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第十話 寂しがりの吸血鬼
鍋をかき混ぜる手を止めて、降夜は満足そうに微笑んだ。
「よし…今回も上手く出来た」
目の前で美味しそうな香りを漂わせる鍋を火から下ろした。
「えーと…この家には花瓶がないから、どっちにしても一度森の方に戻らないといけないかな…」
降夜は、この家の中にある物を思い返しながら呟くと、料理をしている間着けていたエプロンを外して適当に畳んで台所に置いて玄関へ向かった。
木製のコートハンガーから黒いマントを取り、急がないと夕食が遅くなってしまうと思って、すこし駆け足で夕暮れの道を森へと急いだ。
「……あ…騒君…おかえり。ごめんね…少し遅く…」
降夜が森にある館から必要な物を持ち帰り玄関の扉を開けると、すぐ目の前に清涼が立っていた。
帰ったばかりなのか、まだ修道服を着たままだったので、それほど前に帰ったわけではないことにホッとして、それでも待たせてしまったことを清涼に詫びようとしたが……
「……降夜…!」
降夜の言葉を遮る様に、降夜の名を呼んで、一体何が……?と驚く降夜の身体を強く引き寄せ、胸にぎゅうっと抱きしめた。
「……え?なに…一体どうしたの…?」
降夜を抱く清涼の腕が、少し震えていることに困惑しながら清涼に尋ねた。
なにか、したっけ……?
降夜は少し考えて……思い当たることが一つだけあったことに気づいて、清涼のこの行動が漸く理解できた。
「あ…!もしかして、また俺が出て行ったとでも思った?残念だったねえ…違うよ?食卓が少し寂しいから、森に薔薇の花を摘みに行っていたんだよ。それで花瓶がこの家にないから森の館まで取りに戻ったんだ。ついでにテーブルクロスと…じゃーん!ほらほら…君の安月給じゃとても買えないような上等のワインまで、持って来てあげたんだよ!」
降夜は、笑いながら清涼の顔を覗き込んだ。そして音を立てて唇にキスをした。
待たせてしまって悪かったね……お腹すいてるでしょ。降夜がそう言っても清涼は両手を降夜から外そうとしなかったので……ちょっと困ってしまった。
薔薇の花が潰れちゃうよと……咄嗟に身体の外側に花を向けておいて本当に良かったと思いながら降夜が言うと、漸く手を離してくれた。
「……なんで、黙って行くんだよ!それに別に…花とかワインとか必要ねえだろう!」
清涼は、手を離しはしたが降夜の目の前からどかずに怒鳴った。
どうやら……心配して、それが杞憂だったと漸く気づいたらしい。
相変わらずだなあ……降夜はそう思ったが、必要だから取って来たの!と、まだむすっとした顔の清涼にいいから、早く手を洗って来なさいと言った。
「……分った。手…洗って来る…」
清涼はそれ以上は文句は言わず、微笑む降夜を苦々しい顔で見詰めたが、溜息を一つ吐くと洗面所へ向かった。
その清涼の大きな背中を見つめて……降夜はそっと息を吐き出した。
それは……もしも清涼が見たら、今度こそ眉を顰める様な悲し気で、切ない吐息だった。
「さあ…お待たせ!今夜はビーフシチューだよ!この年代物の赤ワインも開けちゃおう!ほら…騒君も飲んでみなよ。君は、一生このクラスのワインなんて飲めないんだから、ちゃんと味わって飲むんだよ?」
降夜はワインを手慣れた手つきで開けると、清涼のワイングラスに静かに……まるで血の様な深い色合いを見せる真紅の液体を注いでやった。
「……うっせえ!一生とか…失礼だな!もしかしたら、買えるかもしれねーじゃねえか…っていうか…なんだよ、その目は…!……そんな高けえのか…これ?」
