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第一話 夜の子供
俺の中の人間だった頃の一番古い記憶は、暗い森の中で死にかけていたときのものだ。
その時俺は……まだちっぽけな子供で……落ち葉が敷き詰められた、妙に生暖かい地面の上で死にかけていたのだった。
なんでそんな小さな子供が、狼がうようよいる森の中に居たのかと言えば、母親に捨てられたからだった。最後に見た女の顔は……もう思い出せないが、思い出せなくても別に構わないくらいに、遠い過去の出来事になって心底ほっとしている。
恨むことも、嘆くことも忘れて……随分と長い年月が経ったものだ。
そう……あれはもう七百年も前の出来事なのだ。
俺が、吸血鬼になった……
彼の眷属に自分の意思など関係なく勝手にされたのは遠い昔の話なのだった。
森の道端に落ちていた痩せっぽちの薄汚れた人間の子供を、なんで自分の眷属にしようとしたのか……?そう聞いた時に彼から返ってきた答えがこれだ。
「自分の城のすぐ傍に、汚らしい死体を転がしておいて私が平気だとでも?冗談だろう!」
死体があれば、腐臭がするし……カラスも増える。やかましいのは、嫌いなんだ。
そう言って、笑ったのは……架希王と呼ばれる古い吸血鬼の親玉。齢千年を超えて生き続ける不死身の化け物。始祖吸血鬼とも呼ばれる、魑魅魍魎を統べる悪魔だった。
彼の気まぐれで、親に捨てられて深い森を彷徨い……死にかけていた人間の子供は、吸血鬼としてその夜に新しい命を授けられたのだった。
「お前の名前は?」
「…ない」
名無しの子供。それが俺だった。
不吉だから……生まれてきたこと自体が間違いなのだと言われて、何度も殺されそうになった。女の……細い腕が震えていたことも、食いしばる歯の隙間から零れる泣き声も……全部、全部……覚えている。
結局殺しきれなかった俺の手を引いて、女は狼が住む悪魔の城の庭先……暗い森の中に俺を置き去りにしたのだった。
家に帰ろうとは最初から思ってはいなかった。
それでも、時折聞こえる狼の遠吠えに怯えて、それから逃げるように森の中を彷徨った。
怖い……食べられるなんて嫌だ。そう思ったけれど、不思議と死にたくないとは思っていなかった。痛いのは嫌だなとは思ったけれど。
「そうか…名前も付けて貰えない程に忌まれたか…その瞳の色は確かに、人間には不吉に映るだろうな」
そう憐れむように呟く男の声は、深い響きを持っていて、穏やかで優しげにさえ聞こえるのにどこか怖い。
でも、その瑠璃色の瞳から目を逸らすことがどうしても出来ない。怖いのに……見ていたいと思ってしまう。それは、吸血鬼の持つ魅了の力のせいだと俺が知るのは、もう少し後の事だった。
「私の名前は、神駕。神をも凌駕する…天に背いた悪魔に相応しい良い名だろう?だからお前にも良い名前を考えてつけてやろう。この架希王の眷属に相応しい、美しい名がいいな。さて…どんな名がいいだろうか…」
そう言って、静かに自分に伸ばされた手を拒むことなどできなかった。
形の良い、手入れの行届いた美しい指先。男らしい……それでも、町で見たどんな人間よりも麗しい指で頬を撫でられ、震える俺を見つめる…神駕の瞳は肉食獣の輝きを孕んでいた。
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