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第八話 薔薇の眠り

 もう……こんな時間か……?  降夜は壁に掛けられた時計が打つ、ボーンボーンという少しくぐもった鐘の音を聞きながらソファーから起き上がると、少し散歩する為に館を出た。  まあ……行くところなんて大してないんだけどね……   「やあ、シルバー…今日はなにか面白いことあったかい?」  降夜は近づいて来た美しい獣に声を掛けた。  この銀狼は……かつて降夜を自分の眷属にした架希王と呼ばれた始祖吸血鬼の使い魔だった。狼が統べる森の古城に住んでいた神駕を殺して、降夜は銀狼を僕としたのだ。  夜を統べる吸血鬼の僕であるというのに……この銀狼シルバーとフォールという小蝙蝠だけは、始祖吸血鬼の使い魔だけはあり、別格だった。  こうして、陽のあるうちも実体があるのがその証拠だ。  自分を、なんだかもの問いたげな……そんな表情でみつめてくるシルバーに苦笑を零す。 「そうだよねえ…面白いことなんて…そんなにあるわけ…ないよねえ?」    そう言って、見た目よりも柔らかくて……温かな毛並みを撫でた。  じゃあ……一緒にお昼寝でもしよっか?  降夜は、白薔薇の咲いている場所へ向かった。  降夜が、清涼の家を出て……三日が過ぎ……五日が経っていた。  二、三日森に帰れと言われていたけれど、二度と帰ってくるなとは言われていなかった。  だが、降夜はどうしても清涼の家に帰ることが出来ずに、今日もまたこんな所で暇を潰しているのだった。  清涼の弟がよりにもよって純正の吸血鬼の嫁を貰う事にしたと知って……そして清涼がそれを受け入れたことを知った降夜は、あの家に自分の居場所がもうないと思ったのだ。  吸血鬼だから……だから自分は受け入れて貰えないのだと、そう思っていた降夜にそれはあまりにもショックな出来事だった。  あの夜……泣きながら森の館に帰った降夜は、清涼の家に二度と帰ることはないのだと自分を納得させる為に、また以前のように代筆屋の仕事をしたり、古い書物を引っ張り出して読んでみたりと……昔のように暮らそうと試みているのだった。  それでも、つい数日前まで暮らしたあの家が懐かしくて仕方が無かった。  たった半年だけ。降夜が一人で過ごした時間……まあ、一人じゃないときもたまにあったけれど……それに比べたら、ほんの瞬きする位の短い時間だったのに、酷く懐かしいのだった。  もしかしたら……清涼が迎えに来てくれるかもしれないと思っては……すっかり夜が更け身体が冷え切る頃になっても、彼が来なかったことに落胆して……とぼとぼと館に帰る羽目になるというのに。  それでも、降夜は毎日時間が空けばここにきてしまう。  降夜が寒がりだと知っているこの銀色の狼は……降夜が寒さに震えながら帰る夜道に現れてからは、降夜が外に出るときには、必ずこうして傍についてくれるようになった。  随分と心配させてしまったらしい。 「ごめんね…?俺は…主人失格だねえ…」  溜息と共に零れた自嘲の呟きに、狼は黙って降夜の顔に自分の鼻先を押しつけて来た。  何を言っているとでも……言いたげなその仕草に降夜は少し笑ってありがとうと言った。  ちょっと疲れちゃったから少し眠いんだ……  降夜はそう呟くと大きな銀色の毛皮に頭を乗せて静かに目を閉じた。  その浅い眠りでさえ……  降夜に安らぎを与えてはくれなかった。    降夜の目の前で、小さな子供が細い首を締め上げられて苦し気な顔で……じっとこちらを見ていた。  深紅の……まるでガラスのような、その瞳にはなんの感情も浮かんではいなかった。  確かに息苦しさはあった。でも……自分の母親に殺されようとしていた惨めな子供には……悲しいなんて気持ちすら持つことが出来なかったのだ。  