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第五話 求婚
あれから……あの夜から三日過ぎ、一週間が経とうとしていた。
降夜は家の書斎で仕事をしながら、騒君に会いたいなあ……ぽつりと呟いて溜息を吐いた。
降夜は、吸血鬼としてもかなり長く生きている方なので、人間社会にかなり溶け込んでいた。仕事も……もっぱら人間相手にしていた。
降夜の仕事は、代筆屋だ。
様々な国の文字を読み書きできた上に、一度見た筆跡を完全にコピーするという特技を持っていたので、意外と需要があるのだ。
まあ……偶に王国の存亡にかかわるくらいの、ヤバい書類の偽造なんかにも手を染めたりしていたが。
吸血鬼に、人間社会の道徳観を求めるのは間違いだと、今更説く必要もないだろう。
なので……そこそこ忙しい毎日を送ってはいたが、清涼の顔を見にいく暇がないほど忙しいという訳ではなかった。
でも……さあ。
降夜は溜息を吐いた。
以前のように、ただ顔を見に行くだけ……なんてできないじゃないか。
そう呟くと、また溜息を吐いた。
出来上がった……今回は貴族の舞踏会の招待状だったが、それをこれまた偽造したその家で使っている封筒に入れ封蝋をして、使い魔の蝙蝠に持たせて依頼人へ運ぶように言いつけた。
これで、今日のお仕事はお仕舞だ。昼過ぎに起きて仕事をしても時間がまだ余る。
優秀なのも考え物だなあ、なんて思ったりして。
他にやることもないし、仕方ないので散歩に出かけることにした。
まあ……行くところもあんまりないんだけどさ。
降夜は、自分の家の近くに咲いている白薔薇を見に行くことにした。
あの白薔薇は、降夜が以前住んでいた館からわざわざ持ってきたものだ。
もちろん気に入って持って来たものだから、愛着は当然のようにあったが……降夜にとってあの場所自体が特別な場所だった。
そう……初めて清涼と出会ったのが、あの森の中の白薔薇の咲く場所だった。
まだ幼い十歳になったばかりの清涼が、村の子供達と喧嘩をして逃げ込んできたのは……もう、十年も前のことなのだ。
その頃から昼過ぎには白薔薇に囲まれた木陰で、昼寝をすることが日課のようになっていた降夜を見付けた清涼が、子供らしい好奇心で降夜に近づいてきて……久しぶりに出会った人間の子供を面白いと思った降夜は、お互いに引き寄せ合うようにして、仲良く過ごすようになったのだった。
自分を疎まない降夜に清涼はとても懐いて、まるで野生動物を手懐けているみたいな……そんな気分にさせられていた。
そして、降夜も出来る限り人とは関わらないようにして……数百年。寂しさを埋めてくれる小さな子供の存在を、好ましく思っていたのだった。
まるで…全てを預けるみたいにして、自分に擦り寄る温かな体温を、愛おしいと思うようになるのには大して時間はかからなかった。
だから……言えなかった。
自分が人間ではないということが、どうしても清涼に言えなかった。
嫌われてしまうと、分かっていた。
彼が……人よりも強靭な肉体を持ち、それを神聖視……いや、恐れられていることを悲しいと思っていることを知っていたから。
そんな彼を、気にせずに受け入れている自分が……人ではないと知ったら、きっと彼は酷く傷つくだろう。だから、降夜は自分の正体を彼に隠したのだった。
出会いから、一年が過ぎた頃……別れは突然やって来た。
清涼の母親が亡くなったのだ。元々身体の丈夫でない人だったとは彼から聞いていた。
きっと……俺の所為だと清涼は降夜に言った。
