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第十四話 白い薔薇
あれは……遠い遠い……昔の事だった。
まだ……自分が人間だった頃の、昔々の出来事だった……
その日、清涼はまた喧嘩をしてしまったのだった。
いつも通り……清涼のことを、化け物だとかキチガイなどと言って……囃子立てられて、ついカッとなってそいつを殴ったのが始まりだった。
気づけば、自分以外は全員地べたに這いつくばっていた。また……やってしまった。
後悔したが……もう遅い。清涼はその場から逃げ出した。
家に帰れば、また親に怒られると思ったので……それが嫌で森に逃げ込んだ。
なんでこうなってしまったんだろう。毎回そう思って反省してみても……やっぱり清涼には、納得がいかないのだ。
確かに……自分は他の子供よりもずっと力が強かった。でも……だからと言って人間じゃないなどと言われるのは腹が立った。
母親は私の祖父も村で一番力持ちだったわと言って、清涼はお祖父さん似……あ!違った……曾お祖父さん似ね!そう言って楽しそうに笑った。
でも、お祖父さんはそんな乱暴者ではなかったわよ?とっても優しい人だった。だから清涼も優しい人になってね?そう言って……優しく頭を撫でてくれるのだった。
優しくなりたい……!
清涼だってそう思っている。
でも……いくらそう思っても、自分の事を悪く言ってしかも、両親や弟の悪口まで言ってくるような奴に優しくしてやる必要がどこにあるのだ……?そう思うのだった。
そんなことを考えながら、森を歩けば……ゆっくりと身体から力が抜けていく。
この森は熊が出るし、狼まで住んでいるという噂があり、子供どころか大人すらあまり近寄らなかった。だから、ここは清涼にとって安心できる、家以外では唯一の場所だった。
熊は何回か見かけたことがあるが……狼が出るのは嘘だと清涼は知っていた。
狼は群れで行動するし、なにより遠吠えをする生き物だ。今まで一度も、遠吠えの声など聞いたことはないから……きっと大きな野犬を誰かが見間違えたのだと、清涼の父親が以前に言っていたのだ。
だから、清涼は今日も森を伸び伸びと歩いていた。
良い香りがする……
森の奥へ行くと、鼻先をその香りが掠めた。
微かだったけれど確かにそれは花の香りだった。
どんな花が咲いているのだろう……?そう思った清涼はその場所へ向かうことにした。
森の奥の方。今まで来たことがない、深い森の中にその花は咲いていた。
小さな白い花だった。庭の生垣のような形の、絡み合った緑の中に、沢山の白い花が咲く様子はとても綺麗だった。
でも……違う。これの匂いじゃない。清涼はその花の匂いを嗅いで首を傾げた。
ここから……漂う香りはもっと甘くて……
きょろきょろと周りを見渡してみれば、その茂みの隙間から中へ入れそうだと気付いて、清涼はそこへ身体を潜り込ませた。思ったよりも中は広かった。子供の清涼が這って進めるだけの隙間を、匂いが強い方へと進んだ。
ずぼっと、茂みから顔を出せば……そこに、白い美しい花が沢山咲いていた。
薔薇だった。村で見かけたことのある薔薇よりもずっと大きくて……何よりも透き通るような白さが、見たことが無い位に綺麗な花だった。
近寄って香りを吸い込めば……思わず笑顔になった。とても……いい匂いだった。
そうだ……!母さんにこれを持って帰ってあげたらきっと喜ぶだろうな!
それを摘もうと手を伸ばして……思わず息を飲みこんだ。
薔薇の中に……人が眠っていた……
いや……木漏れ日が差す木の根元に寄りかかって眠るその人を、薔薇が隠していたのだ。
清涼は、動きを止めたまま……じっとその人を見つめた。目が……逸らせなかった。
黒い髪は柔らかな糸のように細くて……ほんの僅かな風にもサラサラと靡いていた。
白いその肌は、白い薔薇の花弁と同じで透き通るようだった。
伏せられた睫毛も黒くて長くて……唇の色は鮮やかな紅。
見たことがないような美しい人だった。
なんで……?こんなところで、どうして人が……?
