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第十三話 死にたがりの吸血鬼

 男の手が自分に伸ばされるのを見て、降夜は静かに瞼を閉じた。  もう……なにも考えたくはなかった。  そう……だったのか。あの眼差しの……言葉の意味は……全て……  考えたくないと思っているのに、心は軋んで悲鳴を上げ続けた。  嫌だ……考えたくない。降夜は静かに涙を溢れさせた。  なんで……! 「降夜!!大丈夫か?千駕!この野郎!降夜に触んなって俺が言ってるのがどうして分んねーんだよ!!」  突然、清涼の声が響き渡り……驚いて目を開けば、ベッドの上で降夜の頬に触れている千駕の呆気にとられた顔と、怒りに顔を真っ赤にしている清涼の顔が見えた。  どうして……?驚く降夜の目の前まで、のしのしと清涼が近づいて来た。  そして、千駕をひょいっと、まるで猫かなんかを掴むみたいにしてぽいっと投げ捨てた。 「……っててて…!おい!清涼…!お前なあ…!人の事を物みたいに扱うなんて、失礼にもほどがあるだろう!それに、ちゃんと合意の上なんだぞ?降夜に聞いてみろよ!」  床に投げ落とされた千駕がそう言って、なあ?と降夜に相槌を求めてきたので、仕方なく頷けば……清涼は、さらに額に大きな青筋を立てた。 「うるせえ!降夜が良いって言っても、俺が駄目と言ったら駄目に決まってるだろうが!殺されたくなけりゃとっとと出ていけ、このゴミ虫野郎が!!二度と降夜の前に姿を現すんじゃねー!」  分かったなと、声を荒げて拳を振り上げたので……やれやれと千駕は溜息を吐いた。 「全く…相変わらず自分勝手な男だな!ま…せいぜい降夜に寝首をかかれないように気を付ける事だ。そろそろ…夜も明ける…宴もお開きになることだし、帰ることにするよ。降夜…この野蛮で気の短い男が嫌になったらすぐに俺に声をかけてくれよ?こんな奴より俺の方が断然いい男だろう?」 「いいから…!とっとと出ていけ!この…便所虫野郎!!」  千駕の軽薄な言葉に、さらに怒りの咆哮を轟かせる清涼を煩げにチラリと見て……降夜に笑顔で手をひらひらと振りながら、男は煙の様に姿を消したのだった。 「……どうして…?」  降夜は目の前で怒りに鼻息を荒くして、千駕が消えた方向を睨み付けている清涼に問いかけた。  なんで……?どうして……助けに来たの……?  言葉は、喉に詰まって嗚咽が零れた。 「……大丈夫か…?あいつに…千駕になにかされたか?全く…油断も隙もねえ!やっぱりフォールをお前に付けておくべきだったぜ。アイツを…千駕を見張らせていたんだけどよ…いくらなんでも、なんにも言ってこないのが変だなって気付いたらよ…フォールの奴…庭の端っこで眠っていやがった!千駕の奴にやられたんだ…まさか、使い魔にまであいつの力が効くとは思ってなかったから、かなり焦ったけどよ…!お前が無事で…本当によかった…!心配したんだぞ?」  降夜を抱き寄せて、清涼はもう大丈夫だからな……?そう言って、危ない真似はもうすんなよと囁いた。 「……俺…呼んでないよ…?君に、助けてって言ってない…!なんで?どうして…!自分から…彼をこの部屋に呼んだって知ってるでしょ?結界が破れてないんだから…分かるでしょ?それなのに…なんで来たの!呼んでないのに…どうして…!」  降夜は叫ぶと……更に涙を溢れさせた。  助けに来てくれて嬉しい。以前だったらそう言っていただろう。  でも、彼から……千駕から、あの話を聞いた今は、降夜はそれを言う事が出来なかった。  降夜のいつもとは違う態度に清涼は驚いた顔をしたが、それでも降夜の身体を離さなかった。  どうした……?心配そうな顔で、取り乱す降夜に訳を聞いて来たのだった。 「どうして…?こっちこそ、聞きたいよ!なんで…?自分で殺した癖に!自分の…恋人を…殺して…それなのに、どうしてまた…同じ姿をした俺をここに連れて来たんだよ!やっぱり…殺してしまってから、後悔したの…?寂しくなった…から?ふざけんな…!誰かの身代わりなんて…そんなの嫌だ!そんなの…」  酷すぎるよと言って、降夜は男の胸に縋り付いて泣き続けた。  わあわあと……子供のように喚き散らして、拳で男の胸を叩いた。それでも、清涼は降夜を離さなかった。 「……そうか。千駕から…聞いたんだな?確かに…降夜は…あいつは俺が殺した…もう…随分と昔の話だ。それを後悔しない日は…なかった…殺したくなんて…死なせたくなんて…なかった…」  ぽつりと零された…囁きは濡れていた。  泣いて……いた。  清涼は降夜を胸に強く抱きしめたまま身体を震わせて……ごめんなと言った。  それは……今まで聞いたことが無い位に、弱々しい声だった。  