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第173話

 リーンは咄嗟に肩を掴んでいる手を払おうと右腕を振り上げた。  しかし、肩が岩に挟まれたようにぴくりとも腕が動かない。ならば、と力の向きに逆らわず、片膝を着いて躰を沈めて逃れようとした。  だが、外れない。  次に、相手に躰を預け、もう片方の腕を掴んで背負投げしようと脚に力を込めた。 (よし、乗せた!)  膝を伸ばそうと奥歯を食いしばった。 「動くな」  リーンの手からするりと抜けた相手の腕が絡みついた。 「そっ…その声、は、師匠っ?!」 「声を抑えろ」  暗闇の中で琥珀色の瞳が光った。  別邸の館の庭師の孫で、リーンの剣の師匠でもあるクルトだ。 「お前一人か。お方様は」  クルトの問いに、リーンは頬を強張らせ、震える手で懐から手巾を取り出した。  掌に乗せ、丁寧に開く。  拳大の、初雪のように白い球体が現れた。    つるりと滑らかで、闇の中でも虹色の輝きが分かる完璧で美しく球体。 「……お方様、です」 『白竜の呪い』   ブランケンハイム公爵の言葉に、ブラッドは首を傾げた。  呪いと白竜との間には、水と油ほど性質が離れている。  そして、何より呪う理由がブラッドの内側には欠片も無い。 (呪い? ぼくが、誰を?) 「白竜などと持ち上げられて良い気になり、驕ったか。生家の大事な跡取りを呪うとは、さすが獣腹だ!」  殺気が込められた言葉に、ブラッドはそっと眼を伏せた。どうやって誤解を解こうかと思案したが、言い訳と取られたら更に厄介そうだ。  だからといって黙しているのも悪手だ。  港の城で働いていた頃、大小様々な問題が起きた。外的、内的、人的……。  頭を低くしてやり過ごすのが大半なのだが、それでは瑕疵は無くとも罪を被る羽目になる事も多かった。  しかし、下手に口答えして貴族の機嫌を損ねると、待っているのは処刑だ。  ブラッドは視線を上げ、ブランケンハイムを静かに観察した。  典型的な高位貴族だ。  更に、傍らの護衛騎士より強い。  レオンとは違う圧を感じる。  細身のブラッドを睨めつけながらも、ブランケンハイムは内心で訝しんだ。  廃棄した筈の卵が孵化し、忌々しい事に生きていた。  筆頭公爵家から廃棄されたのだ。通常であれば、己の出生の不運を嘆き、恨むところだ。  しかし、ブラッドからは、そんな負の感情は欠片も見受けられない。 『妬心』『僻み』『嫉み』  人に対し、負の感情を持てないブラッドの、神殿育ち故の歪さをブランケンハイムは知らない。  ブラッドの中にあるのは、己に対する未熟さへの苛立ちや、身の内を不揃いな刃で斬り刻まれるような焦燥感。  そして、他責よりも自責に重きを置く不均衡な不安定さ。  それが、特権階級のブランケンハイムには奇異に映る。   (何故、怒らぬ? 何故、謗らぬ? 死ぬと承知してて廃棄された経緯を知っておろうが!)  ブラッドの静かな佇まいに背中が粟立つ。 「…っ、気色の悪い顔だ。廃棄物が仙境に戻りおって、再度廃棄されたくなくば、床に額ずいて命乞いくらいしてみろっ!」  吐き捨てるように言い放ち、ブランケンハイムは口許を歪めた。 「それでは、私の顔も気色悪いのでしょうか、お祖父様?」 「フロリアンッ?!」 「ブラッドの髪色は、亡き父上とそっくりじゃありませんか。それに、彼の髪質は私と同じ癖っ毛」   ブラッドを見遣り、フロリアンは柔らかく微笑んだ。   「凄いね」 「? すごい?」 「私は、さっきまで死の淵にいたんだ」  文字通り、死の淵を彷徨っていた。  深い眠りを誘う水底にいた。水草が絡まり、更に仄暗い底へと引き込まれようとしていた。  このまま覚醒める事なく光から遠ざかり、暗闇を彷徨い続けるのだろうと覚悟をした。  「随分と長く眠っていたんだ…。ほら、私の手足は筋肉が落ちて、こんなに細くなってしまっている。それなのに、起き上がれて食事まで取れたんだよ」  両手を握り、開いた。  力を込めて握り込む。  「息切れせずに喋れるし、躰の奥から力が湧いてくる…。これは、呪いなどではなく、寧ろ祝福なのでは、お祖父様?」 「そんな訳があるかっ!!」  ブランケンハイムはブラッドに向けた剣の柄を強く握った。 「ならば何故、其方が眠りにつかねばならぬ。筆頭公爵家の後継者であり次期宰相の其方を羨んでの呪いであろう! 今にも消えてしまいそうな程痩せ細り、魔力も枯渇しかけ、虫の息であったではないか!」  ブランケンハイムの瞳の金環の色が濃く光った。 「貴様の血肉、全てを我が唯一の孫の薬とする!!」  リーンはブランケンハイムの殺気から庇う様に立ち、丹田に力を込めた。僅かでも気を抜くと退きそうになる己を叱咤する。  そのリーンの背中越しにブラッドは疑問の視線をブランケンハイムに向けた。  自分の肉体をどうやって薬とするのか。   そもそもどっやたら薬となるのか?  その疑問にリーンが答えた。 「…古より白竜の血肉は万能薬と言われています」  リーンがポツリと言った。 「ほう。小僧、知っておったか」 「お伽噺程度の言い伝えで、真偽の程は定かではありません。今では知っている者も少ないでしょう。私は母の病を治したくて方々調べた末、その言い伝えに辿り着きました。…母の病は魔力の流れの滞りが原因で、そもそも薬では治癒出来ない。私は治療法を求め、竜人族だけでなく、古語で書かれた精霊族の書物まで読み漁りました」  ブランケンハイムは片眉を跳ね上げた。    「過去の遺恨から、竜仙境では白竜に関する書籍は薬種の専門書から子供用の絵本、走り書きに至るまで徹底的に廃棄されています」 「廃棄…」 「故に、竜仙境では白竜に関する言い伝えは『白竜を手に入れた者は覇者となる』や『白竜は幸福をもたらす』などの幸運の御守りの様な曖昧なものが殆ど」  ブランケンハイムから視線を逸らさず、リーンは言葉を続けた。 「意図的に消された史実の中に、権力者による白竜が貪り食われ続けた歴史が隠されていました。文字通り、喰われたのです」  ブラッドは息を呑んだ。 「頑健で長寿な竜人族といえど、当然寿命があり、病に罹ります。そして、権力の座に固執し、死を恐れる者も少なくありません。彼らは白竜の持つ治癒力に目を付け、真偽のはっきりしない万能薬とするべく血肉を求めたのです」  リーンの静かな口調が乱れなく続いた。 「竜仙境から白竜が消えたのは、貪り尽くされたからです」   

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