降夜の言いぐさが気に入らないと、眉間に皺を寄せて清涼が怒鳴って来たが、最後は降夜の憐れむような視線に……段々と声のトーンを落として、恐々とそんなことを言った。
「当たり前でしょ?君の安月給じゃあ…そうだねえ…これ一本買うのに半年ほとんど物を食べなければ、なんとか買える…くらいじゃないかなあ。俺でもそうそうは買えないよ?これは…特別な日にしか開けないんだ。今日は…だから特別。誰かと一緒にこのワインを飲んだのは…もう随分と昔の話だよ。まさか、君と一緒に飲む日が来るなんて…十年前には思いもしなかったよ」
くすくすと……上機嫌で話す降夜を、清涼はじっと見つめて眉間に皺を寄せた。
「……誰だよ…?」
清涼は、ワインをぐびりと飲んで、降夜を睨み付けた。
非常に不愉快そうな……その表情を見て笑ってしまった。
それに清涼は更に機嫌を悪くして降夜にまた聞いた……それは、誰だ?と。
「君の気になるところって、そこ?普通は、特別な日って一体なんだ…じゃないのかなあ…?でも、まあ…君らしいかな。誰…ねえ…?本当に聞きたいの?聞いて…どうするの?俺は言ったよね、随分と昔の話だって。だから、今はもう居ない人だよ。どんな関係だったのか…聞きたいかい?教えてあげてもいいけれど、それで君の機嫌が悪くなるなら…話したくないんだけどな…?どうする?」
降夜が、清涼が聞きたがりそうなことを、先回りして言うと……思った通りに顔を顰めた。
図星か……!降夜は、くすくすと笑い声をあげたが、今度は笑うなとは言われなかった。
「……んで…その、特別な日ってのはなんなんだよ?どうしても今日はビーフシチューが食べたい…そう言って、昨日俺に牛肉を買って来るように頼んできたのも、もしかしてこの日が特別だからか?」
降夜に先手を打たれて……聞くことが出来なくなったからだろう。
渋々と怒りの矛先を収めて、今日のご馳走を見ながら手に持ったワインをまたぐびりと飲んだ。
その不貞腐れた態度に苦笑を零して、降夜は答えを口にした。
「もう!もったいない飲み方するなあ…ま、いいけどね。今日はね俺の誕生日なんだよ。だから…白い綺麗なレースの付いたテーブルクロスと、白い薔薇を飾って…とっておきのワインと、美味しいご馳走がどうしても欲しかったんだ。嬉しいなあ…!君と一緒にこの日を迎えられるなんて、思った事もなかったから…すごく嬉しいよ…」
清涼は、降夜のその言葉に、目を見開くと……
「……お前…そういう事は、早めに言え!なんだよ、なにも用意してねえぞ?って…まあ、あれか…?なんだかよく分からんが…さっきのは、お前が昔人間だった時の話か…そっか。今日は何も用意してねえが…なんか欲しい物でもあるか?あーあれか?お前だと血とかの方が嬉しいのか?」
清涼は……どう言ったらいいのか分からないという顔をしながらも、誕生日だと言った降夜に、なにかくれると言った。
「ふっ…ははははは…!相変わらずだねえ…君は!吸血鬼の誕生日を祝ってどうすんの?君はエクソシストでしょ?なに…俺に血をくれるとか…...!本当に馬鹿だねえ騒君は…!」
清涼の返答に、たまらず降夜は大爆笑した。
本当におかしいと……テーブルに手を付いてぷるぷると肩を震わせた。
ねえ……君は、俺が吸血鬼だと分かってて、それでも誕生日を祝ってくれようとしているんだよ?その可笑しさに……君は気づいているのかい?
「……なんだよ!たとえ今は吸血鬼だとしても…お前が昔人間だったときの、誕生日を祝うのがそんなにおかしいかよ!いい加減笑うのはよせ!なんか…自分が馬鹿だっていうのは分かってんだけど、お前に言われると余計に腹が立つからよ!」
清涼は、顔を真っ赤にしてそう怒鳴ると、御代わりと……空になった皿を降夜へと差し出した。
一体いつの間に食べたんだ……!?