自分が心配ばかり掛けたから……だから……!そう言って、涙をぽろぽろと零した子供を降夜はそっと自分の胸に抱き寄せて、その柔らかな金色の髪を彼が泣き止むまでずっと撫で続けた。
「…母さんが、俺を中央教会の学校に入れたいと言ってたんだ。だから…家族で…父さんと弟の息吹と俺の三人で中央教会がある街へ引っ越すことになった」
泣き止んだ清涼は、降夜にそう言って別れの言葉を告げたのだった。
寂しかった。
一人でいる寂しさに慣れていた自分に、人の温かさを思い出させたこの子供を手放したくはなかった。
でも……降夜は微笑んだ。これでいいのだと思った。
このまま……自分と居れば、いずれ清涼は降夜が人間でないと気付くだろう。
だからこのまま別れるのが、清涼には一番良いのだと思ったのだった。
「……降夜。これをお前にやる」
そう言って、小さな手で降夜に差し出されたものは……金色の小さな十字架のネックレスだった。
十字架には聖母の横顔が彫刻されていて、女性ものらしく繊細な作りだった。
一目で、これは彼の……清涼の母のものだと分かった。
「駄目だよ。これは…君のお母さんの形見だろう?こんな大事なものを、他人にあげたりしたらいけないよ?お守りなんだから…君が持っているべきだよ」
清涼の小さな手に、その小さな十字架を握らせて降夜は微笑んだ。
彼の……気持ちが嬉しかった。
こんな、吸血鬼なんかにお守りをくれようとした……愚かな子供がとても可愛らしかった。
「大事だからお前にやる。降夜…俺は必ずこの村に戻って来る。立派なエクソシストになってお前に会いにくるから…!それまでお前を守ってくれるように、これはお前にやる。だから…そんな、寂しそうな顔すんな!約束するから。だから…待ってろ!」
そして……彼は約束を守ってくれた。
二年前。清涼は中央教会のエクソシストとして、森に住むという……悪魔を退治する為にこの村に派遣されたのだ。
皮肉な再会もあったものだ……!
彼は、まさか降夜が吸血鬼だったなんて想像もしていなかったのだろう。
信じられないと……泣きそうに顔を歪めて、俺を騙したのか!と降夜に怒鳴った。
それに対して、降夜は騙したつもりはないと言った。
べつに人間じゃないとは言わなかったけれど……勝手に勘違いした騒君も悪いんじゃない? 嘯いた降夜を、清涼は持っていた剣で切りつけた。
腕を切り裂かれ……血を流す降夜を見て清涼は言った。
もう二度と俺に関わるな!森から出ずに一生そこで大人しくしていれば見逃してやる……と。
殺さないの?聞いた降夜に、清涼はうるせえ!と怒鳴った。
だから……降夜は清涼に会いに森を出て、毎日のように彼の家を訪ねた。
時々は教会で、神妙な顔をする清涼を見たくて、彼が間違って蹴破ってしまったらしい穴からこっそり覗いたりもしたけれど……来るなって言ってんだろうが!と降夜の顔を見れば怒鳴り、しっしと……まるで犬か猫のように煩げにされても、降夜は清涼に会いに行った。
そして、清涼は最初のあの日以来降夜を剣で殺そうとしたことは一度もなかった。
だから、いつかは許してくれるんじゃないか……降夜はそう思ったのだ。
また昔のように、降夜が傍に居ても怒らないでいてくれるようになるかもしれない……と。
儚い望みだったが、降夜の願いは唯一つだった。
清涼の隣に居たかった。
ただそれだけだった。
「なのに…なんであんなこと…したんだよ…」
降夜は、ぽつりと呟くと白薔薇の根元に蹲った。
会いたいのに……ただ、会いたいだけなのに……!
