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第九話 軋んで歪む

 降夜は、料理をしながら、玄関の方をちらちらと何度も伺った。  まだ……帰って来ない。  そう、思っては溜息を吐いた。  別にいつもよりも清涼の帰りが遅いというわけではない。  ただ……降夜が一刻も早く、彼に聞きたいことがあるだけなのだ。  だから、何度も何度も……玄関の扉を見ては溜息を吐くという、地味に疲れる作業を……もう一時間以上も続けているのだった。 「ただいま…」  数えきれない程の溜息を吐き散らして、暫くして……清涼が玄関に姿を現すと降夜は、飛ぶように彼の許へと駆け寄った。 「ねえ!結婚てどういう事なのかな?君は、結婚しないって…あれほど言っていたじゃないか!どうして…?この裏切り者…!いや、浮気者…!とにかく、俺は絶対に認めないから!ここに居ていいいって言ったのは君だからね!追い出そうとしても無駄だよ。絶対に出ていったりするもんか!!」  清涼に飛びついて……彼の胸倉をがしっと掴むと、降夜は喚き散らした。  物凄い形相で、清涼を責め立てた。  清涼は、降夜がいきなり飛びついても、べつにグラつきもせずに、平然と降夜を腕に受け止めたものの……必死の形相で捲し立てられた言葉に、呆気にとられた顔をした。  先手必勝!降夜は心の中で快哉を叫んだ。  どうだ……!これでどんな言い訳をしたって、出て行けといったら君が薄情ものだということが確定だ。  本当に、酷い男だ君は……と、呆然とした顔で降夜を見つめる清涼を睨み付けたのだった。   「……おい…?降夜…?それは一体なんの話だ?俺が結婚するだあ…?するわけねえだろうが!」  降夜の剣幕に圧されて、一瞬目を白黒させた清涼だったが、降夜が言ってきたことに対して、言い掛かりはよせと怒鳴り返して来た。 「ふーん?俺が何も知らないと思ってあくまで、シラを切る気なんだ…?本当にムカつく男だねえ君は!いいよ。教えてあげる!君がお昼過ぎに信者のおばさんと話していたこと、全部俺に筒抜けだから!君の動向を探る様にフォールに言いつけてあるから、君達の会話を俺はちゃんとこの耳で聞いてるんだからね!今週、中央教会から君の後輩の女の子がここに来るんだってね?しかも…君のお嫁さん候補としてね!なんなの…!こんなに君に尽くしている俺を差し置いて…その子をお嫁さんにするとか…!酷すぎない?」  それに対して、降夜も負けじと声を張り上げて反論するのだった。  そう。降夜は、今日のお昼に清涼と信者の女の人が話していた内容を盗み聞きして……物凄くショックをうけたのだ。いや……ちょっとだけだけど、しくしく泣きもした。何故なら…… 「……!お前…!フォールになんてことさせてやがる!なに盗み聞きしてんだよ!それに…別に俺は…!」  清涼が、降夜のやらかしたことに、思わず青筋を立てて降夜の顔を睨み付けてきたが、その口を自分の唇を押し当てて塞いだ。  いきなりの口づけに、清涼は目を見開いたが、降夜が両手を清涼の髪の中に忍び込ませれば……溜息を吐いて、降夜の背中を抱く腕に力を込めて引き寄せた。  そのまま、お互いの呼吸を盗みあうような深い口づけを交わした。  長いキスが終わって、清涼が降夜に何かを言おうとして口を開きかけたが……降夜は、指を清涼の唇に押し当てて、胸に顔を埋めて静かに涙を零した。  震える降夜の肩を、清涼が抱きしめた。 「……嫌だ…もう…一人でなんて居たくない…よ」  降夜の呟きに、清涼が息を飲んだ。  躊躇いがちに降夜の肩をそっと引いて顔を覗き込み、清涼は小さく馬鹿かと囁いた。 「……言ったろ?お前をここから追い出したりしねえよ…あの話は、勝手にあの人が盛り上がってただけだって。別に、あいつが…俺の後輩がこの村に来てもよ…この家に住まわせたりなんかしねーよ。当然結婚もしねえ!分かったか?分かったら…そんな顔すんな。お前が、俺の事をフォールに見張らせたりして…そんな悪い事するから罰が当たったんだろ。これに懲りたら…もう変なことするんじゃねえ。分かったな?」  清涼は自分の胸に顔を埋めて泣いている降夜の頭を、撫でてくれた。  降夜が、したことを……盗み聞きは悪いことだと叱ったけれど、それでも降夜を追い出したりはしないと言ってくれた。  それを聞いて、降夜はようやく顔を上げて清涼の顔を見た。  本当に……?