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第七話 森の館

 目を開けると……そこは見たことがない部屋だった。 「え…?なんで……」    そう言えば……昨日の夜に京君が大変なことになって……あ、自分も大変な目に遭ったんだった。いや、そうじゃなくて……!  降夜は混乱しながら、頭の中で昨晩起こった出来事を思い返した。  そうか……!あれから俺は眠ってしまったのか?  それじゃあ、ここは……  薄暗い部屋を横切り厚いカーテンを引けば、目の前には鬱蒼と木々が茂る森が広がっていた。ここは、吸血鬼が住む森の館だ。降夜はそれに気が付いて漸く身体から力を抜いた。  気づいたら、知らない部屋で寝ていたとか。怖すぎるんだけど……!  後で清涼に文句を言わなければ。 「それにしても……」  降夜は自分が先ほどまで眠っていたベッドや、部屋に置かれた調度品を見回して首を傾げた。来客用の部屋にしては、随分と広いような気がしたのだ。しかもよく見れば置かれた品物一つ一つが非常に趣味の良い、高級品ばかりだと気付き、思わず顔を顰めた。  これが、来客用……予備の寝室だとしたら、この館どれだけ広いんだよと内心で焦ったのだ。吸血鬼の癖に、なんて豪華なところに住んでるんだよ……!  降夜が、そんなことを考えていると、パサパサ……という小さな羽音が聞こえて、ボテッ!と頭の上にそれは落ちて来た。 「あ…!君は…フォール君!」  降夜がその小蝙蝠に気づいて声を上げると、キーと小さな鳴き声を上げて、ジタバタと頭の上でもがくと降夜の髪を掴み損ねた小蝙蝠は、今度は床にボトッと落ちた。 「……えー?君…大丈夫…?」  降夜が、床でピクピクしている小蝙蝠を、そっと拾い上げてやると、降夜の掌の上でフォールは、キーキーと何かを言った。  勿論降夜には彼が何を言っているかは、さっぱりわからない。  でも、多分文句でも言っているのかもしれないと思って、苦笑した。 「もしかして…俺の髪…掴まり辛かったの?大丈夫…?痛くない?」  降夜は、小さな蝙蝠にそう聞いてみた。言葉はきっと通じるだろう。そう思ったのだ。  小蝙蝠は、またキーと声を上げた。大丈夫……と言ってるのかな? 「でも…丁度良かった。君のご主人はどこかな?案内してくれるかな?」  降夜は、小蝙蝠にそうお願いしてみた。  この館を手当たり次第に探すよりも彼の使い魔に聞いた方が早いと思ったのだ。  降夜の言葉に、丸いつぶらな瞳でこちらを見つめた後、小蝙蝠はパッと、着地の鈍臭さに似つかわしくない、滑らかな動きで宙へ飛び立つと、降夜の頭上をクルクルと旋回して、ついてこい……みたいな動きをした。 「分かった。君の後を…ついて行けばいいんだね?」  降夜は部屋のドアを開けて小さな黒い生き物を追って歩き出した。  廊下に出ると、やっぱり全体的に薄暗かった。  まあ、吸血鬼の根城がピカピカに明るいとは、流石に思ってはいなかったけれども。 「あ…れ…?思ったよりも、そんなに広くないじゃないか……」  先ほど考えていたように、あの部屋は予備の寝室ではなかったらしい。  場所的に考えて、どうやら主寝室のようだ。  館の主が何故、降夜を寝かせておくのにわざわざ一番いい部屋を選んだのかは、聞いてみないと分からないけれども……廊下から見る限り、この館は迷子になりそうな程大きくはない事が分かって少しホッとした。  吸血鬼の館で迷子……!どう考えても死亡フラグだ。どんな化け物が潜んでいるか分からないもんね。  降夜は心の中でそう呟いたが、多分それはないということも分かっていた。    吸血鬼の住んでいる所にしては、薄暗さだけは別として、普通の館と大して違いがなさそうなのだ。  もっと、こう……如何にも怪しい奴が住んでいます。みたいな胡散臭さが全くない。  非常に住み心地がよさそうな、ここは結構気に入った。  降夜が寝ていた部屋を出て右に曲がり、突き当りの扉の前で小さな蝙蝠は、キーと小さく一声鳴いて、その場でクルクルと飛び回った。 「うん?ここ…かい?フォール君ありがとう。助かったよ」  降夜は、自分を案内してくれた小さな蝙蝠にお礼を言った。  それに対して小蝙蝠はまたキーキーとなにか返事をした後に、自分たちが来た廊下を戻って行った。  一体何処に行くのかちょっと気になったけれど、とにかく清涼に会うのが先だと降夜は扉に向き直った。  あ。鍵とか掛かってるかな?  一瞬そう思ったが、あの男の性格を考えると、多分掛かっていない可能性の方が高いと思い、ドアノブを回してみれば……やはりそれは素直に回ったのだった。  