もし、降夜が彼に会いに行けば、きっと血が欲しくて、もしくは身体が欲しくて自分の許を訪れたのだと思うだろう。
そんなことは無いと言っても……信じてくれるはずはなかった。
だって……降夜は彼の血を吸ったのだ。そして、その甘くて苦い香りに酔いしれたのだ。
吸血鬼の顔をした降夜を見られてしまった。だから……もう、会いに行けない……
どんなに、会いたいと思っても……
「……こんな処に居やがったのか?」
膝を抱えて蹲る降夜の頭上で、清涼の声がした。
驚いて、顔を上げると……清涼が眉を顰めた。
「……お前、一週間も顔も見せねえで何してやがった?まあ、それは別にいい。とにかく家に来い」
そう言うと、清涼は驚いている降夜の腕を掴んで立たせると、そのまま手を繋ぎ……すたすたと歩き出した。
「え…?何?あの…さ…別に血…とか欲しくないよ?大丈夫だよ…?」
俯いたまま、なんとかそれだけを伝えた降夜に……清涼は溜息を吐いて、立ち止まると降夜の頭をぐりぐりと撫でた。吃驚して、思わず顔を上げた降夜に清涼はちょっとだけ、困ったような……顔をした。
「ああ…別にお前が誰彼構わずに血を吸って回ってるとか…もう疑ってねえよ?ただ…な…」
そう言葉を切って、どうしたもんかと清涼は首を捻りながら、ちょっとだけ考えるような素振りをした。
一体何を……?降夜は黙って清涼の言葉を待った。
「んーとだな…あんときは…悪かったな?お前は村の人間を助けようと色々手伝ってくれて、俺の洗濯物も取り込んでくれたよな…?自分がびしょ濡れになってよ。なのに碌に礼も言わねえで酷え事言って…した…よな?だから、今日はちゃんとお前に礼がしたくてよ。だってよ…お前あれから一度も顔出さねえし、怒ってるのかと思って心配して来てみたらよ」
なんか、泣きそうな顔してやがるから……さ。
そう言って、清涼は降夜の顔を覗き込んで俺が悪かったよと言って、またぐりぐりと頭を撫でた。
「……だって…俺は…!」
降夜は、思わず清涼に飛びついてぎゅうっと彼にしがみ付いた。
それに、おわっ!と間抜けな声を出したが……清涼は自分に抱き着いた降夜を振り払ったしはしなかった。
嫌われたと……思っていた。
もう、前のように話しかけてくれないと思ってたのに……
それなのに……降夜にお礼を言う為に、わざわざ探しに来てくれたのか!
嬉しくて思わず涙が零れそうになった。
会いたかったよ……清涼の胸にしがみ付いて降夜がそう囁くと、清涼の手がぽんぽんと降夜の背中を優しく叩いてくれた。
「さてと…じゃあ…ありがたく騒君のお礼を受け取らせてもらうとしますか!」
さっきまでの、悲しい気持ちが嘘のように晴れて……笑顔になった降夜が、清涼を見上げてニッコリと笑いながらそう言うと、まあ……大したもんじゃねえけどよと、清涼が苦笑した。
そして、また降夜の手を握ると、さて帰るかと呟いたので降夜はうん。と頷いた。
「ふーん…?お礼…って騒君の手料理のことだったのかあ…!それは意外だったなあ。で?何を作ってくれるの?」
清涼に手を引かれ、また彼の家に上がった降夜は、外套はそこなと言われた通りに、黒いマントを玄関脇に置かれた木製のコートハンガーに掛けて、清涼の後ろを、とことこと付いて歩いた。
台所で、なにやらごそごそと食材を探す彼の手許を覗き込んで、降夜はニッコリと笑った。
ジャガイモとニンジンに玉ねぎ……か。ふんふん……なるほどね!