毎日のように繰り返される言葉と身体への暴力に……悲鳴さえ、もう反射でしか漏れることが無くなっていたあの頃。どうして自分がこんなに憎まれているのか、分からなかったあの頃は……  ただひたすら繰り返される 「悪魔の子…!生まれてきてはならなかった…お前は罪の子…」  そう喚き散らす女の悲鳴の様な言葉だけが……子供の存在を表していたのだった。  悪魔の子、罪の子……それが子供の名前だった。  そうか……自分は生まれてきてはいけなかったのかと子供は……思った。  そして、あの夜……  女の細い手によって連れて来られた……狼の住む森に子供は捨てられたのだった。 「美しい色だ。深紅の…まるで焔を閉じ込めた宝石の瞳か…!髪は…極上の絹の黒、陶器のような白い肌。顔の造作なんて、女神の指で愛される為に作られたかのようだ…!お前はきっと美しくなるだろう。この世の…どんな人間でも一目で虜にできるほどの、絶対的な美貌を持つ吸血鬼になるだろう。だから、お前に名前を付けてやろう。夜に捨てられて、夜に生かされた…お前には夜の名を。夜に降りる者。降夜…これがお前の名前だよ」  深い響きを持つ声で……美しく微笑みながら神駕の紡ぐ言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。  言われた言葉の意味は……その時はよく分からなかったが、たった一つだけ分かったことがあった。 「こうや…降夜…?それが、俺の名前…」  こうや……降夜。口にだしてそう呟いてみれば……  それは、生まれて初めて感じた熱を……身体の底から沸き上がらせた。  名前……俺の名前……!  満足そうに、嬉しそうに……その名を呟く俺を見つめて男は笑った。  彼の……架希王神駕の血を受けて、降夜が彼の眷属として生まれ変わった瞬間だった。  それから、永い年月を降夜は彼の傍で過ごした。  神駕は降夜を伴い様々な場所へも連れて行ってくれた。 人との関わり合い方も、読み書きも計算も……夜の相手の仕方まで。すべてを降夜に与えてくれたのが……彼、神駕だった。  だが……降夜は彼を殺したのだ。  彼から力の全てを奪い、その血を彼がこよなく愛した白い薔薇に吸わせて……青白い満月の光よりもずっと青い……天上に咲く青い薔薇を一面に咲かせたのだった。  降夜は彼の愛玩物だった。  でも、そんなことは気にしていなかったし、それでもいいと思っていた。  彼が……彼こそが降夜をこんな境遇に陥れた人物などでなければ……今でも彼の隣で降夜は笑っていたのだろう……  神駕の許で力を蓄え、知識を増やしていけば……いつかは、それを知る日がくると彼が気づいていなかったとは、降夜には思えなかった。  誰よりも強くどんな獣よりも狡猾で残忍な本性を微笑みの下に隠した……彼は吸血鬼の王だったのだから……  やがて降夜がその真実に辿り着いた時には……彼は本当に嬉しそうに微笑んだ。  流石は、私の降夜だと言って……蕩ける様な笑みで褒め讃えた。  そして降夜はそれを嬉しいとすら思った。降夜も……もうすでに人間ではなくなっていたのだ。  だから……降夜はかつて自分が人間であったことを忘れるために……全てを消す道を選んだ。  自分が生まれた呪われた一族……  今は中央教会と名を変えているが……昔は大聖堂教会派と呼ばれていた聖職者達の総本山に、降夜の母親は生まれた。  代々枢機卿を務める由緒正しき家柄の娘が、婚姻前に生んだ、父親の名も知らぬ……祝福されぬ子供。それが降夜だった。  父親の名前は……出されることなど永遠にないだろう。彼女の祖父……その当時の枢機卿が降夜の父親だった。神に背いた背徳的な交わりによって孕んだ子供を、一族総掛かりで抹消しようと……したのだ。  母は家から除名され……生家から遠く離れた寂れた街の売春宿に売り払われた。  