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第五話 野薔薇と少女

 結局、殆ど一睡もできないまま……夜が明け朝になってしまった。  降夜は、重い頭を振りながら宿屋の硬いベッドから起き上がると溜息を吐いた。  昨夜は色々なことがありすぎて……もう、なにをどう考えればいいのか、さっぱり分からなかった。考えれば結論が出るのかといえば、それも疑問だ。  一体これから、どうやって生きて行けばいいのだろう?今更、自分に違う生き方ができるとは、到底思えなかった。  それでも、降夜にはまだ中央教会の使者……聖職者としての仕事が残っているだけ、まだマシだと思い直した。考えるのは、後にしよう。  顔を洗って身支度を整えた降夜は、京史と雅臣に声を掛けて、朝の礼拝を手伝うために町の古びた小さな教会へ向かった。  昨日の今日で神に祈りを捧げるのは、なんだか複雑な気分だったが仕方がない。  神様に嘘つき!と喚いたところで届くはずもない。どうかアイツに天罰を!!ぐらいが関の山だ。  この小さな町が……  あの吸血鬼の生贄となるべく集められた集落だなんて信じたくなかった。  こんな不条理が許されるはずはないだろうと憤ったところで無駄なのも分かっている。  それでも、親に連れられた小さな子供達を見れば、胸が痛んで仕方が無かった。  いつか……この少女達も大人になり、あの金色をした傲岸不遜な吸血鬼の餌食となるのか。 そんな暗い気持ちでぼんやりと親子連れを眺めていると、少女が一生懸命に母親に何かをお願いしている様子が目に留まった。  一体どんなことを言っているのか、聞くともなしに聞いていると、森に入って野薔薇の花を摘みに行きたいと少女が言っているのが聞こえてきて、思わずビクリとしてしまった。    野薔薇。  昨晩見た、月光に照らされて淡く輝く白い花びらが脳裏に鮮やかに甦り、そこに立っていた眩しいくらいの金色を纏った存在を、否応なしに思い出してしまったのだ。    慌てて頭を振ってその映像を消すと、少女が泣きそうな声でお願いと、繰り返す声が聞こえてきたのだった。  森は暗いし、この時期は子連れの熊が出るので危ないからと母親が言うと、少女はつい先日死んでしまった小鳥のお墓に、綺麗な花を供えてあげたいのだと言って……とうとう泣き出してしまった。   「……ねえ。お母さんが言うように、森の中はとっても暗いし危ないんだよ?お花なら他にも綺麗なのが…ほらここにも一杯咲いているよ。それじゃあ駄目なのかい?」  降夜はそう言って、泣いている少女の傍に膝をついてそっと髪を撫でてやった。  降夜の声に吃驚した顔をして目をパチパチと瞬かせた少女は、声を詰まらせながら、白いとても綺麗な小鳥だったから、白い小さな野薔薇の花をあげたかったのと言った。 「……そっか。じゃあ…俺が君の代わりに森に行って花を摘んで来てあげる。だから君はお家で待っているといいよ」  降夜は、そう言ってニッコリと笑った。  少女は本当?と声を弾ませて漸く泣き止んでくれた。  少女の母親は、申し訳なさそうな顔をして本当にいいのですか?と聞いてきたが、降夜はこれくらいならお安い御用ですと言って、森へ向かったのだった。  本当なら、森になんて二度と行きたくなかった。  でも……少女が泣いていたから思わず約束してしまった。降夜の双子の妹達。あの二人を思い出してしまったから。  降夜を拾い、育ててくれた……優しい両親の本当の子供達。  十歳で吸血鬼に奪われてしまった、大切な双子の姉妹。  幼い彼女達のお願いを聞いてやることが降夜はとても好きだった。  頼られている……愛されていると実感できる、その幸せな時間を奪ったのは、忘れもしない、降夜が十五歳になったばかりの蒼褪めた満月の夜のことだった。  物思いに沈んだまま、ゆっくりと森の中ほどを過ぎ……昨晩あの不愉快極まりない吸血鬼と対峙したその場所に近づくと、ふわりと薔薇の甘い香りが漂ってきた。  