162 / 168

第162話

 応接間に通されたアウグストは、室内をぐるりと見回した。  華美な装飾を好まない主に似て飾り気のない部屋だ。それでいて設えている家具は最高級品の黒檀で統一されていた。全てが埃一つ無いよう磨かれている。  露台へ続く壁一面の硝子扉を覆う複雑に編まれたレース。  金糸銀糸で縁取られた若草色の絨毯を進み、同色の長椅子に腰を下ろした。副官はアウグストの斜め後ろに立った。 「ブラッド殿がおらんな」 「人の伴侶の名を馴れ馴れしく呼ぶな」  対面で脚を組んで座っていたレオンが、憮然として言った。 「俺としては、愛想の欠片も無い野郎より、笑顔の愛らしい美人の方がいいんだがなぁ」  「お茶をどうぞ、将軍閣下」 「良い香りだ」 「毒見を致しましょうか」 「結構です」  ヴォルフガングの問に否と応えたのは副官だった。蜂蜜色の髪、感情を読み取らせない薄茶の瞳。薄い唇をにこりともさせず、冷めた視線を上司に向けた。 「この人には生半可な毒は効きません。その杯に溢れるくらい入れても構いませんよ」 「おいおい、ハーラルト。俺はリリエンタール領特産の茶葉を味わいたいんたが」 「あなたの舌では、茶葉の良し悪しなど分からないでしょう」  視線と同じ冷ややかな口調だ。どうやら腹を立てているらしい。  自分の思う通りにしか行動しない上司には、随分と振り回されているのだろう。 「燻されたりカビたりしてても平気で何でも食べられるんですから、繊細な味も芳醇な香りもあなたには贅沢です」 「俺は、遠征中に出された物を文句も言わないで何でも食べる上司の鑑じゃないか」  器用に片眉を跳ね上げ、ハーラルトと呼ばれた青年はレオンに向き直った。 「リリエンタール公爵、無礼を承知で申し上げます。勅令を無視なさるのであれば、領民の命の保障は致しかねます。先ずは公爵のみで皇城へ出頭して頂きます」 「おい。ハーラルト!」 「白竜はその後でも構いませんが」  レオンは眼を細めてハーラルトを見た。 「皇帝以外が白竜を所有するなど、赦されません」 「……お前達は、何か勘違いをしていないか?」  蒼穹の瞳の瞳孔が縦長になり、金色に変化した。魔力の放出は抑えられていても、怒気は抑えていなかった。 「…白竜は装飾品じゃない」 「レオンハルト?」 「白竜は、権力者の権威の為に存在している物じゃない」  竜身に変化したような覇気に気圧され、ハーラルトは無意識に片脚を退いた。 「アウグスト、白竜がどうして滅んだと思っている」 「個体として弱いからだ」  アウグストは即答した。 「爪も牙も鎧となる硬い鱗も無い。身を護る術を持たない弱い竜だからだ」  武闘派の将軍らしい答えだ。 「では、何故、その弱いとされている白竜が戦わなくてはならない」 「竜は戦う種族だ。戦い、勝利し、己の生を勝ち取るものだ」 「戦闘狂のお前の頭の中は、それしかないのか」  呆れ顔でレオンは嘆息を吐いた。 「白竜は弱くなどない」 「戦う爪を持っていないじゃないか。だから、古来より白竜は発見次第、皇城で保護してきたんだ」  アウグストは芳醇な香りの紅茶を飲んだ。 「うむ。やっぱり美味いな」  残りを飲み干し、アウグストは満面の笑みを浮かべた。 「美味いメシも馳走になったし茶も飲んだ。さぁ、皇城へ行くぞ、レオンハルト」 「……」 「駄々をこねるな」 「駄々などこねていない」  レオンは憮然として脚を組み換えた。 「俺に勅令は無意味だ。それは、あいつが…皇帝が一番良く知っている。俺に命令を下せる奴はいない」 「時間を稼いでも無駄ですよ」  立ち直ったハーラルトが言った。 「私達とここで長々と話しをして、その間に白竜を逃がすおつもりなのでしょうが、そうはいきません」  レオンが無言で勢い良く立ち上がった。  「無駄ですよ、公爵閣下」  高圧的な口調に、部屋を出ようとしたレオンが肩越しに振り向くと、ハーラルトが嘲笑うように口の端を歪めていた。 「白竜殿は、今頃は『ご実家』です」  自分が将軍を相手にしている間に、リーンを伴ってゲオルグと屋敷に戻るよう言われたブラッドは白い外套を羽織った。 「直ぐに後から追いかけて来るって言ってたけど……」  大丈夫かな、とブラッドは眉尻を下げた。 