そこで、母は客を取りながら降夜を生んだのだ。  もしかしたら……その行為で腹の子供が死ねばいいとでも思っていたのかも知れない。  だが……祈りは神には通じなかった。  そうして降夜が生まれ……さらなる地獄が彼女を待ち受けていたのだった。  愛せるはずのない……生まれながらに魂の汚れた子供を、彼女は自分の罪を形として目の前で見ることになったのだ。元々壊れていた、彼女の精神は更に追い詰められ……錯乱して、降夜が覚えている限り毎日ずっと泣いていた。  神に慈悲を願う祈りの言葉は……それでも美しい響きを持っていたことを降夜は覚えていた。  可哀想な女……  降夜は、彼女の魂を救うために、すでに息をしているだけのような、哀れな女を自分の僕に命じて速やかに殺してやった。  そして、彼女を追い出すことで家名を守ろうとした、穢れた一族を罠にかけ……全ての一族を公開処刑の舞台に引きずり出して……皆殺しにしたのだった。  それらを、降夜は鮮やかな手腕で速やかに行って見せた。神駕は……とても喜んでくれた。  素晴らしい!まさに私の眷属に相応しい行いだと言って降夜に微笑んでくれたのだ。  だから……降夜は神駕を殺すことにした。  こんな誰にも望まれない生を授ける為に……父を、母をその魅了の力でそそのかした神駕にも同じ道を歩ませるべきだと判断したからだ。  決して復讐などではなかった。そんな……安っぽい感情は降夜にはなかった。  いっそ、愛情とすら呼べるような……酷く甘くて……熱い感情だった。  憧れていたから……感謝していたから……だからこそ殺したいと思った。    そして……さらに永い年月をかけて、彼を殺した時、降夜は誓ったのだ。  もう二度と人と深く関わることはしないと。  神駕のように人を玩具のように弄ぶような……そんな非道を喜ぶ真似を自分はしないと決めたのだった。  あんな思いをするのは……自分だけで十分だと思った。  降夜は自分から人間を襲って血を吸った事など一度もなかった。  神駕の城に居た時には、彼の喜ぶ顔が見たくて血を飲み、人を人とも思えぬ扱いをしてきた降夜だったが……それを楽しいと思ったことなど一度もない。  それなら、人があまり住んでいない辺境の地にひっそりと隠れて暮らす方がいいだろうと、神駕の薔薇園から、数株の白薔薇と彼から引き継いだ使い魔達を連れてこの地へとやってきたのが……二百年ほど前だった。  神駕と暮らした日々とは違い、ここでの暮らしは驚くほど穏やかだった。  ここは、あの狼の森とは違い……陽の光が森の中まで届く温かい場所だった。  そして……まるで太陽の光を形にしたような。陽だまりのような子供と、降夜はここで出会ったのだった。   「騒君…」  夢現の中で降夜は、名を呼んだ。  寂しくて……会いたくてたまらないと……名前を呼んだのだった。  降夜の白い頬を、一筋の涙がつう……と流れてそれが地面に吸い込まれた時、声が聞こえた。 「……降夜…!」  それは……待ち望んでいた声だった。  ずっと、聞きたいと願っていた……  夢……?  降夜は、ゆっくりと目を開けて、涙で滲む視界で必死にその声の主を探すのだった。  どこ……?  瞬きをする度に、ぽろぽろと……涙が零れた。  滲んで……良く見えない視界に、焦りながら降夜はそれでも探した。   「……降夜…」  再び声が聞こえたと思った時には、降夜は温かな両腕に抱かれていた。   「……騒君…?」  降夜は、清涼の腕に抱かれて、そっとその名を呼んだ。  何故……?なんでこんなところに居るの……そう言おうとして唇を震わせた。  声ではなく嗚咽が零れた。  温かな清涼の胸が懐かしくて、慕わしくて……涙が止まらない。  まるで子供のように、泣いている降夜の頭を清涼の大きな温かな掌が優しく撫でた。  