ああ……やっぱりあれは、夢ではなかったのか。  降夜がそう思って野薔薇の繁みに近づくと、そこに……木の根元に寄りかかって、すやすやと眠る金色の髪をした、見覚えがある男の姿を見付けて、ぎょっとして思わず息を飲んだ。  な……!なんでここに?ていうか……今、昼間なんだけど……!  声には出さずに、心の中で降夜は叫んでいた。  何故なら……昨晩は、月の光が降り注いでいたそこは、今は陽の光が穏やかに差し込む日向ぼっこにうってつけの、とても日当たりのいい場所なのだから。  だが、彼は……吸血鬼だ。夜の闇に生きる者だ……  それが、どうしてこんなところでうたた寝なんてしているんだと、降夜は思わず頭を抱えたくなった。  昨晩も、何度もあり得ないと思ったが、銀の刃も聖水すら効かない化け物だと思い知ったが。まさか……日向ぼっこする吸血鬼がこの世に存在するなんて、出鱈目にもほどがあるだろう。  唸り声の様なものを思わず上げてしまった降夜に気が付いたのか、男の瞼が持ち上がり黄金色をした男の目が回りを見渡すように動いて、自分を凝視する降夜を見付けて、ニヤリと笑った。 「……よう。随分と早かったな…?二、三日は待たされると覚悟していたんだがな…意外と思い切りがいいというか、諦めがいいのか?まあ、どうでもいいか。どうした?こっちに来いよ。今更怖気づいたんじゃねえよな?」 「一体何を言っているのか、さっぱり分からないんだけど?君に怖気づくとか…勝手に決めつけるのは止めてくれないかな?昨日散々人を馬鹿にしておいて、今日も喧嘩を売る気なの?君って…」  訳の分からない事を言って来た男に対して、呆れた顔をした降夜を男は訝し気に見ていたが、何か物音でも聞いたのか……さっと森の奥の方へ顔を向けると、小さく舌打ちをしてお前はここで待っていろと言いおいて、いきなり駆け出した。 「ちょっと!一体何なんだい?待てよ…!」  慌てて男の後を追ったが、足場の悪い森の中を信じられないスピードで駆ける男は、あっという間に降夜の視界から消え失せてしまった。  なんとか男を追いかけて、降夜が彼に追い付いた時には、倒れた……恐らくは町の人間らしい人物。そしてその傍に膝を付く男の姿と、黒い大きな獣の後ろ姿がゆっくりと森の奥へと姿を消すところだった。 「……ねえ?一体どうしたの?この人は誰だい…?」  倒れた男を抱え起こして、怪我の具合を確認している吸血鬼に声をかけると、怪我をした男が代わりに答えてくれた。  薬草を採りに森に入ったところ、運悪く子連れの熊に出会ってしまって逃げたが足を爪で抉られ、もう駄目だと思ったところをこの吸血鬼……男は領主様と呼んでいたが、に助けられたのだと言うのだ。 「この時期は、子供を連れた熊が出るから森の奥には入るなと言ってあるだろうが…!なんでこんなところまで来るんだよ?死にてえのか馬鹿が!」  そう言って、腕に抱えた男を怒鳴りつけると、降夜を振り返り、手当ては出来るかと聞いてきたので応急手当ぐらいならと、熊の爪で抉られた男の脹脛の傷を見て、持っていた簡易救急セットで消毒と血止めをしてやった。後は医者が診れば大丈夫だろう。 「本当に助かりました。ありがとうございます…領主様、神父様。うちの母が…風邪を引いたのですが、医者の薬よりも、子供の頃から飲んでいる薬草を煎じた物が良いというものですから…薬草を摘んでいる内に、夢中になってしまったらしく、うっかり深い処に来てしまいました…これからは、気をつけます。申訳ありませんでした」  そう言って、ぺこりと頭を下げる男を見て、吸血鬼は苦笑を浮かべると、本当に気を付けろよと言った。そして、じゃあ……これは大事なもんだから落とさないようにしっかり持って帰れよと、地面に散らばった薬草を拾い集めるのを手伝ってくれたのだった。  