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第165話
大規模な館では、常に大勢の人が働いている。どんなに静かに働く事を心得ていても、そこかしこに人の気配がするものだ。
この棟に入った時からも、大勢の人の気配があった。息を潜め、なるべく音を立てないようにしていても気配は消せない。
病棟特有の押し殺した気配と消毒薬、そして精神安定の香の匂い。
騎士が扉を開けると、それらは強くなった。
礼儀に反するが、リーンは先に部屋に入り、ブラッドを誘導した。騎士は軽く片眉を上げたが、無言でブラッドに続いて扉を閉じた。
「白竜殿を案内致しました、閣下」
騎士の言葉と同時に、部屋の中央の天蓋の幕が揺れた。
ブランケンハイム公爵家の家宰が幕を支柱に括りつけると、公爵が立ち上がった。
若草色に白詰草が散りばめられた幕の天蓋の寝台に、ブラッドと似た面差しの青年が眠っていた。
瞼は硬く閉じられており瞳の色は分からないが、やや上向いた通った鼻筋とふっくらした唇の形はブラッドと同じだった。
浅い呼吸音と僅かな胸の上下。
時折、眉が苦しげに寄せられるが目覚める気配は無かった。
頬にかかった、ブラッドより暗い焦げ茶色の髪をブランケンハイム公爵が優しく払った。
「…其方が白竜であるなら……」
青年を見つめる優しい眼差しが、ブラッドに向けられた途端凍てついたものになった。
「我が孫の病を疾く治せ」
数度瞬いて、寝台とブランケンハイムを交互に見ると、こてん、と首を傾げた。
「無理です」
「…其方は阿呆か」
「お方様は素直なお方なのです」
素早くブラッドの前に立ち、リーンはブランケンハイムの凍てついた視線から庇った。
「其方は人界の戰場を浄化したそうではないか。白竜の能力は癒し。傷を癒し、病を癒やす。何故それが出来ぬ」
「えーと、その、覚えていなくて……」
ブラッドは本心から申し訳なく思った。
あの戦は、ある意味特殊だった。
騎馬が縦横無尽に走り、人と竜の血が大量に流れ、悪意と共に大地に染み込んだ。
浴びた事の無い殺意に満ちた呪詛で花が散り、草が枯れ、木々は朽ちた。大地からは湿気た黴と血臭が漂っていた。
生気が、命が失われていく。
白竜の本能がそれを赦さなかった。
込み上げる衝動のまま、ブラッドは力を解放した。
覚えているのは、そこまでだ。
呪詛を祓い、場を浄め、傷を癒した…らしい。
長い眠りから目醒めた後にレオンから聞かされたが、全く覚えていなかった。
更に、どう念じても竜身に変じられず、癒しの力の使い方も分からない。
そして、何より悲しい事にブラッドは嘘がつけない。
出来ない事を出来るとは、『嘘』でも言えない。嘘も方便とか、状況をみて嘘をつくとかブラッドには思いもつかない。
それは神殿で神官に育てられたのが起因している。
だから、いきなり連れてこられて病を癒せと言われても、時間稼ぎに嘘をつくとか考えつかない。
白竜は鋭い爪も防御の硬い鱗も持っていない。
リーンもそれが分かっているから、ブランケンハイムの膨れ上がった殺気からブラッドに届くのを防いだ。この殺気だけでブラッドの柔肌は切り裂かれてしまうからだ。
吹き飛ばされそうな程の圧に背筋に汗が流れた。脚が竦み、退きそうになるのを表情には出さないで懸命に堪えた。
足を踏ん張って拳を握った。
そんなリーンを一瞥し、ブランケンハイムは視線をブラッドに戻した。
「病を癒せぬと申すなら……其方の血肉を貰おうか」
ブランケンハイムの手に、二人を案内してきた騎士が自分の剣を渡した。
「古来より、白竜の血肉は万能薬と謳われておる。腕の一本でもあれば足りるか。足りねば両腕。両足、眼玉、内臓…いくらでもある」