いや、人の事言えないけどさ……  なんで、同じ館にバンパイアハンターが居るのに、鍵かけないんだ……?   まあ、正確には元見習いだけど。  やれやれ……降夜は呆れながら扉を開けて部屋へ入った。      その部屋は、厚いカーテンが閉め切られていて、やはり薄暗かった。  扉を入ってすぐ左手に天蓋付きの大きなベッドがあったので、多分部屋の主はそこでお休み中なのだろう。  さっき外を見たときに、太陽が大分上の方にあったから、吸血鬼は普通寝ている時間なのだろう。    それにしても……さっきまで自分が寝ていた部屋とは、随分と様子が違う事が気になった。  なんていうか……  そう、この部屋だけが、なんだか館の雰囲気とちょっと違う……みたいな感じを受けた。  それは、きっとこれの所為だろう。降夜はそう思って、その違和感の元へと近寄った。  家具は、必要最低限のもの。ベッドと書き物用の机と椅子……それ以外は、全て本棚だった。  ほぼ壁一面が本棚に埋め尽くされたその部屋は、さっきまで自分が寝ていた部屋と、大きさ自体はあまり変わりはなさそうだ。  ただ、その本棚に納められた本がとにかく大量で、とても落ち着いて寝られそうにない雰囲気を醸し出しているのだ。  一体どんな本が収められているのか?  ちょっと興味があったので、主が寝ていることをいいことに、降夜は手近な場所から一冊抜き出して読んでみようとして、タイトルがない事に気が付いて首を傾げた。  背表紙の中央に書かれているのは、どうやら日付らしかった。それも……相当古い。 「ん…と。なんだろう…?タイトルもないし…あ…!日付が書いてある…教会の日誌みたいなものかな…?」  中身をぺらりと見てみれば、手書きの文字。  これは、おそらく……教会の日誌ではと当たりをつけたのは、降夜を育ててくれた養父が神父だったからだ。  夕食の後に教会に訪れた人の数や、その日に話した説教の内容などを、床の上で転げ回っている……双子の妹達を眺めながら、養父が台所で書いていたのを降夜は懐かしく思い出した。 「もしかして…これ…全部日誌…なのかな?一体何百年分…あるんだ?」  呆然と……壁一面に納められた書物を眺めて、降夜は呻いた。  なんで、吸血鬼の寝室にこんなものが?  それを疑問に思うのは当然として、さらにその本棚のなかに、信じられないものが収まっていることに気づいて目を見開いた。 「……えっ…う、嘘…だろ…!」  なんで……?どうしてこんなものが……?   「う…ん…お…?降夜か…もう朝か…おはよう。昨日はよく眠れたか?」  降夜が騒いだせいで、目が覚めたらしい。  清涼の寝惚けたような声に、漸く我に返った降夜は後ろを振り向いた。  天蓋から下がった布を、掻き分けるようにして金色の頭がぬっと突き出て、笑顔で朝の挨拶をしてきた。だが、香也が不審そうな、不安そうな顔をしていることに気が付いたのだろう。 「どうした…?なんか困ったことでも…ってなんだ?そんなの見てたのか?読んでも面白くねーだろ?本だったら、ここじゃなくって一階に沢山あるぞ?」  降夜が手にしていた日誌を見て、顔を顰めると、それを元の場所に戻して一階まで案内するぞと言ってくれたのだった。   「う…ん。それは、是非とも見てみたいけどさ…それよりも、ねえ…なんでここに、こんなに沢山の教会の日誌があるの?あと…あれ…!どうして…悪魔祓いの教本があんなに沢山あるわけ?相当古いものみたいだけれど…」  降夜は、清涼にさっきから気になっていることを問いただした。  そうなのだ。どう考えても普通の家にすらあるはずのない……中央教会が、エクソシストの為に発行している、悪魔祓いの教科書が、よりによって吸血鬼の寝室の本棚に収まっているのか?降夜はさっきから言いようのない不安を覚えていたのだった。 「うん…?ああ…教会の日誌は、昔教会が火事で焼けた時に、新しく建て直すまでの間預かってたのが最初で…その後返したんだけどよ。やっぱり年数が経つと随分と溜まるだろう?昔は定期的に処分してたんだけどな…せっかく毎日村の…今は、町だけどよ。色んな人達との付き合いをその時の神父が一生懸命書いてるもんだろう?焼き捨てるのが、なんか嫌でな。だから…古いものを俺が引き取ってるんだ。随分と、長い事集めてるから…こんな量になっちまった」  清涼は、そう言って、少しだけ懐かしいような顔で一番上の方……恐らくは、相当昔に書かれたらしい日誌を眺めた。  吃驚した。  いや……今までも散々この男には驚かされっぱなしだったが。これは……流石に想定外だ。 「……そうだったんだ。古い割には…随分と保存状態がいいみたいだけど…それでも、もう読めないものも沢山あるんじゃない?