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第166話
暗い……
どんなに眼を凝らしても、針の先程の光りすら見えない
明かりを求めて手足を動かすが、重苦しい空気が纏わりついて思うように進まない
泥の中を藻掻いているようで息苦しい…
いつから自分はこの暗闇に閉じ込められているのだろう
藻掻いても藻掻いても足は思うように動かせないし、助けを呼ぼうと声を上げるが木枯らしに似た空気が漏れるだけ
もしかしたら自分は眼を開けてないのかもしれない
瞼が重い
力を込めると麻痺しているかのように震えた
ああ…
自分はこのまま底無しの暗闇に沈んでいくのか……
もう、歩けない
とうとう足が止まり、項垂れた
心做しか闇が濃くなってきた気がする…
重苦しく、息苦しい
嘆息し、しゃがみ込もうとした時、花の香りがした…ような気がした
顔を上げ、周囲を見渡すが闇が広がっているだげだ
延々と闇色の泥の中を歩いていたから錯覚したのだろうか……
目を瞑り、感覚を研ぎ澄ます
やっぱり、花の香りがする
それに、闇が薄くなってきた気もする
いいや、長く暗闇にいたから夢を見ているのかもしれない
希望など持ったところで絶望が増すだけ
けれど…けれど、花の香りは確かにする
足に力が戻った気がする
これで歩き続けられる……
重い、重い瞼を開くと、深紅の色が視界の隅にあった。
懐かしい色だ。少し低めの優しい声を思い出した。常に柔らかな微笑みを浮かべ、頭を撫でてくれた……。
「ち…父、上……?」
霞がかった視界の深紅が揺れた。
「フロリアンッ!!」
ブランケンハイムが寝台へ飛びついた。
「フロリアン、目が…っ、意識が戻ったのか?!」
先程までの殺気が霧散し、ブランケンハイムの意識は完全に寝台の青年に向けられた。
「……お…祖父様…?」
絞り出すような掠れ声に、ブランケンハイムは膝を着き、震える手で青年の頬を撫でた。
「私は……?」
「フロリアン……、そなたは半年も眠っておったのだよ」
「半…年…?」
フロリアンと呼ばれた青年は、少し思案するように眉を寄せた。ブランケンハイムを見上げ、足元側に立つブラッドに視線を向けた。
緩やかに波打つ真紅に近い赤髪を項で束ね、自分に似通った優しげな顔立ちの青年が所在なげに立っていた。目醒めて、最初に視界に入った鮮やかな色彩だ。
フロリアンの視線が自分ではなく、ブラッドに向いている事に気づいたブランケンハイムが眉を顰めた。
「…花の……」
「フロリアン?」
「花の香りがして……」
「花の香り?」
安息香を焚いているが、濃くなり過ぎないよう薄めてある。花というより甘い菓子に似ている香だ。
視線をブラッドから外さず、フロリアンは掠れた声で言葉を続けた。
「…君は…私の弟だね?」
ブランケンハイムの手を借りてフロリアンは上半身を起こした。
弟、と呼ばれ、ブラッドは何度か瞬いてフロリアンを見つめた。
背中までの赤味がかった焦茶の髪。深い森を思わせる緑の瞳。自分と似通った顔立ちの青年だ。
胸の奥からじんわりと湧き上がる気持ちは…。
ブラッドは寝台に近づいた。
険しい表情でブランケンハイムが立ち上がった。そのブランケンハイムの上着の裾をフロリアンが掴んだ。
袖から伸びた細い手首に、ブラッドは眼を見張った。
彼らの会話から、青年は半年昏睡していたらしい。起き上がられたのは竜人族だからか。
ブランケンハイムは嘆息し、表情を緩めて起き上がろうとするフロリアンの背中を支えて枕を挟めた。
「水を」
ブランケンハイムの指示で、護衛騎士が室外に控えていた使用人に声をかけた。少しして家宰が水差しを持って入って来た。その後ろに茶器を載せた車を押した使用人と家令が続いた。
最初に迎え入れた時より、どこか表情が明るい。
介助してもらいながら水分を取ると落ち着いたのか、フロリアンの白い頬に僅かに赤みがさした。
その間に使用人が小卓と椅子を用意し、家令が茶を淹れた。安息香が片付けられ、部屋は茶の香気に満たされた。
家令に促され、ブラッドは躊躇いながら小卓についた。
「ふん。此奴に茶など…」
「お祖父様」
喉が潤ったからか、フロリアンがしっとりとした声で止めた。半年昏睡していたとは思えない程しっかりしてきた。
