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第170話
緋色に、同色の大輪の薔薇が所狭しと編み込まれた絨毯が敷かれた部屋には、甘酸っぱい柑橘系の香りが漂っていた。
壁一面を淡い彩りの花々が咲き乱れた春色の壁掛けが覆い、円卓には大小様々の花に蝶が乱舞するレース。
甘い香りの焼き菓子と果物。
その香りの向こうから声がした。
「久しいな、異母弟よ。元気そうで何よりだ」
腰まで伸びた艷やかな青みががった黒髪。切れ長で、太陽の光りを集めたような金色の瞳。
神経質そうに爪が整えられた滑らかな手が、持っていた白磁の杯を音を立てずに置いた。
単純な動作だが、品の良さと教養の高さを物語っている。
「…ヒルデベルト皇太子殿下におかれましては、ご健勝のようで何よりです」
抑揚の無い口調で答えたレオンの両手の枷を見やり、皇太子ヒルデベルトは薄い唇の両端を吊り上げた。
「ほう。あの小さかった子供が、一端の口を利くようになったではないか、異母弟」
レオンは無表情で枷がはめられた両手をゆっくりと掲げた。
「俺を弟と呼ぶな」
リボンでも解くように、レオンは軽やかな金属音と共に枷の鎖を引き千切った。手首に残った枷の隙間に指を掛け、軽く引くと枷は固まった泥のように砕けた。
片眉を跳ね上げ、ヒルデベルトがアウグストを見た。
アウグストは両肩を竦め、無言で眼を逸らした。
「では、リリエンタール公爵、席に着くがいい」
向かいの席を示され、レオンは一拍置いてから座った。すかさず、ヒルデベルトの傍らに控えていた従者がレオンの前に茶を置いた。
芳しい香りと澄んだ琥珀色。
最高級の茶葉を惜しみなく使っているようだ。
レオンは柔らかい湯気の立つ茶に手を付けず、ヒルデベルトを見やった。
「先頃取り寄せたばかりの茶葉なのだが、気に入らなかったか?」
従者がヒルデベルトの冷めた茶を淹れたての茶と差し替えた。
それを一口含むと、おもむろに杯を傾けた。純白のレースに琥珀色の液体が広がっていく。
「美味いが、下賤な人界の臭いがするのが残念だ」
人界という単語に、レオンの睫毛が僅かに震えた。
「中央大陸の北方国の特産だ。ほんの十年前までは産業に乏しく、自滅の道を歩んでいた」
従者が合図をすると、部屋の隅で控えていた使用人達が無駄のない動きで、琥珀に染まった円卓のレースを新しい物に取り替えた。それと同時に茶や茶菓子も一新された。
「馥郁とした良い香りだろう? この茶は精霊国産でね、精霊国でしか咲かない、清らかな花を茶葉に混ぜられてある。清浄な空気と土、そして水」
黄昏時の空色の茶を飲み干し、ヒルデベルトは深い嘆息を吐いた。
「あのまま自滅させておけば、あの様な下品な茶が世に出る事は無かったのだがな」
ヒルデベルトが白磁の杯を指先で弾いた。傷どころか染み一つ無い手だ。
ふと、剣ダコのある白い手を思い出した。
竜に抉られた左眼を薔薇を刺繍した手巾で覆っても尚、隠しきれない秀麗で華のある美貌。崩れ落ちそうになる脚に必死に力を入れて踏ん張っていた。
その彼を支える褐色の肌の青年。
「…あの国は、生き残る為に必死に足掻いていた」
「愚かな前王妃は違っていたぞ。あの下賤な生まれの女は、国が傾こうが国民が滅ぼうが構わず、己の欲望を優先させていた。結果、北方地方から竜が消えた」
「……」
「まぁ獣がいくら滅んだとて、私は構わぬがな」
人身になれない竜を、昔から竜人族の中には蔑む者が多い。特に高位貴族はその傾向が強い。
口の端を歪めても麗しさを欠片も損なわない容貌に、レオンは僅かに眉を顰めた。
「…良くご存知で。貴方が大嫌いな人界の些末な事なのに」
「フッ、ハハッ。貧相な小娘の頃から知っておるぞ。欲深な眼をした、口の利き方の知らぬ傲岸不遜な小娘でな、よく訳の分からぬ事を言うておうたわ」
顎に指を当て、ヒルデベルトが眼を細めた。
「何と言うておうたか……、そう、確か『ひろいん』とか言ってたな」
「ひろいん?」
物語の女主人公の事の言い換えらしい。
「不遜にも、この世界は自分の為の世界だと豪語しておった」
ここで、初めてレオンはヒルデベルトの話に集中した。
『この世界は、全てあたしの為にあるの。あたしが幸せになる為の世界よ。あたし、貴方を知っているわ、竜の国の王子様』
「仙境を出たのか、皇太子が…?」
「何やら奇妙な魔力を持っておったから見に行ったのだ」
ヒルデベルトは茶を飲み干し、続けた。
「世界を手に入れると豪語する面白い小娘に、笑わせてくれた礼に知恵を与えた」
「知恵を? 与えた?」
「早く世界を手に入れたいと言うのでな」
仙境以外の人間を蔑んでいるヒルデベルトが手を貸した?