吸血鬼は男の腰に、集めた薬草を詰めた袋をしっかりと結びつけると、町まで送って行ってやると言って、いつの間に現れたのか……銀色の毛並みの大きな狼に男を背負わせて、町の医者の家まで送ってやれと声をかければ、狼は静かに男を運んで森の出口へと歩き出したのだった。 「……ねえ、あの狼は君の使い魔?昼間でも実体があるの?」  なんて不思議な……あり得ない光景だと思って、降夜は溜息を吐いた。  吸血鬼の使い魔が、こんな昼の……太陽の光の中を人を背中に乗せて町を歩くなんて馬鹿々々しくって…笑えると思った。  人に害をなす人類の宿敵が……人を助けるなんて…… 「ああ…アイツは前の主人の力を受け継いでいるからな。始祖吸血鬼の使い魔だから特別なんだ。今は、俺がアイツの主人だが…名前はそのまんまにしてある。シルバーっていうんだ。毛並みが銀色だからな!分かり易くていいだろう?それよりお前…伝言を聞いてこの森に来たんじゃねえのか?」  降夜の複雑な気持ちなんて気付いてないのだろう。  黙り込んだままの降夜を見て首をかしげていたが、男……清涼は、お互いの話に食い違いがあることに漸く気づいたらしく、そう言って不機嫌な顔をしたのだった。 「伝言?なにそれ…?聞いてないよ。俺は女の子に頼まれて、野薔薇の花を少し貰いにきただけだよ。あんなに沢山咲いているんだから…少し摘んでいってもいいよね?」 「……伝言を聞いていない上に…なんだそれは!女の子?そりゃあ誰だ?お前…昨日俺が言った事、覚えてねえのか?お前は俺のもんだって言っただろうが!」  降夜の言葉に、額に青筋を立てて……聞いた覚えのないことまで言い出した男を見て、心底うんざりした。いや、呆れ果てた。  一体いつ、俺が君のものになったんだい?  昨日の事は当然覚えているに決まっているじゃないか……!覚えていないと、本気で思っているのかコイツは……!あんな事を言われて……俺が……どれほど恥ずかしい思いをしたのか分かってない上に、そんなことまで言うのか! 「……あのねえ…本当に色々とありえないんだけど!あと、あの女の子に手を出したら…殺すよ?あんなに小さな子に君みたいな野獣が近づくなんて、ゾッとするね!本当に止めてくれよ。とにかく、俺は花を摘んだら帰るからね!分かった?」  降夜はきっぱりそう言い切ると、手許にある白い野薔薇の花を摘み始めた。  なんだよ……そんなに怒る事ねえじゃねえかと、ぶつぶつと呟く声が後ろからしたが綺麗に無視した。  さっきまでの、傲慢な態度は消えて……今はまるで小さな子供が拗ねているみたいな態度で降夜の隣にぶすっとした顔のまま座っている男をちらりと眺めて……本当になんなんだコイツはと思った。  おかしな男だ……  笑いを噛み殺して降夜は黙々と花を摘むのだった。 「よし。これで十分かな?」  小さな白い花を、持ってきた糸と針を使って……繋いで小さな花輪を幾つか作ってみると、思っていたよりも上手く出来たので満足気に微笑んだ。  昔……双子の妹達の頭に乗せる花冠をよく作ってやっていたが、まだ腕は落ちていないようだ。 「へえ…!お前、器用だな…これなら小さな子供は喜ぶだろうなあ…」  降夜の手許を、不思議そうに覗き込んでいた男は、出来上がった花の輪を見て目を丸くして感心した声を上げた。    不思議な……時間だった。  失った大切な時間を彷彿とさせる……穏やかな時を、その大切な者を奪った吸血鬼と共に過ごすことになるなんて信じられなかった。  それでも……降夜は、自分の隣に座って花の輪を作る手許を、まるで子供のような無邪気な顔をして覗き込む男を……清涼を追い払おうなんて、微塵も思わなかった。  何故だろう……?  自分で自分の気持ちが分からなくて、途方に暮れるのは……この男に会ってから一体何度目だろうか。  出来上がった小さな花輪をハンカチで包み立ち上がると、パタパタと、黒い影が目の前を横切ろうとするのが見えて思わず避けると、それは降夜の隣に座っていた金色の頭の上に勢いよくボテッ……と音を立てて落ちた。 