「ご心配なさらずとも、お館様はご用事を済まされたら、直ぐにお方様のお側に戻られますよ」  ブラッドの外套の飾り紐を結びながらリーンは微笑みかけた。  この外套には魔力が込められており、防御の術を持たないブラッドの鎧となる。緋色の絹糸の飾り紐には複雑な術式が編み込まれ、決められた結び方をする事で防御魔法が発動する仕組みになっている。   (焦らないで、間違えないように…結ぶ…)  焦燥を表情には出さず、リーンは飾り紐を花の形に結んで整えた。 (うん。綺麗に出来た)  リーンの指が離れたと同時に術が発動し始めた。外套が淡く光り、白かった布が深い藍色に染まった。  ほっとし、リーンはブラッドを先導して部屋を出ようと扉の取っ手に手を掛けた。  その扉が唐突に開けられ、リーンは咄嗟に飛び退いてブラッドを背に庇った。 「何者だ!!」  緋色の鎧を纏った騎士が幾人も雪崩込んで来て抜剣した。  公爵家での信じられない暴挙に驚愕し、躰が固まりかけたが、リーンは素早く立ち直った。状況が飲み込めないでいるブラッドを部屋の奥に下らせようとして、躊躇った。  ここで離れるのは得策ではないと感じたからだ。 「面白いな、小僧」  騎士が二手に割れ、間から大柄な人物が進み出た。背中までの白髪を項で纏め、白髭をたくわえた偉丈夫。額と目尻の深い皺が男の齢を現していた。 「このわしに名を問うか」  冷え冷えとした黒い瞳が、リーンを通り越してブラッドを睨めつけた。 「今更、帰郷とはな」  口調は瞳以上に冷ややかだ。 「ブランケンハイム家の……わしの血を引いているとは思えん程の役立たずだな」  冷ややかでありながら、火傷しそうな怒気を感じた。  何故、それが自分に向けられるのか。  ブラッドは戸惑い、内心、首を傾げた。 「ブランケン…ハイム公爵家……」  リリエンタール家を除く四家の公爵家の筆頭の名に、リーンは顔を強張らせた。思いも寄らない大物の登場に、指先が強張り冷えていく。  しかし、自分が最優先させるのは主の守護。  己の命より主の命。  手を何度か握って血の巡りを良くし、リーンは高位貴族に礼を取るより、主を護る為に構え直した。 「本日、お方様への来客のご予定はございません。どうぞお引き取り下さい」  よく声を震わせずに言えたと思った。リーンは声を掠れさせないよう、更に腹に力を込めた。 「家令の案内も無く、この様な奥の私室に踏み込むとは、筆頭公爵様と言えど無礼ではございませんか?」 「案内はありましてよ」  騎士の後ろから現れたのはエヴァンジェリンだった。 「…ご令嬢、お館様より謹慎を命じられておられた筈です。何故、ここにいるのですか。どうやって、ここまで入り込めたのですか」  質問ではなく詰問だった。  あの日、エヴァンジェリンは…バッハシュタイン侯爵父娘はレオンを激怒させた。  レオンの許可なく最愛のブラッドに接触し、事もあろうか伴侶の鱗を要求した。それが文字通り竜の逆鱗に触れたのだ。   『命があっただけでも儲けもの』  身内に対して家宰の反応は冷ややかだった。 『お優しい事です。まぁ、なるべくお方様に血生臭い事に関わらせたくないのでしょう』  その優しさが仇となった。 「バッハシュタインはリリエンタール家に仕える家門の筆頭ですわ。リリエンタール公爵家の私兵の半分はバッハシュタインが担っています。いざという時ご当主様を護る為に、公城の隠し通路の把握もしておりますもの」 「他家の者に、隠し通路を教えたのか」 「いくつもある通路のたった一つですわ。他にもあるんですもの。何ら問題もありません」  「戯けた事を!!」  リーンの金茶の瞳が黄金になった。 「…なっ…、たかが使用人ごときが、無礼ですわね」 「蟻の一穴を知らないのかっ。通路一つから全部を割り出すくらい、筆頭公爵には簡単に出来てしまうんだぞ!」  リーンの剣幕に気圧され、エヴァンジェリンは唇を噛んだ。 「小兎同士のじゃれ合いは、そのくらいせんか」  にこりともせず、ブランケンハイム公爵が二人の間に割って入り、リーンには一瞥もくれずにブラッドを睥睨した。 「筆頭公爵家当主が直々に不出来な孫を迎えに来てやったのだ」 「孫……」 「ふん、孫と呼ぶのも烏滸がましいが、我が家の役に立てたら正式に家に迎えてやろう」    

ともだちにシェアしよう!