「退屈しのぎだ」
従者が二人の杯を片づけ、新たに硝子の杯を置いた。
「彼の国は他国を攻めるには弱くてな。主戦力の竜騎士が少ないから、誰でも乗せられる騎竜を作る方法を教えた。獣のくせに奴らは乗せる人間を選ぶからな」
呪詛塗れの黒い竜。
彼らは声にならない悲鳴をあげていた。
本来、彼らは自由だ。
身も心も。
なのに、呪詛と言う名の鎖で雁字搦めになっていた。
「お前が……」
「口の利き方に気をつけろ、異母弟よ」
笑みを消し、ヒルデベルトは別の茶葉を指さした。
無表情の従者が淹れたのは、星が瞬き始める頃の空色の茶だった。鮮やかな藍色。
一口含み、ヒルデベルトは従者に何やら指示をした。
レオンの前の硝子の杯に同じ茶を注ぎ、従者は果物の山から檸檬を取った。それを小刀で半分に切り分け、ヒルデベルトの杯に搾った。
途端、藍色の茶が、紫がかった紫陽花色に変化した。
「美しいだろう。味も香りも良い。其方の白竜が救った国の、最新の特産の茶葉だ。これはなかなか気に入っている」
従者が檸檬を搾ろうとするのをレオンは視線で止めた。
「白竜の慈悲から産まれた茶だ。味わってやるが良い」
「……まだ、俺を呼び出した理由を聞いていない」
「ふむ、理由か。そうだな、一つ訊きたい事があった。飲みながらでよい、答えよ」
「何だ」
「其方、いつまで仙境におるのだ」
「事務仕事が終わったら仙境を出る」
「そうか。ならば良い。いつまでもいられたら目障りだからな。其方の魔力は鬱陶しい」
今まで無言で気配を殺していたアウグストの目元がピクリと動いた。
「不満かな、大将軍殿」
「いえ……まぁ、そうですな。まだ、手合わせ一つしてないので」
アウグストの答えに、ヒルデベルトは眼を見開いてから可笑しそうに笑った。
「大将軍殿と異母弟は同門であったな」
「ええ。漸く戻って来たのに、早々に仙境を出られてしまったら、また機会が遠のいてしまう」
「良い良い。その茶を飲んだら手合わせでも何でも好きにするが良い。そうだ。演習場で行え。私も観戦したいからな」
アウグストの幼子の様に輝いた眼がレオンに向けられた。
圧が煩い。
「俺がいつまでいるかを訊く為だけに大軍を動かしたのか」
「大人しく召喚に応じるとは思えんからな」
「ブランケンハイム公を仕向けたのは何故だ。彼はブラッドとは縁を切っている」
「公爵の孫殿が長患いで床に伏しているのだ。原因不明で昏睡が続いていてな、白竜の所有権の優先を主張してきた」
所有権。
古来より権力者が放ってきた言葉だ。
数が激減した白竜を奪い合い、殺し合ってきた。争いは激化し、国土は荒れた。
だから所有者の優先の定義を決めたのだ。
最上位は皇帝。
次いで血族。
その血の濃さ。
だが、病で伏しているのは皇帝も同じな筈だ。それなのに所有権を主張せす、ブランケンハイムに譲った理由は……。
喉の渇きを覚え、レオンは藍色の茶を一口含んだ。柔らかな花の香りと優しい口当たりだ。
味わい、ゆっくり嚥下した。
忌々しい事に、性格に難はあっても品物を選ぶ感性は確からしい。
レオンの手から硝子の杯が落ちた。
「な、何だ…」
唐突に手から力が抜けた。
視界が揺らぎ、呼吸が荒くなった。
「…ヒル…デベルト…。貴様…」
正面の秀麗な貌が満面の笑みで茶を飲んでいた。
毒を盛られたのだ。
胃が炎の塊を飲んだ様に熱くなったのと同時に、レオンは大量に血を吐いた。
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