それが降夜の心を深く深く抉る。  こんなにも……深い喪失と悲しみから流される涙は……自分の為ではないのだから。  唯一人……そう言った癖に……降夜はまた静かに涙を流した。    長い時間が過ぎたようだった。  時間の感覚なんて……あまり当てにはならないけれど。  それでも、降夜の涙が止まる頃には清涼も、もう泣いてはいなかった。 「……もう夜が明けちゃうね…?ねえ…清涼…君は知ってた?俺はね…君が例え俺の事を、ただ血を飲むためだけの…血の容れものとしか思ってないとしても…それでもいいと思って、ここに来たんだよ。君が…好きだった…吸血鬼でも構わないと思うくらいに…君が好きだったよ…」  降夜はそう言って、陽の光に輝きだした窓辺に歩み寄ると男を振り返った。  泣いたからか、それとも朝日が眩しいのか……清涼は目を瞬いた。 「……降夜…?」  突然の告白に、男は目を瞠って……戸惑いながら降夜の名を呼んだ。  一体何を……?そう思っているはずの男に降夜は別れを告げた。 「さよなら……」  囁きと共に、隠し持っていたナイフを喉に当てた降夜を見て……男の表情が凍り付いた。  よせ!何をする……!叫びながら駆け寄る男の手より先に…… 「降夜!!」  降夜は、床に座り込む清涼の腕に抱かれていた。  ナイフは……床に突き刺さっていた。  二人のすぐ傍に、銀色の美しい狼が寄り添うようにして寝そべっていた。  降夜が自分の喉を掻っ切るよりも先に、それを防ごうと伸ばされた清涼の手よりも早く……シルバーという名のこの使い魔が、降夜の手からナイフを払い落したのだった。   「……あーあ…!シルバー…君の事を忘れていたよ…まさか、俺の影に居るなんて思ってなかったよ?そうか…君はいつも、突然現れる…そう思っていたけど。なるほどね…影の間を自由に行き来できるのかい?参ったなあ…本当に困っちゃうよ…」  力なく笑って降夜は自分を抱く男を見つめた。そして……清涼も降夜を見つめていた。  金色の瞳は……とてもとても怒っていた。声を出すことが出来ない位に。   「なんで…?って聞きたいの?そうだね…俺はもう…君を殺してあげることが、出来ないからだよ。殺せないよ…死んで…彼の傍に行きたいかい?それなら…他の人間を当たってくれよ。俺には無理だよ。言っただろう?君が好きなんだ。他の誰かに…例え死んだ相手にだろうと…渡したく…ないよ」  降夜はごめんね……そう言って清涼の金色の髪を撫でて自分から口付けた。  もう終わりにしよう……そう囁いて、自分を見つめる金色の瞳を見上げた。  半年……短くはない時間を、一緒に過ごしたこの男との別れはとても辛かった。  それでも、自分の気持ちを自覚してしまった以上……今まで通りになんていられないことも分かっていた。  あくまでも、自分は彼の血の花嫁で……この館に最初に来た日から、今も降夜の純潔は守られていた。  彼の望む純潔の血を捧げ続ける、血の容れものでいることなど……もう嫌だと思ったのだ。  それなのに…… 「……お前に殺されるなら…いい…そう思った。なあ…なんで俺が…そう思ったか…知らねえだろう?もう二度と…あんな思いをするのが嫌だったからだよ…!お前に置いていかれるのが…嫌だったからだよ!それなのに…また、お前は…!頼むよ降夜…あんなこと…もうしないでくれよ!お前を失うかもしれない…また…居なくなってしまう…そう思って、どんだけ俺が…焦ったかお前に想像できるか?さよならだぁ…?ふざけんな!絶対に離すもんかよ!お前は…俺のもんだ。どこにもやらねえよ…!」  清涼は、降夜の唇を塞いだ。反論など聞かないと言うように。  なんて……傲慢で……なんて我儘な男だろう……!  こんなにも強い腕で自分を閉じ込める癖に、そんなに強い視線で捉える癖に……それは……俺に向けられるものではないだろう?  降夜は静かに涙を零した。もう……逃げられないと悟ったのだ。  自分は……この男のものだった。髪の一筋から……血の一滴まで。  全て彼の……清涼のものだった。例え……彼が心に抱く者が降夜ではなくとも、降夜は彼のものなのだった。 「……泣くな…そんな顔で泣かれると…俺はどうしていいか…分からなくなる…なあ…頼むよ降夜…」  静かに泣き続ける降夜の髪を、男の手が何度も何度も……優しく撫で続けるのだった。  太陽は、もうすっかり空に昇っていた。  朝の光が窓から差し込み、降夜を見つめる男を照らしていた。  金色の髪も、金色の瞳も太陽の光に輝き……とても……とても美しかった。

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