それでも…君には取っておく意味があるんだね?それじゃあ…あの悪魔祓いの教本は…もしかして、昔…教会にいたエクソシストの持ち物ってわけかい?」  降夜はそう当たりをつけて、清涼に尋ねた。教会の処分される日誌を引き取るような物好きな男だ。それなら、教会のエクソシストが死んだから……引き取り手のない、この教科書も引き取ったのではないかと思ったのだった。 「ああ。この館自体に魔力が掛かっているから、外にあるよりは、本の痛みが少なくて済んでいるのは確かだな。それでも、七百年は長い。もう…書いてある文字は流石に読めねえだろうな。でも…いいんだ。お前の言う通りここに在るだけで、いいんだよ。それとあの悪魔祓いの本はお前が想像した通り、あの教会に居たエクソシストの物だった…な。今お前の目の前にいる男が昔持っていた本だ…」  清涼は、そう言って降夜の反応を確かめるようにじっと見つめた。  降夜はそれを聞いて……頭の中が真っ白になってしまったので、今自分がどんな顔をしているのかさっぱりわからなかった。  今……なんて言った……?  エクソシスト……祓魔師……だと言ったか?  誰が? 「……ねえ…俺の聞き間違いだよね…?君…が昔エクソシストだったなんて…あるわけないよね…?」 「聞き間違いじゃねーよ?お前だって知ってるだろ?生まれつきの魔族は稀っつーか殆どいねえんだよ。大体吸血鬼なんて、昔っから元人間の悪魔の代名詞じゃねーか。俺が昔人間だったのがそんなに意外か?まあ…俺の場合は、先祖に人狼の血を引く人間がいたらしいから、純粋な人間だったってわけでもねーんだけどよ。それでも、昔はお前と同じ人間だったんだぞ?」  降夜の、縋るような……どうか聞き間違いでありますようにという願いは、やはり神には届かなかったらしい。  清涼は、きっぱりと言い切った。お前と同じ人間だったのだと。 「……いや、あのね…百歩譲って元人間はなんとか納得するよ?でも…君…エクソシストだったの!?なんでまた…悪魔と敵対してた人間が…吸血鬼になんてなったのさ!しかも…七百年も生きてる吸血鬼で元人間なんて…聞いたことないよ!たしかに、元人間の吸血鬼の方が数が多いだろうさ…でも…」  降夜はそこで、躊躇って口を噤んだ。  そんな降夜の気持ちに気づいた清涼が、苦笑した。まあ……言いたい事はわかるぞと言って、気にするなと降夜の頭をポンポンと軽く叩いた。  何故俺が宥められているんだ……?降夜は思わず清涼の顔を見上げた。  自分を見下ろすその金色の瞳は……なんの翳りもなく、相変わらず澄んで美しい。  そこには、かつての同族を糧に生きなければならなくなった者の、悲哀も葛藤もない。  それが……悲しいと降夜は思う。  七百年前には、この男は自分と同じ立場で人間を守っていたという。悪魔を憎み、神への信仰を胸に、正しく生きようとしていたのだ。  それが……何故?  降夜には、想像もできないのだった。  自分の為に人間を生贄に捧げられることに、傷ついたりしたことは無かったのだろうか?それとも……人間で無くなった瞬間から、そんな心など失ってしまうのだろうか。 「じゃあ…図書室に行ってみるか?結構な量があるから…当分退屈しなくて済むぞ?欲しい物があれば…俺に言えばいい。ああ…お前の荷物は後で宿から届くからな。服は…適当に俺が見繕って買ったから…それも明日か…明後日には届くぞ」  思わず黙り込んでしまった降夜の顔を覗き込んで、清涼がそう言った。  だから、降夜も思い悩むことを止めた。考えても仕方のない事なのだ。 「うん。ありがとう。それにしても…図書室まであるの?なんかもう…意外すぎてどこから突っ込んでいいのか分からないよ!君がそんなに読書家だなんて思えないから…それも、前の主から受け継いだんでしょ?館の中の調度品の趣味も驚くほど洗練されているよね…絶対に、君の趣味じゃないよね?」  だから、降夜は特に気を遣うこともなく普段通りに答えを返した。  なにもかもを乗り越えた……あるいは失ってしまった男に半端な同情なんて出来ないと思った。  降夜はまだ十八年しか生きていないのだ。  おまけに……この男と出会ってまだ三日も経っていない。なにもかも……分からない事だらけだ。  だから……いい。  この目の前で降夜に貶められたことに、不満げな顔をする……金色の男のことは、これから知ればいいだけなのだ。  優しくて、妙に親切な……変わった吸血鬼と暮らす森の館での生活は……  案外降夜にとって随分と居心地の良い、快適な暮らしになる予感さえするのだった。

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