「お前…カレー好きか?俺が作れる料理は、他にはシチューしかねえんだけどよ…今日は牛乳切らしてんだ…だから、カレーしか作れそうにないんだけどよ…」
降夜の予想通りに、清涼は野菜を両手に抱えて振り返ると、ちょっと申し訳なさそうな顔で聞いて来たので降夜は、カレーは好きだよと答えた。
そうか……そう言ってほっとした顔をした清涼は、ちょっと待っていろよと言って野菜の下ごしらえを始めた。
自分の為に……清涼がご飯を作ってくれる。
なんだかくすぐったいや!降夜はくすくすと笑った。
こんな風に誰かに、食事を作って貰う事など無くなって、随分と長い時間が経っていた。
だから……嬉しかった。
楽しみだなあ……!降夜は窓の傍に置かれたソファーにころりと横になって、カレーを作る清涼の広い背中を眺めて幸せな気持ちで微笑んだ。
「……どうだ?美味いか?」
「うん!とっても美味しいよ。野菜…ちょっと大きいけど、柔らかいから大丈夫」
二人で向かい合って清涼が作ったカレーを食べながら降夜は笑った。
清涼が作っただけはあり、一つ一つが大きな野菜がゴロゴロと入った……非常に野性味溢れるカレーだった。
肉は鶏肉。当然だ。薄給の聖職者がお高い牛肉など買えるわけがない。
でも……そのカレーは降夜が今まで食べた事のあるどんな高級食材よりも、美味しかった。
愛情が料理の味を決めるって……本当なんだな。
自分の為に作られた料理がまずいはずはない。
騒君のカレーは世界で一番美味しいよ!と言えば……呆気にとられた顔をして……すぐに耳まで真っ赤になった清涼に馬鹿か!と言われてしまった。
本当だよ。ニコニコと笑いながら降夜がそう言えば、もう黙って食え!と、自分も、もぐもぐと大口でカレーをかき込んだ。
食後のお茶は、降夜も手伝って二人で淹れた。
確か……貰ったもんが。そう言って清涼が信者のおばさんが今朝くれたという、ショートブレッドを出してくれたので、それをお茶請けにした。
「とっても美味しかったよ。ご馳走様。それじゃあ…そろそろ、帰るよ」
お茶を飲み終えた降夜がそう言って立ち上がると、清涼は静かに息を吐き出して降夜に手を伸ばした。掴まれた手を見て、首を傾げる降夜を清涼はじっと見つめてきた。真剣な顔だった。
「……帰るな。お前は…ここに居ろ」
低く囁かれた言葉に……降夜は身体を硬直させた。
一体なにを言い出すんだと、漸く金縛りが解けた降夜の目の前に清涼が立っていた。
自分を見下ろす金色の瞳を戸惑いながら見上げれば、その手が降夜の身体を抱き寄せた。
「ちょ…っと…一体どうしたの?あ!もしかして…まだ疑っている?大丈夫だって!俺は、君以外の血なんて飲まないよ!それに……君以外に抱かれたりしないよ…?」
清涼の胸に抱かれながら、降夜は必死に言い募った。
だって……そうじゃなければ……そういう事じゃなければ、おかしいじゃないか。
ここに居ろなんて、清涼が言うはずない。
言ってくれる……はずなんてない……
「……そんなこと、誰も言ってねえだろうが!あれだ…お前が誘わなくても他の人間が誘うかも…しれねえだろ!だからここに居ろ…って言ってるんだ。俺の目が届くところにお前が居ねえと、落ち着かねえし…なんかあった時、傍に居た方がいいし…とにかく!もう…森に帰んな!ここに…居ろ」
分かったなと言って、清涼は降夜を抱く腕にさらに力を込めた。
ぎゆううっと締め付けられた体が悲鳴をあげたが、今の降夜はそんなことは気にならなかった。
だって……だって……!!
本当に……?これ……夢じゃないの?
そろりと……清涼の顔を見上げた降夜は、自分を見下ろして口をへの字に曲げた……彼の表情を見て思わず吹き出した。
笑うな!不機嫌そうな清涼の顔と声だったが……降夜は笑わずにはいられなかった。
「もう…!そんなに、心配なの…?しょうがないなあ…分った。いいよ。ずっと…居て上げる。約束…したもんね?ずっと…ずっと傍に居るって約束したもんね!だから…帰らないよ?ここに居て…いいんだよね?」
嬉しそうに降夜が言えば、清涼は苦虫を噛み潰したような……見事な渋面で、仕方なくだ!と吠えたのだった。
仕方なく……ねえ?
随分なことを言ってくれると思ったが、込み上げる笑いは止められない。
どこにも行くな……ずっとここに居ろ……なんて。
どう考えても、求愛の言葉以外に聞こえるはずないじゃないかと……くすくすと笑いながら思うのだった。
俺が誰に誘われるだって……?そんなの言い訳でしょ……!
誰にも渡したくないのだと。
言い訳の言葉の陰に、清涼の本音が隠れていることにも、降夜は気づいていた。
だから、降夜はほら……いつまでもそんな顔していないでよ?
そう囁いて、清涼に自分から口付けたのだった。
これから……ずっと一緒だよ騒君……!
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