問いかける降夜の眼差しに、清涼は苦笑を零した。   「ああ。本当だって!だから…機嫌直して…メシ食わせてくれよ?今日は何を作ってくれたんだ?いい匂いがすんな…って玄関から入ってすぐに気づいたのに…お前が飛びついて来てお預けだもんな!」  清涼は、降夜を抱きしめて、早く食わせろよと耳元で囁いた。  その声に、思わずぶるりと震えた降夜を見て……清涼は低く笑った。   「……分った。今日は…鶏肉をトマトで煮たんだ…沢山作ったから…一杯食べてね?」  なんとか、そう言って清涼を見上げた降夜の唇は、再び彼の唇で塞がれた。  まるで……自分が食べられてるみたいだ……降夜はそう思って、そのままそっと瞳を閉じた。  そして、その日の夕食後……皿は明日の朝俺が洗うと清涼が言って来て、降夜はまた清涼に抱えられて寝室に運ばれたのだった。   「……おい!ただいまって言ってんだろうが…!さっきから、なに人のこと無視していやがるんだよ…!」  清涼が、耳元で怒鳴ってきたが、降夜は素知らぬ顔で目の前の鍋をかきまわし続けていた。  清涼が、降夜を追い出しはしない。決して彼女と結婚なんてしないと告げてから……一週間が経っていた。  そして、降夜は……日ごとに機嫌を悪くしているのだった。  勿論、原因はすぐ隣で煩く喚いているこの男だった。  本当に煩いなあと思ったが、それすら顔に出さずに黙々と鍋を掻き混ぜ、そろそろチーズをちょっといれようかと、手許に置いてあるナイフを手に取り…… 「……っ!おい…降夜!お前…なに、人の事をナイフで刺そうとしてんだよ…!」 「あ…ごめんね?手許がちょっと狂ったみたいだね…君がそんなに近くにいるから、邪魔なんだよねえ…!危ないから、向こうに行っててくれないかな?また…手許が狂ったら…危ないよ?」  清涼が降夜へ伸ばした手に、ナイフをさっくりと……刺す前に躱されてしまったことに、ちっ……と舌打ちをして、降夜は笑顔で清涼を押しのけた。 「おい…!お前…なんでそんなに機嫌が悪いんだよ…!俺が…なにかしたかよ…!」  降夜の様子に、清涼は戸惑いながら、それでも降夜の傍を離れずに……うろうろと周りを歩き回るので……降夜は、溜息を吐いた。  本当に……腹が立つ男だ。  いい加減に、あっちに行けよ!そう思ったが、仕方がないので振り返り、面倒そうな顔のまま口を開いた。 「……お腹が空いているんでしょ?いいから…手を洗ってきなよ。もうすぐできるから…君は大人しくテーブルに座って待っていればいいよ。あんまりうろちょろされると本当に苛々するからさ!」  分かった?そう言ってまた鍋に向き直った降夜の腰に清涼の腕が回された。  それに、眉を上げて……不愉快そうな表情を浮かべて振り返った降夜の唇を清涼の唇が塞いだ。   「ん…!むむ…ん!」    この野郎……!  清涼の自分勝手な行為に頭に来て、振り払おうと手を上げたがそれを難なく掴まれ、さらに深く口づけられて……清涼にしっかりと身体を抱き込まれてしまった。  それに、暴れて……嫌がる降夜の抵抗など、清涼にはまるで通じないのは降夜だって分かっている。  だからといって、諦めるのがとっても癪だったので……ついには足で清涼の向う脛を思い切り蹴っ飛ばしてやった。  がつーん……みたいな音がして、降夜はあまりの痛みにじわりと涙を滲ませた。  思わず足から力が抜けて、その場に蹲りそうになったが……それさえ清涼は許してくれなかった。  痛みにぷるぷると震えている降夜の身体を、捕まえたまま清涼は、降夜の表情を見て、馬鹿かお前はとでも言いたそうな顔をしたのだった。 「……っ!もう…!なんなの…その足…!鉄板でも入ってるの…!?痛いよ…すごく痛い…」  ううう……と呻き声をあげて、降夜は清涼の腕の中でぐったりとしてしまった。  漸く抵抗を止めた降夜を清涼は、抱え上げようとしたので…… 「駄目!まだ鍋が…!」  ぐつぐつといい感じに煮えている鍋をこのまま放置してなるものか……!  折角作った久々のご馳走だった。  それを、こんなところで台無しにしてたまるかと、降夜も必死になった。  それに、清涼は心底面倒臭そうな顔をしたが、降夜から手を離して……鍋をひょいと火から外すと、これで文句ないだろうとでもいうように……今度こそ降夜の身体を掴んで肩に担ぎ上げると、無言で寝室へ運んだ。 「……相変わらず…君は自分勝手だね…?折角俺が時間をかけて君の為に料理をしていたっていうのに…本当に嫌になるなあ…本当に…頭に来る…!」  