その感触に、降夜はまた涙を零した。  嬉しくて……泣きながら、清涼にしがみ付いた。 「……降夜…悪かったな…?お前を追い出す様なことした癖に…その内勝手に帰って来るだろうなんて思って、なんで帰って来ねえんだって…そう思ってた。だから…迎えにきた。一緒に帰ろう」  泣いている降夜の顔に頬を摺り寄せるようにして、清涼はそう言って降夜の顔を覗き込んだ。  少し……心配そうに眉根をよせる清涼のその表情を見て、降夜は首を傾げた。  なんで……?  どうして、そんな顔をして……なんで迎えに……来てくれたの。  降夜は、まだ涙の残る瞳で清涼の金色の瞳を見つめた。  だって…… 「……帰れば…君はまた…俺の事が邪魔になるよ。俺は…君にとって迷惑な存在でしかないんだから…だから、もうあそこには、帰れない…!あの家には、俺の居場所なんてどこにもないんだから…」  降夜は、声を必死に振り絞って……泣きながら清涼の腕から抜け出そうと、両手を突っ張って彼を突き放そうとした。だが、清涼は降夜を逃がしはしないと、更に自分の腕の中に閉じ込めた。 「悪かったって…そう言っているだろうが!お前を邪魔者扱いして…家を追い出したりして、本当に悪かったよ。お前が迷惑だとか…もう今更だろうが。もう…お前を家から追い出したりなんて絶対にしねえよ。お前が居ねえと…俺はこの先一生カレーか、シチューしか食えねえんだよ!ごちゃごちゃ言ってねえで…帰るんだよ!あそこが…お前の居場所だって、何回言わせりゃ気が済むんだお前は!」  清涼は怒鳴ると……もう面倒癖えと言って、降夜の手を掴んで強引に歩き出した。  降夜の返事など、もう関係ないと言っているようだった。  例え、降夜が帰るのが嫌だと言っても聞かないと言っているみたいだ…… 「……もしかして…ご飯作るのが面倒になったから、迎えに来てくれたんじゃないよね…?」  清涼に手を引かれながら、降夜は彼の顔を見上げて尋ねた。  きっと……こう答えるに違いないと予想しながら…… 「……っ!別に、面倒だからじゃねえ!ただ…お前が帰って来るだろうと思って、カレーを作ったのに、お前…全然帰って来ねえし…今日でカレーが三日目なんだよ!いい加減違うのが食いてえんだよ。だから、家に帰ったらお前も責任もって食えよ?そんで、明日はカレー以外を作れ!もう…なんでもいい。カレー以外だったらな!」  清涼は、降夜の顔を見て……分ったな?と念を押した。  降夜は、自分の予想が当たっていたことに……ほっとした。  そうでなくっちゃと、嬉しくなった。  別に清涼から、寂しくなったから迎えにきたなんて……そんな答えが聞きたかったわけじゃないのだ。  清涼は、降夜が戻って来ると……そう思っていたのだ。  だから、カレーを作って降夜の帰りを待っていてくれたのだ。  降夜が……清涼が作ったカレーが好きだから。  一緒に食べようと思って、仕事が終わって疲れているのに 降夜の為に食事を作ってくれていたのだ!  居場所はあったのだ。  あの家に……降夜の居る場所はちゃんと用意されていたのだ。  清涼自身の手で……! 「もう…!だから、カレーとシチュー以外にも作れるようになれば?って言ったのに。でも…嬉しいな!騒君のカレー美味しいから。俺が作るよりもずっと美味しいんだよねえ…だから、楽しみだな…久しぶりだよね、君が料理を作ってくれるなんて…!ありがとう…騒君」  降夜は、繋がれた手をぎゅっと握り返しながら、少し前を歩く清涼を見上げて嬉しくて仕方ない気持ちのまま……笑顔になった。  清涼は、降夜の顔を見ると、少し眩しいみたいな顔をして……おう。沢山食えよと笑顔を向けてくれたのだった。

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