「……っ!お前は…!なんでいつまで経っても着地が下手くそなまんまなんだよー!こら、もがくな!髪に絡まって…痛えんだよ!」  いててて……!と間抜けな声を上げる清涼の手に掴みあげられたそれは……掌に隠れる位の小さな蝙蝠だった。キーキーとか細い声で鳴き声をあげるそれを、睨みながら溜息を吐く男の顔が…… 「……っ…ぷ…ふはははは!ボテッ…!って落ちたよね?音したよね?君…使い魔の蝙蝠に…頭に墜落されたの?あはははは…!間抜けすぎるよ…おかしすぎるよ!ねえ…本当に君…面白すぎるんだけど!」  降夜は耐え切れずにしゃがみ込んでお腹を抱えて笑い転げた。  今まで……こんなに笑った事なんてなかったと、笑いながら気づいた。  ずっと苦しい事、悲しいことが胸を塞いでいたから……  心から笑ったことなんて、あの日から一度もなかったのに……   「…降夜?お前…」  泣いてんのかと、そっと囁く声がして、恐る恐る伸ばされたその手は……降夜の頭をゆっくりと撫でて、降夜が身体の中から絞り出すみたいにして流す涙が止まるまで……そのままでいてくれたのだった。 「……妹がいたんだ…双子の…五歳年下で生意気なことも言うし、我儘を一杯言って来るし…甘ったれでさ…いっつも俺の後ろを一緒にくっ付いてきてね…可愛かった。とっても、とっても…心から愛しいと思っていたんだよ…」  降夜はそう言って、少し微笑んだ。  あの子達を思い出すとき……どうしたって悲しい気持ちが先に立ってしまい、彼女達の話をしなくなって随分と長い時間が経っていた。久しぶりに思い出す双子の顔は……笑顔だった。  我先にと、降夜に話しかけようとする一生懸命な……降夜が好きだった、可愛らしい顔だった。 「……そうか」  そう言って、降夜の話に相槌を打つ男の表情は柔らかい。  それで……?降夜を促す声も優しかった。だから降夜は話した。自分が犯した罪の話を……  「でも…俺が十五歳の時…吸血鬼に攫われてしまったんだ。青い…美しい満月の夜だったよ…古い吸血鬼の伝説が残る街の宿屋で、俺と一緒に眠りたいといったあの子達の願いを俺は聞かなかった…ベッドが狭くなるし、煩いし…たまにはゆっくり一人で眠りたいと言って、あの二人だけで眠らせたんだ。俺が…一緒に居れば…あの子達は、今も両親の許で幸せに…笑って…いられたんだ…!」  深い後悔……  吸血鬼への憎しみの根源にあったものは、あの夜幼い妹達の願いを聞いてやらなかった事による、重く……苦しい自責の念だった。  地獄の業火のように……決して消えることのない激しい焔のように……  いつだって、どんな時だってこの胸を焼いて、焼き尽くそうと……痛みを与えることを諦めはしない。  痛みはいつだってすぐ傍にある。  降夜にその罪を思い出させる為に……   「……お前のせいじゃねえよ。例え…お前が一緒にいたところで…どうにも出来なかった。だから…もう自分を責めるのはよせ…そんなに自分を追いつめたら、いつかお前は壊れちまう!そんなの俺が許せねえ。いいから憎め。俺を、吸血鬼を…恨みつくせばいい。なあ…俺のものになれよ…いつか…お前が自分を許せるようになるまで、俺が見ててやるからよ…気が済むまで俺を殺せばいい。殺せなくても…殺せ…!」  まるで……泣きだす寸前の子供の様な顔で告げられた、男の言葉に降夜は小さく笑った。  降夜が自分を許せるようになるまで、殺せばいい……だって?殺せないのに……殺せって……おかしなことを言う男だと思った。  なんて変な吸血鬼なんだろう?  君は……なんておかしな男なんだ……  「死にたがりの吸血鬼なんて…本当に、君は変わっているね?いいよ。俺が君を殺してあげる。何度でも、何度でも…君が死ぬまで…殺してあげる…」  微かに笑いを含んだ声で、降夜は吸血鬼に答えを告げたのだった。

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