寝室のベッドの上に下ろされた降夜は、自分に近づいてくる男を睨み付けながら、ぶつぶつと文句を言った。  本当に腹が立ったからだ。   「……お前こそ、随分な態度じゃねえか…!俺が何回ただいまと言ったと思っていやがる!全部無視しやがって…その上、お帰りなさいの一言が、まだねえぞ!こら…逃げんな!」  清涼の手をすり抜けようとして、捕まえられた降夜は、ぶすっとした顔のまま……清涼を睨んだ。  それに、呆れた顔をして清涼が降夜の両手をしっかりと上から押さえつけて……逃げられないように、降夜の上に馬乗りになった。 「……お帰り騒君…これでいいだろ?もう…いい加減にして欲しいんだけど…毎回毎回…よく飽きもせずにこんな強引な方法を取ってくれるねえ…!君が食べたいというから…ビーフシチューを作っていたというのに…それを作るのを邪魔した揚げ句…こんなことをするの?本当に嫌になっちゃうなあ…!」  降夜は、清涼を睨み付けたまま……不機嫌さを隠しもしないでそう吐き捨てると、いいから早く手を離してそのデカい図体をどけてくれないかな……と冷たい声で言った。  清涼は、いつものように降夜のその態度に額に青筋をたてて……怒鳴ったりしてこなかった。  ただ、溜息を吐いて降夜の顔を覗き込んで、言いたい事は本当にそんだけか?そう聞いて降夜が口を噤むと……その唇に自分のそれを押し付けて、頑なに清涼を拒もうとするのを宥めるように柔らかく唇を食み、唇から顎先へ……さらに喉元へと口づけを落とした。 「っ…う…」  降夜がたまらず声を上げると、降夜の両手を押さえつけていた手を離して、するりと降夜のシャツの隙間から、掌を侵入させて……直に肌に触れた。  熱い清涼の掌の感触に、降夜はビクリと身体を震わせたが、清涼はそのまま降夜のシャツの釦を口で器用に外して、胸元に唇を落とした。  胸の真ん中から……ゆっくりと、降夜の息が上がる速度をより速めるように、じわじわと舌を這わせた。  必死で首を振って、なんとか意識がもっていかれそうになるのを堪える降夜を、清涼は着実に追い詰めていく。   「や…いや…!やめてよ…」  とうとう降夜は音をあげて、清涼に懇願する羽目になってしまった。  身体の内側からじわりと……火で炙られるような熱の誘惑に、自分が勝てない事など知っている。  このまま、清涼に触れられ続けていれば、あっと言う間に自分から清涼に縋り付く事になることも。  だから、もうやめてくれと降夜は清涼に頼んだ。意地など張っていられなかった。  こんな気持ちのまま……清涼に抱かれるのが嫌だったのだ。 「……ったく…やっと素直になりやがったな?で?どうした…今度は何が気に入らないんだよ…?どうせまた…お前の勘違いだとは思うがな…一応は聞いてやる。早く言え!」  清涼は、降夜の身体から手をゆっくりと離すと、降夜を抱き起こして自分の目の前に座らせて少し、怒った顔でそう言った。 「……だって…!」  降夜は、目の前の男を睨みながら……渋々口を開くのだった。   「あの子が来てから…騒君は、全然お昼に帰って来ないじゃないか…!いつも、教会の神父さんの家でみんなで楽しくお昼ご飯食べて…!その上…今日のお昼には、彼女と仲良く洗濯物を…この家の前で取り込んでた!それを見てたら悔しくって…なのに…!騒君はちっとも…気にしてないみたいな顔して、俺が起きてるの珍しいな…なんて言ったんだよ!昼は俺でも流石に眠いんだよ…?でも、騒君がビーフシチューが食べたいって言うから…だから、昼から下ごしらえしてたのに…!」  降夜は俯いて唇を噛んだ。馬鹿みたいだとは自分でも思っている。そんな下らないことで、怒っていたのか……そう呆れられるのも覚悟していた。だから言いたくなかったのだ。  無理やり言わされたことに、腹を立てたというよりは、やりきれない気持ちだった。  どうして……こんなことになったんだろう……?そう思って泣きたくなるのだった。 「……おい…!お前…まさか、またフォールに盗み聞きさせてたんじゃねーだろうな?何を聞いた?」  清涼は、何故か少しだけ狼狽して、降夜にそう聞いて来た。  てっきり、お前はまたくだらないことを……そう言われるものだとばかり思っていた降夜は面食らってしまった。 「え…?なに…?もしかして…俺に聞かれたらまずいことでも、二人で話していた…っていうのかい?酷い!何を話したんだよ!