漸く疑問が湧いてきて……恐る恐る眠るその人へ近づいた。
そして、清涼が見ている前で伏せられた睫毛が僅かに震え……一筋の涙がつうっと白い頬を流れた。眠りながら……その人は……泣いていた。
それを見て清涼は心臓がぎゅううっと締めあげられるような気持ちになった。
こんなところで……一人で泣いている……誰にも知られないで咲いている薔薇の花の中で……その人は寂しいのだと思った。
泣かないで欲しい……そう思ってその人の傍に近づけば……薔薇の香りが一層強く香った。
「……君は…誰だい…?」
深紅の瞳が、清涼をじっと見つめていた。見たことがない位に……綺麗な色だった。
自分の顔を見下ろす清涼を眺めて……その人は俺は誰だと聞いたのだった。
それが……俺と降夜が初めて出会った日の出来事だった。
それから……俺は時間さえあれば、野薔薇の繁みをくぐり抜け、降夜が居る白い薔薇が咲く場所へと通ったのだった。
降夜は、俺が最初に見つけた時と同じ場所に居たが、あれから一度も眠っていたことはなかった。
いつでも、木の根元に寄りかかり……白い薔薇の花を眺めて微笑んでいた。
なんでこんなところに薔薇が……?そう尋ねると、自分が植えたからだよと降夜は言った。
昔住んでいた館から持って来て、ここで育てているのだと言った。
なんで、森の中なんかに……?俺の不思議そうな顔を見て、降夜は笑った。
「ここはね…ほら…丁度森の切れ間でしょ?満月の夜には…ここは月の光で満ちるんだ…白い薔薇の花びらが淡く光を纏って…それは、それは美しいんだよ…君にも見せてあげたいけれど…ちょっとまだ早いね。君が…そうだねえ、あと十年経って大人になったら……一緒に見ようか?」
くすくすと……楽し気に笑いながら降夜は俺の髪を優しく撫でて、子供にはまだ早いなどと言いながらも、いつか……一緒に夜の薔薇をみようね?そう言ってくれたのだった。
俺は、子供扱いは気に入らなかったけれど、大人になったら、という降夜の言葉に嬉しくなった。
それは……自分が大人になっても、降夜が一緒にいてくれるという約束だから。
ずっと一緒に居たい……そう思った。降夜を一人になんかさせたくなかった。
自分が居ない処では、きっと彼は本当に一人きりなのだ。
あんな寂しがりの癖に……そう思えば、胸が苦しくなった。
あんな風にたった一人で泣かせたくなんてなかった。
だから清涼は降夜に会う為に森の薔薇が咲く……あの場所へ行くことを止めなかった。
「ねえ…騒君は…甘い物が好きかい?人に聞いたら…子供は大抵お菓子とか甘い物が好き…そう言っていたんだけれど、君もそうなの?」
ある日突然、降夜がそんなことを聞いて来た。
相変わらず、脈絡がない話し方をする……そう思って溜息をついた。
「……お前に、俺以外に話す人間がいたこと自体が吃驚だけどな…いい加減その変な渾名で呼ぶのは…やめろ!それと、甘いものは好きだ。子供だからだとか…そういうんじゃねえけどな!」
また、人の事を子ども扱いしやがって……!いや、それよりもその変な名前やめろ!
そう言って怒った清涼に、降夜はふーん……やっぱり甘い物好きなんだ~と何故か嬉しそうに笑うのだった。
降夜は、出会って最初の頃だけは清涼……と、ちゃんと俺の事を普通に呼んでいたが、ある時、やっぱり渾名を付けようなどと言い出して……君は煩いし騒がしいし……そうだねえ……騒君でいいか!いきなりそう宣言して……それ以降、俺の事を清涼と呼ばなくなった。
一体、そんな事になんの意味があるんだ……?そう聞けば、仲の良い友達同士は渾名で呼び合う……んでしょ?俺は生憎、そんなに仲がいい友達がいなかったからね。だから、初めて出来た仲のいい友達に渾名をプレゼント!ってわけだよ?
そうそう……!渾名ってその人の特徴を付けるのが良いって聞いたから……君の特徴と言えば、その金色と大声じゃない?ゴールドとか……なんかイマイチだから騒君にしたんだけど、なかなかいいよね!