「…そなた、躰はどうなのだ? 今、医師を呼ぶ」
フロリアンは少し頭を傾げてから左右に振った。
「大丈夫です。今は…彼と…、弟と話しがしたいのです」
青年に対しては気遣わしげだった眼差しが、ブラッドに向いた途端、蔑んだものに変わった。徹底しているブランケンハイムの態度に、いっそ清々しさを感じる。
茶を一口飲んで茶器を置き、ブラッドは躰をフロリアンに向けた。その背後にリーンがそっと立った。
「私はフロリアン。君は?」
「ぼくはブラッド。彼はリーン」
「獣腹ごときが、筆頭公爵家後継者様に直答するとは無礼な」
家令が茶器を片付けながら、ブラッドにだけ聞こえる低い声で囁いた。側に控えていたリーンにも聞こえたが、表情は変えなかった。
「ねぇブラッド。昏睡していた私が覚醒められたのは、君のお陰だよね?」
ブラッドは首を傾げた。
「私は長い事、暗闇の中にいた…。膝まで泥水に浸かり、重苦しい空間で歩き続けて…あと少しで倒れてしまいそうだったんだ」
両手を握ったり開いたりを繰り返し、フロリアンはブラッドに微笑んだ。
「もう駄目だと思った時、何処からか清らかな風が吹いて、花の香りがしたんだ。そうしたら暗闇が徐々に晴れて…気がついたら目醒めていた…」
自分より濃い緑の瞳には、僅かな蔑みも無かった。
「君の、白竜の力だよね?」
「そうなの、かな…?」
ブラッドは苦笑した。
「其方、真剣に答えぬか!」
ブランケンハイムが吠えた。
「フロリアンの病を癒す為に其方をわざわざ連れて来たのだ。でなくば、其方の様な穢れた者など、我が館に入れたりするものか!」
「お祖父様」
フロリアンが微笑んで遮った。
「何だか、食欲が戻ってきたように感じます。今なら、何か食べられそうです」
「本当かっ?!」
「あっさりした味付けの、消化の良い羹などお持ち致しましょう」
喜色満面で家令が踊り出しそうな足取りで部屋を出て行った。その背を冷やかな眼差しでリーンは見送った。
「お祖父様、落ち着いて下さい。私は弟と話しがしたいのです」
ブランケンハイムは嘆息し、椅子に腰を下ろした。
「其方、フロリアンの問には全て答えよ。嘘、偽りは赦さぬ。即座に斬り伏せてくれる」
「お祖父様、それでは会話になりません」
「ふん」
家宰が新しい茶器で茶を淹れ、主の次にブラッドの前にも置いた。
先程、家令が淹れた茶より芳しい香気に思わず笑みが溢れた。一口含んで、眼を見張った。
「美味しいです」
「お口に合いまして、宜しゅうございました」
「家宰、馴れ合うでない」
「我が主からは、なかなかお誉めの言葉を頂けないので、つい」
「公爵領の特産の茶葉なんだ。ブラッド、と呼んでも?」
ブラッドは頷いた。
「私の事はフロリアンと呼んでおくれ」
途端、険しい顔で何か言おうとしたブランケンハイムを眼で制し、フロリアンは視線をブラッドに戻した。
「…君の赤髪と瞳は…父上譲りだね」
「父?」
フロリアンは淋しげに微笑んだ。
「私の瞳は母上で、髪はお祖父様なんだよ。今のお祖父様は白髪だけどね」
フフッと笑い、嘆息を吐いた。
「ブラッドは…私達を…恨んでいない?」
躊躇いがちにフロリアンが訊いた。
「恨む? どうして?」
「どうしてって…、産まれたての卵の君を捨てたんだよ? 運良く孵化できたから良かったけれど…」
「うん。ぼくは竜達からたくさんの愛を貰ったんだ」
「竜種が魔力を与えた?」
眼を見張ったフロリアンとは対照的に、ブランケンハイムは眉を吊り上げた。
「獣の魔力で孵化しただと?! やはり伝承の通り白竜は穢れた存在なのだな!」
殺気立つブランケンハイムに、リーンはいつでも動けるよう脚に力を込めた。魔力では悟られてしまう。表情を動かさず、気を張った。
ブラッドは何度か瞬いて首を傾げた。
「その穢れた白竜に用があったのでしょう?」
「こ…の、穢れ者が…! 我に斬られたくなくば、さっさとフロリアンを癒せ!」
「お祖父様!」
「出来ません」
「忌々しい穢れ者めが! やはり、フロリアンの病は『白竜の呪い』なのだな!!」
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