君に怒られてからは、フォールに君を監視させてないんだよ?君を信じて…それなのに…!」  清涼の胸倉をつかんで降夜がそう勢い込んで詰ると、清涼は眉間に寄せていた皺を僅かに緩めてなんだ……そうかと、ほっと息を吐いたのだった。  なんだそうか……じゃない!降夜は怒って、なんなの一体と清涼に詰め寄ったが、別にたいしたことじゃねえと言って、降夜の頭をぐりぐりと撫でた。 「……そうか。そういや…昼ごはんを一緒にって言われて、ついつい甘えてたんだけどよ…そろそろ、悪いし断ろうかと思ってたんだよ。それに、お前…昼寝するならちゃんとベッドで寝ろって言っても、俺が昼に家に帰ると、いっつもソファーで寝てるからな。だから気にはなってたんだよ。分かった。ちゃんと明日からは、家に帰るからよ…それと、別に仲良く洗濯物を取り込んでたわけじゃねーぞ?手伝うって言ってきたのを、断ってたんだよ。だから別にお前が気にするようなことなんてなんもねーよ。あと…悪かったな…お前が一生懸命料理してたってのに、全然気付かなくってよ…なあ…もう機嫌直してくれよ…」  そう言って、降夜の顔を覗き込む清涼は、少しだけ困った顔をしていたのだった。  降夜が、ここまでへそを曲げたことなど、今まで一度も無かっただけに本気で心配になったのだろう。  普段は、絶対に折れない清涼が先に謝ってきてくれたのだ。降夜は渋々だが……納得するしかなかった。 「……本当は、何を二人で話していたか…すっごく気になるけどね…?でも、まあ…もういいよ。俺も…ちょっとムキになりすぎた…かも。ごめん…。でもさ…言い訳すると、眠いのを我慢して料理してたから…ちょっと頭に来たんだよ?これからは、少しは気をつかってくれると…うれしいんだけど?」  降夜は、小さく溜息を吐いた。  本当は、ここまで大袈裟にするつもりは無かったのだ。  いつもいつも清涼が降夜の事だけを考えて、優先させて生活できるわけがない事くらいちゃんと分かっている。  清涼が、自分の派遣先のこの教会の神父さんに、昼食を誘われたら断り難いのだって、自分の後輩エクソシストの女の子に優しいのだって仕方のない事だと知っている。  でも……でも……! 「ああ…分った。今日もすげーいい匂いだったもんな!前に、牛肉を手に入れた時はカレーにしちまったって、お前に話したら…呆れられたよな?勿体ない。ビーフシチューにすればいいのに…ってよ。だから、次に牛肉が手に入ったらお前が作れ…そう言ったな。ちゃんと…覚えててくれたんだな?ありがとうな…」  降夜が謝ったことで、清涼はホッとしたのだろう。微笑んだまま降夜に口づけた。ゆっくりと唇をなぞる舌先は、とても優しかった。  でも……  こんなに、優しくされていても……降夜の不安は消えなかった。  陽の光の中……まるで、光を纏うような……同じ色味の金色の頭がふたつ。  眠たいのを我慢して、ソファーから身体を起こした降夜が見た……今日の昼の光景だった。  顔を寄せ合うようにしていた……屈託ない笑顔の清涼と、まだ幼さの幾分残る可憐な女性の姿に……降夜は、頭を鈍器でガツンと殴られような気持ちになった。   こんなに近くて……遠いと。泣きたいような気分だった。  降夜は、特に強い力を持つ吸血鬼だったが……それでも、太陽が高い処にある時間帯は、起きているのが辛かった。降夜の生きる世界は、本来夜の闇の中なのだ。いくら昼間でも起きていられる、動けると言っても……燦々と降り注ぐ陽の光の下……堂々と生きることなどできないのだ。  でも……二人は違う。降夜は眼の前に、その見たくもない事実を突きつけられて……とても悲しかったのだ。 「ん…っ…ちょっと…?」  啄むような、戯れのような仲直りのキスをしていたはずが、気付けば清涼の唇はさっき釦をはずした、降夜の胸元に押し当てられていた。  お腹が空いたと言っていたじゃないかと、降夜が言えば。 「ああ…すげー減ってる…だから、早く食わせろよ…?」  降夜の目をじっと見つめる金色の瞳は、もう……肉食獣の輝きに満たされているのだった。  一体なにを食べたいの……?  降夜は、そっと微笑んで清涼の金色の髪に顔を埋めた。  心の中に……悲しみを押し隠して、それでも降夜は微笑んだ。  この手の中にある、温もりを手放したくなくて……目を閉じた。

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