そんなことを、楽し気に捲し立てた降夜に呆れてしまった。
はっきり言ってとってもウザかった……
でも、そんな降夜の楽し気な顔を見るのはとても嬉しい。
だから……いつの間にか、清涼は降夜が自分の事を、騒君と呼ぶことに慣れ、そう呼ばれても、文句を言わなくなっていたのだった。
そして……それから数日後の事だった。
「ねえ…騒君。今日は家に遊びに来ない?」
どうやら今日は、清涼を待ち構えていたらしい。
いつもの定位置ではなく、茂みのすぐ前に居た降夜はそう言って微笑んだ。
「え…?いいのか…?」
清涼が、驚いてそう聞けば……降夜は頷いて、いいから早く早く!と子供の様に楽し気に清涼の手を引いて、スキップでもしそうな勢いで歩き出すのだった。
まったく……!どっちが子供だかわかんねーな……呆れて呟いた清涼の声に、降夜は笑った。
「だって嬉しいんだから仕方ないでしょ?早く騒君が来ないかな~って思ってさ…待ってる間もとっても楽しかったよ!いいものだね…誰かを待つのが、こんなに楽しいなんて…今まで知らなかったよ…」
嬉し気に言われたその言葉に……清涼は思わず黙り込んだ。
そんなに自分が来ることを楽しみにしていてくれたのか……そう思って吃驚したのだ。
そして、今まで誰かが来ることを楽しみに待つことを知らなかった。そう告げた降夜の言葉に、胸が熱くなって、心臓がドクン……と音を立てた。
降夜に連れられて、更に森の奥へ行くと……森に隠された館が見えた。
随分と古そうだったが……村にあるどの家よりも立派な建物だった。
「……お前…こんな広い家に…一人で住んでるのか…?」
あり得ねえ……!俺の家なんて、家族四人なのに、この半分の大きさもねーぞ……!驚きながら、館の中に入れば……昼間だというのに随分と薄暗かった。
壁に掛けられたランプに火が入っていないせいか?
それでも、初めて訪れた降夜の家の中をきょろきょろと……物珍し気にあたりを見渡して、だだっ広い玄関の頭上を見上げて……今度こそ口をぽかーんと開けてしまった。
恐らくはシャンデリア……が天井からぶら下がっていて吃驚したのだ。
いや、絵本でしか、こんなの見た事はねーけどよ。
あれ……あの蝋燭は一体何本あるんだ?いや、そもそも、あんな高い所にある蝋燭にどーやって火を付けるんだ?
「ん…?どうしたの…って、ああ!あれが気になるの?あれはねえ…ぶら下がっている、クリスタルガラスの細工が綺麗だったから気に入って、なんにも考えずに買ってしまったんだよね!人が来るときしか使わない上に、あの重たいのを下ろして火を付けてもう一度上げる…面倒なんだよね!でも、埃を被ってると…この家が廃墟みたいになっちゃうから、掃除が欠かせないし…もう売っちゃおうかなって、掃除するたびに思ってるんだよねえ…」
降夜は、驚いた顔の俺の視線の先を見ると、そう言って……溜息を吐いたのだった。
なるほど……あれは下ろしたり、上げたりできるものなのか……!うん。確かに面倒そうだ。
「……お前…そんな面倒な物を、使うかどうかも分からねえのに…買ったのか?馬鹿だなあ…!あれは、とんでもなく高いだろ?俺でもそれ位わかるぞ!それを…あーもう!なんでそんな無駄なもん買うんだよ!金持ちは…だから嫌なんだ!」
清涼は、降夜の言いぐさから……あのシャンデリアは、気に入ったから買っちゃえ!と勢いで買ったものだと理解した。
そして……恐らくは、清涼の家では永遠に買う事ができないだろう……その高価な物を、衝動買いできるだけのお金を降夜が持っている事に気が付いて、面白くなかった。
「……そう言われると返す言葉がないなあ…!騒君って、子供なのに随分としっかりしてるよね?お金持ち…かあ…!うーん、自分がお金に不自由してないとは思っていたけど、そう言われると…なんか傷つくな…分かった。これからは気を付けよう。君に…嫌われたくはないからね?」
降夜は、そう言って清涼の顔を覗き込んで、もう無駄遣いしないようにするから嫌わないでね?と囁いた。
本当に……こいつは……!
清涼は呆れて、そもそも、お前の事好きじゃねーよと答えた。
それに対して、降夜はひどーい!などと……全然気にしてない様子で答えたのだった。
本当にムカつく奴だ。
それで、今日俺を家に呼んだのは一体どうしてだと聞くよりも先に、連れて来られた場所を見て、首を傾げた。
なんで……台所……?
