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第167話

 レオンは眼を眇め、正面に座る大男を見た。夕闇色を思わせる濃い紫の瞳には、先程までの軽薄さは消え、代わりに鋭い光りがあった。 「これは極秘中の極秘だ」  大将軍アウグスト・カロッサは低い声で続けた。 「竜皇帝陛下が長患いでな」 「アウグスト様」  遮ろうとした副官を片手で制し、アウグストは続けた。 「高名な医師も究極の薬も効果が無く、昏睡状態が続いている」 「昏睡…? 一体、何の病なのだ」 「分からん」 「分からない?」  訝しむレオンに、家宰のヴォルフガングが答えた。 「皇帝陛下が病を得たというお噂は、少し前からごさいました」 「昏睡と覚醒を繰り返し、そろそろ百年程になる」 「百年…でございますか…。お噂が流れ始めたのは、ここ数年の事でございます」 「徹底的に秘匿していたのだが…。その噂はどこまで広がっている?」  アウグストが唸るように訊いた。 「公爵位の家だけにございます。家長若しくは、その継子のみと聞いております。…大将軍閣下、私が知っているのは特殊な伝手です。決して他言は致しておりません」  アウグストの殺気を孕んだ視線に、僅かに反応しかけたレオンの前にヴォルフガング庇うように出た。 「…リリエンタール公爵家の家宰の言葉は重いからな。信用しよう」  殺気を収め、アウグストは浮かしかけた腰を下ろした。それを察し、ヴォルフガングが一礼して退いた。 「それで、どうして俺の領地に兵を率いて来る事に繋がる。皇帝の病に俺は関係ないだろう」 「大有りだ」 「は?」 「お前に、皇帝暗殺の嫌疑がかけられている」 「はぁ?!」  レオンだけでなく、感情を完全に抑制している筈のヴォルフガングも大口を開けた。   ブランケンハイム公爵がブラッドを伴い、騎士団と共にリリエンタール城から去るのを見送り、エヴァンジェリンは城内に戻った。   『謀叛人』  その言葉を思い出すとエヴァンジェリンの手足が震え、固い床が泥の如く心許なくなった。  広い玄関には父が率いてきた兵士がおり、武装解除されたリリエンタール公爵家の騎士団が憤怒の表情で立っていた。  皇帝の勅命は主君より重い。  主君への忠誠と思慕を踏み躙られ、謀叛人に跪かなけばならない屈辱。  対照的に喜色満面の父。 (本当に…本当に、これで良かったの?)  エヴァンジェリンは手の中の鱗を強く握った。力を込めているのに、指先が冷え、感覚が鈍い。 (これが、本当にお兄様の…レオンハルト様のお為になるの? わたくしは…、お慕いしていたレオンハルト様の妻になる夢を叶えたかっただけなのに……)  幼い頃から憧れ続けてきた愛しい人が漸く戻って来た。  記憶よりも背が伸びていた。肩幅が広がり、手足も筋肉がつき、胸板が厚くなっていた。  青年期に入りかけていた憧れの人は、不安定な未熟さを脱ぎ捨て、大人の男性に成長していた。  長い不在の中、諦めかけていた想い。  胸を張って隣に立つ為に研鑽を積んできた。自信を持って出迎えた。  だが、彼の隣には鮮やかな赤髪の美しい青年が寄り添っていた。  愛しい人は、優しい眼差しで青年を見つめ、微笑み合う二人。  それを見た瞬間、胸の奥から湧き上がった激しい感情。 (知らない。あんな…柔らかな微笑み、優しい眼差し。知らない! 知らない! わたくしは見た事がないわっ)  エヴァンジェリンは主君の帰還を喜ぶ笑みを浮かべながら、赤髪の青年を苦々しく思った。 (レオンハルト様の隣に立つのはわたくし。伴侶の鱗を交わし、妻となるのはわたくし。突然現れて、卑しく誘惑するなど赦されない!)  だから皇帝の勅命はエヴァンジェリンの正義の後押しとなった。 (妻として並び立つのは、わたくし。正しいのは、わたくし)  そう強く思わなければ、奮い立たせねば足から力が抜けて膝をつきそうになる。 (正しい。正しい。わたくしは…正しい…)  自身に言い聞かせていたエヴァンジェリンが見たのは。  緋色の絨毯が敷かれた階段を大将軍が降りてきた。その後ろにレオン。そして大将軍の副官。    笑顔のマティアスが顔を上げ、背後の兵士が湧き立つ。公爵家の騎士団が声の無い声を上げた。  エヴァンジェリンの戦慄く唇から悲鳴が漏れた。  大将軍と副官に挟まれたレオンハルト・リリエンタール公爵の両手首に、魔力封じの手枷が嵌められていた。 「う…嘘…、嘘よ。お兄様が、どうして罪人の手枷を嵌められているの…?」  竜人族にとって魔力封じの手枷は罪人を表す。  それを公爵位のレオンが嵌められている。 「何故…何故ですのっ! 大将軍閣下、リリエンタール公爵に魔力封じの手枷など!」  エヴァンジェリンの悲鳴に似た声に、アウグストではなく副官のハーラルト・アルトマイヤーが冷やかな視線を向けた。 「小娘。発言を赦してはいませんよ」 「っ…ですが、閣下! その手枷は、あまりにも非道ではありませんか!」 「非道、ですか」  ハーラルトの薄茶の瞳には蔑みの光りがあった。 「主家に叛いたあなたが言いますか」 「わっ、わたくしは勅命に従っただけですわ」  ハーラルトは短く笑った。 「良かったですね。欲しかったんでしょう、その鱗?」  手の中の鱗を強く握り直す。 「わたくしが欲しかったのは…欲しいのは」 「リリエンタール公爵閣下の伴侶の鱗でしょう? 良かったじゃないですか。何を怒っているのです?」  周囲を見回し、マティアス・バッハシュタイン侯爵に視線を止めた。 「娘御を主君の妻にし、産まれた子を次代のリリエンタール公爵に就け、外戚となる」  マティアスが顔を強張らせて眼を泳がせた。 「でも残念でしたね。レオンハルト殿の公爵位は一代限りです。結婚してもしなくても、どの様な経緯で子が産まれても、リリエンタール公爵を継ぐ事は出来ません」 「何…だと…?!」  気色ばむマティアスに対し、ハーラルトは表情を変えずに続けた。 「勅命ですか? それが全ての免罪になるとでも? あなたは、ただの謀叛人という名の罪人です」 「謀反…? 罪人? 私が?」  遣り取りを無言で見ていたレオンにマティアスが縋り付いた。 「ごっ、御当主様っ。私は、謀反など考えておりません! 私の望みは、愛しい娘の願いを叶える事のみでございます」  レオンは無言のままマティアスを見下した。  そこ横にヴォルフガングが立った。 「兄、上…」 「其方の行為は、謀反以外の何物でもありません。バッハシュタイン侯爵家の家長の資格もありません」  ヴォルフガングはリリエンタール騎士団に向き直った。 「謀叛人並びに兵士を捕縛なさい。勇猛果敢なあなた方に武器は必要無いでしょう」 「兄上?! 何を…っ!」  動き出した騎士団を背後に、アウグストとレオン、ハーラルトは捕縛を見届ける事なく外に出た。   扉が閉まり切るまで、ヴォルフガングは深々と頭を下げ続けた。    

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