言いながらブランケンハイムは剣を抜いた。
「それで足りなければ、心臓を喰らわせる!」
ブランケンハイムは鞘を捨て、一歩でリーンの傍らを抜き、ブラッドに向けて剣を振り下ろした。
躊躇いの全くない剣筋に、ブラッドは動けなかった。首を竦め、眼をきつく閉じる。
だが、刃による衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
薄っすら眼を開くとリーンの背中があった。
「リ、リーン?!」
大柄なブランケンハイムが振り下ろした剣を右腕でだけで止めていた。
「ほう…」
ブランケンハイムは己の剣を、腕一本で止めたリーンを見下ろして片頬を歪ませた。
「我の剣を止めたか、小童」
力を込めたが、刃は紙一枚分も食い込まなかった。
「大した強度だ。だが、これならどうだつ!」
今度はリーンの首めがけて振り下ろした。
「リーンッ!!」
ブラッドは両手で顔を覆った。
今度の剣をリーンは防がなかった。
金属音が室内に響いた。
衝撃で僅かに態勢を崩したものの、リーンの首は落ちなかった。
「ふんっ…、やはりな」
リーンの首筋は漆黒の鱗に覆われ、ブランケンハイムの剣を止めていた。良く磨かれた黒耀石のように美しい鱗だった。
「その色の鱗。小童、其方何者だ?」
剣先をリーンの喉元に突き付け、ブランケンハイムは低い声で訊いた。
鱗の色が濃ければ濃い程、魔力保有量の高さを示す。
「小童、よく孵化出来たな。其方の母御は公爵位か侯爵位の出か」
リーンは答えず、躰をずらしてブランケンハイムの視線を自分に集中させた。刃が自分に向けられている間はブラッドは安全だ。
『毛一筋傷つけられてはならぬ』
ブラッドの護衛としての特訓で、一番最初に言われ言葉だ。
躰だけでなく、心も護らねばならない。
それは命令ではなく、誓い。
「今は私めの事など瑣末な事」
剣を押し返し、リーンは臆することなくブランケンハイムの眼を見返した。
「お方様をリリエンタール公爵様にお返し願います」
片眉を跳ね上げ、ブランケンハイムは剣を収めた。
「大した胆力だが、断る」
ブランケンハイムから剣を受け取ると、騎士は主から距離を取った。
それを視界の端で訝しく思いながら、リーンは油断なく構えた。
「その色の鱗には剣ごときでは斬れぬ」
握り込んだ拳を開くと、ブランケンハイムの両手には鋭い爪が生えていた。
「我の爪は金剛石をも裂く」
どこか面白そうに目を細め、ブランケンハイムは鋭い爪を殊更誇示するように右手を掲げた。
「堪えられるか、小童」
リーンは全身に魔力を巡らせ、防御の態勢を取った。自分が斬り裂かれたら、後ろのブラッドまで被害が及ぶ。
丹田に力を込め、足を開いて腰を落として衝撃に備えた。
徐々に膨れ上がるブランケンハイムの魔力が、公爵を中心に渦を巻き始めた。窓の帳がはためき、シャンデリアの炎が揺れ、室内の影が揺れた。
思いがけない展開に、ブラッドは息を飲んでリーンの背中を見つめた。
戦闘に於いて全くの素人であるブラッドでも、ブランケンハイムの覇気は分かる。足が竦み、冷や汗が背中を流れる。
だが、揺るがないリーンの背中がブラッドを護ると語っていた。護りきると。
無意識に込められていた肩の力が抜けた。
リーンからはレオンと似通った気配がした。
詰めていた息を吐いて、ブラッドはリーンの邪魔にならないよう数歩下がった。
ブランケンハイムが爪に魔力を纏わせた。
眼を眇め、跳躍の姿勢を取った時、天幕から衣擦れの音がした。
微かな呻き声がし、ブランケンハイムの殺気が一瞬で霧散した。
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