降夜は、呆れながらも、清涼の為にビーフシチューをよそってやった。
それを、美味しそうにまたもぐもぐと食べ始めた清涼の顔を見つめて……降夜は再び口を開いた。
「今日は、俺が人間だった時の誕生日じゃないよ?今日は…俺が吸血鬼になった日さ。人間だった時の記憶なんて俺には殆どないんだ。随分と子供の頃だったし、生まれてから一度も誕生日を祝ってもらった事なんてなかったよ。だから…俺が吸血鬼になった日を俺の誕生日にしたのは…俺を吸血鬼にした始祖吸血鬼だよ。さっき、君が聞きたがっていた…一緒にワインを飲んだ人さ。誕生日には、家族がご馳走と…あとケーキを用意してくれて…一緒に食べるということも。お祝いの贈り物を貰えることも…俺は、吸血鬼になってから知ったんだ。だから…別に君が祝う必要なんてないんだよ」
降夜は、静かに言葉を切ると、微笑んで清涼の顔を見つめた。
逆に、君からしてみれば……俺が……新たな吸血鬼が生まれた忌むべき日だねと口にしたら、なんだか泣きたくなった。
清涼は、それを聞いて、視線を一瞬揺るがせて……驚いた顔で降夜を見つめ返した。
そして手に持っていた、スプーンを静かに皿に戻し……手を伸ばして、降夜の手を握った。
「……お前…なんでだ?」
清涼は、戸惑うような顔で……降夜の顔をじっと見つめて問いかけた。
一体なにを聞いているのか、降夜には分からなかったから……黙って清涼の顔を見つめ返した。
「なんで…そんなこと言うんだよ…?確かに、吸血鬼になった日っていうと…どっちかっていうと、人間としてのお前が死んだ命日って方が合ってる気がすっけどよ?だから祝うっていうのは、なんか違う気もすんだけどよ…今日はお前にとって特別な日なんだろ?なら…それでいいじゃねえか。そんな顔するんじゃねえよ!」
清涼は降夜の手を握る手に力を込めて、力強くそう言ってくれた。
祝うのはなんだか違う気がする。でも特別な日ならそれでいいじゃないかと言ってくれたのだ。
「……怒ってないの…?君に黙って…勝手に自分の記念日に巻き込んだのに…人間じゃないのに…誕生日だなんて言ってさ!自分の誕生日すら、知らない俺が憐れに思えたから…同情してくれたの?」
降夜は、声を震わせて……涙を堪えて清涼の金色の瞳を見つめた。
自分を見つめる清涼の黄金色の眼差しは、今度は揺るがなかった。
「……怒ってねえよ。まあ…先に言えとは思ったけどよ?別にお前が憐れなのは、今に始まったことじゃねえだろうが。今回は間に合わなかったけどよ…次は、来年はちゃんとなにか用意してやる。ケーキ食いたいか?村のおばさんに頼めば…きっと作ってくれると思うし、俺の安月給じゃあ、お前が今日持って来たワインは買えねえけどよ…もうちっと安いものなら買えんだろ?だから…」
そんな……泣きそうな顔をすんのはもうやめてくれ。
清涼は降夜の手を引き寄せて、手の甲に口づけた。
熱い……唇の感触に、堪えていた涙が零れた。
もう……十分だと思った。
なにもいらない……これだけで、その言葉だけで嬉しいと降夜は囁いた。
降夜のその声に、清涼は苦笑を零して……お前は本当に馬鹿だと言った。
一年に一度。たった一日だけの特別な日は、沢山の我儘が許される日なんだと言って……人間も吸血鬼も関係ない。お前の為の特別な日だと笑ったのだった。
「ありがとう…嬉しいよ」
降夜は、涙を隠さずに笑った。
これは、決して悲しい涙ではない……嬉しい時に流す涙は、隠さなくていいのだと教えてくれた清涼に微笑んだ。
「ん…っ…ふ…」
甘い声が、降夜の喉から零れ落ちて暗い夜の中に溶けていった。
窓の外から降りてくる、青い……美しい月の光の中で、清涼の熱を身体の奥深くに抱き込んで降夜は白い背を撓らせた。
特別な夜だから……君が欲しいと降夜は望んだ。
清涼は、いくらでもと……笑った。
その言葉の通りに、食事の途中で降夜の手を取り……清涼は、薄闇に閉ざされた寝室へ降夜を連れて来たのだった。
「あ…っ…!も…う…」
裸の清涼の上に跨り、降夜は震える声で先を強請った。
もっと、欲しいと……熱で浮かされたように、潤んだ深紅の瞳に清涼の金色の光だけを映して……自分の腰を掴む清涼の手に、自分の手を這わせた。
早く……して……?