「ほら!見てみて!じゃーん!今日はクッキーを作ります。ささ…!騒君これを着けて?小麦粉と、お砂糖と、バターでしょ卵…あと、ココアもあるよ!二種類作ろうと思ってね!」
降夜は、とっても上機嫌な顔でそう言うと、俺に白いエプロンを手渡して来た。
しかも、ちゃんと俺の背丈に合わせたものだった。
自分は黒いエプロンを着けて……台所の作業台の上に置いてあった本のページをめくり始めた。
「……えーと…?バターは常温…で…あ!先に材料を量らないとね!秤と…あとボールと…ヘラ…ふんふん…生地を伸ばすのに…麺棒…それと、のし台かあ…確か大理石のがあったはず…」
「……おい!一体これはなんだ…?なんで、いきなりこんなことになっていやがる!ちゃんと説明しろよ!」
本を片手に、必要な道具の確認を始めた降夜に、俺は説明しろと怒鳴った。
なんなんだよ……?いきなり家に来い……そう言われて付いて来たら、なんでクッキーを作る事になってるんだ?一体コイツは何を考えてやがる。
「えー?前に、聞いたじゃない。甘い物好きかって…そしたら、騒君は好きだっていっただろう?だから、作ろうかなって思ったんだよ。せっかくだし、一緒に作ったらきっと楽しいだろうなあ…そう思ったから、わざわざ君の為のエプロンまで用意したんだよ?俺はまあ、料理なら一応作れるけど…お菓子は今まで一度も作ったことがなかったから、房枝さんに初めてでも簡単なお菓子ってなにかあるかって聞いたら、本をくれたんだよ!それでね…一緒に作るなら、型抜きクッキーが楽しいかも…そう教えてくれてさ。みてよ、ほら…!」
困惑した顔の俺を見て降夜はそう言うと、俺の手に小さな銀色の星を置いた。
小さな……星の形のそれは、薄い金属を折り曲げて作られていた。
まるで、クリスマスの飾りみたいだ……
他にも、ハートでしょ?あと……これは犬……猫に、クマ?あ!人型もあるね……!
色々な形に作られた、小さな金属……抜き型というそれを、降夜は楽しそうに作業台の上に次々に並べていった。
「……そうかよ。俺が…言ったのは、別に好きか嫌いかって事だったんだけどよ?まあ…いいか。分かったよ…言っておくが俺も菓子なんて一度も作った事ねーからな!ちゃんと、お前がその本を読んで…教えろ!あと…その房枝って誰だよ!」
清涼は、溜息を吐いて渋々そう言った。
本音を言えば……ちょっとだけワクワクした。家ではクッキーなんて、滅多に出てきたことがないからだ。
何しろ、手間がかかるから……お腹を空かせた子供の為に、仕事の合間に作るには時間が足りないのだ。だから、パンケーキが我が家のおやつの定番だった。
勿論、パンケーキは清涼の大好物だったから、文句はないが……時々、他の家の子供が食べている……小さなお菓子が羨ましかったのだ。
「……うん。ちゃんと教えるつもりだけど…なーに?房枝さんの事…気になるの~?」
清涼の言葉に、降夜はくすくすと笑いを零したので、睨み付けてやったら、肩を竦めて……彼女は、俺の古い友人の奥さんです!なので……別になんにも疚しいことはありません~などと言ってきたので、思わず降夜の腕をぎゅっと、つねってやった。
もー!痛いなあ!冗談なのに……!ぶつぶつと文句を言いながら、腕をさする降夜を見て、漸く俺は笑ったのだった。
降夜に友人がいる……まあ、不思議でもなんでもないが……本当は、ちょっとだけ不思議だけどよ。それよりも、彼の口から女の名前がでたので、ちょっとだけ嫌な気持ちになったのは確かだった。
しかも、なんか仲良さそうだし……それに対して、降夜から別に特別な間柄ではないと聞いて……ホッとしたのだ。
良かった……!
なにがどう良かったのか……この時の清涼は、まだ自分の気持ちが分かってはいなかった。
でも、黒くてもやもやした嫌な気分が、降夜の言葉で吹き飛んで、スッキリした気持ちで、これから始まるお菓子作りが楽しみだと思うのだった。
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