退けた。
「ブラッドと言います。あの、美しい人と呼ぶのはやめて下さい」
「ブラッド! 命に溢れた良いお名だ! 美しいあなたに相応しい!!」
ブラッドの手を取ろうと伸ばしたアウグストの手をレオンは叩き落とした。同時にヴォルフガングがアウグストの腕を掴んでいた手に力を込めた。
「家宰殿っ、手加減してくれないかな」
「お方様に怪しい人物を近づける訳には参りません故」
「怪しい?! 俺は大将軍だぞ!」
「先触れも無く、大軍で押し寄せた大将軍ですな」
「俺は単騎で来た。あいつらは勝手について来たんだ」
「完全武装の単騎ですな。領民に槍を向けているのも勝手にやっていると宣うのですか?」
冷ややかで平坦な声が割り込んできた。
青灰色の瞳に剣呑な光を湛え、ゲオルグがアウグストを睨めつけた。
「玄関に大将軍閣下の副官を名乗る人物が来ております」
「大将軍閣下と同じ食堂に案内しろ」
レオンは短い嘆息を吐き、手を振った。
「我が領ご自慢の山鳥の丸焼きを馳走致しましょう」
ゲオルグが唇の両端を釣り上げ、優雅な仕草で片手を胸に当ててお辞儀をした。
家宰と交代したゲオルグに押されて退室するアウグストを、ブラッドはレオンの背にしがみついたまま見送った。
リーンが扉を閉めると、ブラッドは詰めていた息を吐いた。無意識に力も入っていたのか、首と肩が痛い。
「ブラッド?」
気遣わしげにレオンが見下ろしていた。
「う、うん。びっくりしちゃっただけ」
「すまなかった」
「どうしてレオンが謝るの?」
「あの野郎を不用意に近づけてしまった。俺が城門に出ておくべきだった」
「いいえ。領主が軽々に城を出るものでございません。むしろ、家宰の私の過失でごさいます。申し訳ありませんでした、お方様」
深く頭を下げたヴォルフガングに、ブラッドは慌てた。
「ヴォルフガングさんもレオンも謝らないでっ。ぼく、何ともないよっ」
「だが……怖かったんだろう?」
しがみついたままだった事に気づき、ブラッドはハッとした。顔を上げると、安堵させるような微笑を向けられたが、何故か手を離せない。
「ぼ…ぼく……」
背中を冷ややかな汗が流れていた。
(そうだ…。ぼく、あの人が怖かった……)
「……あの人、笑ってたけど…、眼が笑ってなくて……」
目を見開き、レオンはブラッドの冷たくなった頬を撫でた。
戦士の性質を持ってなくても、アウグストの異質さを感じ取ったようだ。
誰にでも友好的で朗らかに接するアウグストだが、内側には絶対に立ち入らせない強固な壁がある。
面倒見の良い好青年の顔をしているが、情に流されない冷徹さも持ち合わせている。
自分に取って邪魔、或いは害となると判断したら、例え味方であっても後ろから斬るのを躊躇わない。そうでなくては皇軍の将軍は務まらないからだ。
陽光のような笑顔の眼の奥は仄暗い。
普段から、それを気取らせる事はないのだが、ブラッドは見抜いたようだ。
「お方様、お茶をどうぞ」
リーンが二人分の茶を淹れて微笑んだ。
席に座り直し、二人は花と柑橘の香りのする香草茶を飲んだ。冷えた躰に温かい香草茶が優しく染みた。
その様子を見守っていたリーンは、ブラッドから視線を外さず退出するアウグストが、一瞬だけ自分に向けられのを不思議に感じた。
だが、それはほんの一時の事。
すぐにリーンの意識は主に向けられ、香草茶のお代わりを注いだ。
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