囁く声に、清涼の熱がさらに増した。
「……おい…あんま、煽んなって言ってんだろう…が!」
声を途切れさせながら、清涼は眉間に皺をよせて降夜を睨む。
彼の呼吸も、随分と余裕がない。
それに、微笑んで……降夜はゆっくりと息を吐き出した。
更に、奥へと……彼を誘い込む降夜に、清涼は息を詰めた。
苦し気に……顔を顰めた清涼を上から見下ろして……降夜は微笑んだ。
月の光に照らされて降夜の深紅の瞳が、淡く輝いた。
磁力を持つ、美しい輝きに清涼は息を止めて……降夜を見つめた。
「騒君…君が、好きだよ…世界で一番…誰よりも…君が好きだよ。愛しているよ…」
清涼が、食い入るように見つめる中で……降夜は愛を囁いた。
それを聞いて……清涼は、ゆっくりと瞳を見開いた。
そして……唇にゆっくりと笑みを刷いた。
「……降夜…」
自分へ伸ばされた、清涼の手を掴んでそのまま頬を摺り寄せた。
唇を押し当て、再び囁いた。愛しているよと。
二人の視線が、熱く絡まり合った。
何者も……例え神であっても……悪魔であっても、二人を引き離せはしない……
そう、思うくらいに二人は、今一つになっていた。
「……騒君…」
降夜は、微笑んで清涼の名を呼んだ。子供の頃の清涼に……勝手につけた彼のあだ名を。
世界で降夜だけしか知らない。呼ばない……降夜だけの、特別な名前だから。
清涼も、それを知っているから……もうその名は彼の一部だった。
清涼は、降夜を引き寄せる為に腕に力を込めた。
それに、抗わず二人の唇は重なった。深く……甘い口づけを交わした。
緩やかに、どこまでも甘い余韻を引きながら……そのまま、二人は溶けていく……
降夜は、清涼を身体の奥に捕えたまま離さなかった。
清涼も、降夜から出て行くことなど考えていないみたいに、快楽から解放されることを拒んだ。
いつまででも、どこまでも。
清涼の金色の瞳は、甘さを滲ませ降夜を見つめていた。
自分の身体の上で……しなやかな白い身体に月光だけを纏う降夜を、眩しそうに見つめていた。
「……降夜…」
再び清涼が、自分を見下ろす深紅の瞳を見つめてその名を呼んだ。
降夜は、それに微笑んで……
「……先輩から離れろ!この…悪魔!!」
突然響いた女の声に、清涼の身体が凍り付いた。
咄嗟に降夜を引き寄せようとしたその手は、降夜の手によって押さえつけられた。
一体……何が?
それでも清涼は視線を降夜から離すことが出来ない。
声を出すことも出来ないことに気づいて……
清涼は、目を見開いて……降夜を必死な表情で見つめてきた。
どうして……?なんでだ降夜……!
そう、言いたげな清涼の顔を、降夜はただ微笑みを浮かべて見下ろすのだった。
降夜は、ゆっくりと顔を声のした方へ……女の方へと向けた。
そして、高い破裂音が闇を切り裂いた瞬間、降夜の身体は衝撃にガクンと揺れ……
瞳をギリギリまで見開いて……降夜を見つめる清涼の目の前で、ゆっくりと倒れて行った……
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