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第164話
完全に日が暮れた頃、簡単な食事が運ばれてきた。
運んできた使用人は部屋に入らず、リーンに盆を渡すと無言のまま踵を返した。
「…食事を忘れられてたら、どうしようかと思いましたが…」
使用人の態度に苦笑を浮かべ、リーンは扉を閉めた。
円卓に食事が並べられ、リーンが引いた椅子にブラッドは礼を言って腰を下ろした。
全粒粉の黒パンに羹、カリカリに焼いた燻製肉に茹でた人参とジャガ芋が添えられていた。それらを切り分け、杯に水が注がられて準備が調うと、ブラッドはリーンを見上げた。
「ねぇリーン、給仕はいいから一緒に食べよう」
「え? 主と卓を一緒にするなど…」
「ここでは誰も咎めないよ。食事は一人より一緒の方が美味しいし」
「し、しかし…」
「座って」
「はい」
ブラッドの笑顔の圧に、リーンは向かいに座った。
二人が食事を終わるのを見ていたかのように扉が叩かれた。
リーンが素早くブラッドの前に立つと同時に、返事を待たずに扉が開かれた。
ブランケンハイム公爵家の幾人かいる家令の内の一人である彼は、主君が連れてきたブラッドとその従者を冷やかに見やった。
「主君がお呼びです」
それだけ告げると二人に背を向けて歩き出した。戸惑いながらも後をついてくる気配があり、家令は振り返らずに足を進めた。
(…まさか生きていたとはな……。いや、孵化するとは何と運が良い)
家令は二人から表情が見えない事を良い事に、忌々しげに眉間に皺を寄せた。高位貴族の家令の態度としては失格なのだが、彼に取って二人は客では無かった。
(汚らわしい『獣腹』のくせに、図々しく筆頭公爵家に足を踏み入れおって)
足早に歩きながら、家令は聞こえるように舌打ちをした。
公爵の命を受け、卵のブラッドを棄てたのは彼だった。竜仙境と人界の狭間の険しい峡谷に卵を落とした。
そこは方々から吹く強風が集まり、更に渦巻いて山肌を走り、谷を削って吹き抜けていく。卵をその風に乗せ、卵は人界の峡谷深く『廃棄』した。
触るのさえ厭う獣腹の卵を廃棄した内密の働きで、当時雑用係であった彼は家令の一人となった。
魔力の少ない人界で、孵化する筈のない卵が孵化した。
(さすが『獣腹』だな。獣から魔力を奪うとは)
昔ほどではないが、貴族社会の中では、竜種を魔物や動物と同等に見下す風潮があ残っていた。
例え高い知能を保持していようとも、竜人族と竜種とは明確に線引きをしており、仙境では蔑んでいる年代が少なくない。この家令もその一人だ。
だが、心持ちはどうあれ、表情や態度を取り繕えないのは家令としては失格である。実力で昇進した訳では無いのだが、誰よりも主君の役に立ったから当然だと思っていた。
客人の前に出るのだから、訪問者が誰であろうと相手に不快感を覚えさせてはならない。最初に客を迎える家令は、その家の顔でもある。
客人を置いていく勢いで進む家令の後ろを歩きながら、リーンは表情に出さずに腹を立てていた。
ブラッドに仕える際、リーンはレオンから全てを説明されていた。出自、人界で育った経緯。
であれば、家令はブラッドが主家筋の者であるのを知っていて、その態度なのだ。
下位ではあるが貴族家で育ったリーンには家令の不貞腐れた態度は理解不能だ。何より不敬である。
殺気が漏れそうになるのを拳を握る事で抑え、リーンは油断なく周囲の気配を探った。姿は見えないが、そこかしこから二人を…ブラッドを窺うような視線を感じる。
(品が無いな)
高位貴族家の使用人であれば、上級から末端まで教育が行き届いているものだ。何より、その家の主が空気が緩むのを赦さない。
彼らの不躾な態度や視線は、リリエンタール公爵の館では見られなかった。
ブラッドが棄てられた側の卵であったとはいえ、現在は希少な『白竜』だ。
石にならずに孵化し、厳しい人界で育ち『白竜』として顕現し、戦で穢れた土地を浄化した奇跡の竜。
仙境の者は、人界に関わる事を極端に厭う。
自分達に比べ人間は脆弱で寿命も短く、少しの怪我や病で死んでしまう。更に、知識も歴史も浅い下等な生き物だ、と蔑んでいる者が殆どだ。
そんな家令の無礼な態度を欠片も気にする風もなく、とっぷりと暮れた藍色の窓の外を見ながらブラッドは進んだ。
ブランケンハイム公爵家の敷地に入った瞬間から、ブラッドは自分に向けられた蔑むような視線には気づいていた。
人界で孤児に向けられる視線と似ていたし、城で働き始めた時の雰囲気とも同じだった。自分よりも下位の者に対する蔑みと優越感。
それに対抗するには『鈍感』になる事だ。
刃を纏った言葉に。
愉悦に歪んだ表情で振るう暴力に。
路傍の石を見る如くの無視に。
けれど、それは生きながら死んでいるのと同じ事。
木々の間から昇り始めた月から視線を家令の背中に戻し、ブラッドは口許にほんのり笑みを浮かべた。
(レオンに出会って、ぼくは生きる理由を得た)
それはレオンも同じだと。
自惚れではない。
丹田に力を込めると、背筋が自然と伸びる。ゲオルグから教えられた行儀作法を思い出し、優雅に力強く歩く。
主の凛とした気配に気づき、リーンの背筋も無意識に伸びた。
家令に案内されたのは、別棟へ続くらしい渡り廊下の入り口だった。
重厚な扉の前には長身の騎士が立っており、家令が深々と頭を下げた。
「遅くなり、申し訳ございません。何が不満なのか、なかなか部屋から出て来ず苦労しました。身の程を弁えておらぬようなので、お手数をお掛けするかと存じます…」
溜息混じりに家令がぼやくように騎士に告げると、厄介物を押しつけてせいせいした表情で戻って行った。
(その家の顔でもある家令なのに、あんなあからさまに顔に出して、よく馘首されないな)
訝しげに思いながらもリーンは表情に出さず、騎士に目礼した。
「こちらへ」
胸当てと被布の簡易鎧の騎士は、鍵を開けて扉を押した。
長く伸びた渡り廊下は天井が高く、片側が弓形の柱が続いてすぐ庭になつており、少し湿った植物の匂いが漂っていた。
一定の間隔で天井から吊るされた仄かな灯りが、廊下を進む三人を藍色の闇から浮かび上がらせた。
突き当たった扉の鍵を開け、騎士が先導して二人を促した。
二人が最初に案内された棟とは違った静寂に包まれていた。音を立てる事を恐れているのか、息を潜め、気配を抑えようとしているようだ。緊張感が肌を刺す。
(殺気ではないが、どこからかお方様を窺う視線を感じる。向こうとは、ちょっと違う感じだ)
象牙色の扉の前で騎士が止まった。
「こちらの部屋で主君がお待ちです。ここでは、なるべく静かにお願い致します」
ブラッドは僅かに口許を緩めて頷いた。
この棟に入った瞬間から察していた。
息を詰めるような張り詰めた空気。そして独特の香の香り。
(この雰囲気、ぼく知ってる…。懐かしいな。……神殿の治療院だ)
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