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第十一話 青い月の夜に

「……や!降夜…!降夜…目を開けろ!おい…降夜…!」  自分を呼ぶ必死な声にゆっくりと瞳を開けると、顔を苦し気に歪めて……降夜を腕に抱きかかえた清涼が見つめていた。 「……騒君…」  降夜は、そっと彼の名を呼び……微笑んだ。  それを見て清涼は、涙を零した。  ぽろぽろと……涙が次から次へと溢れて降夜の頬を、胸を……濡らしていった。    温かい……君は、涙も温かいんだね……?降夜はそう言って手を伸ばした。  それに気づいた清涼が、しっかりと降夜の手を握って死ぬな……と囁いた。 「嫌だ…!なんで…どうして…?頼むから…こんなの…あんまりだ!なあ…さっきから、全然血が止まらねえんだよ!お前…前は…俺が切ったときは、すぐに血が止まってたじゃねえか…なんでなんだよ…?どうしたら…あ…っ!」  清涼は降夜の顔をそっと抱えて、自分の首筋に引き寄せた。  飲め……全部飲み干していいから……だから早く……!  そう囁く清涼の声は震えていた。 「……本当に…君は、馬鹿だね…?エクソシストが…吸血鬼を、助けてどうするの?」  降夜は、微かに笑い声を上げて……少しだけ咳き込んだ。  心臓は……綺麗に吹き飛ばされていた。  彼女……大した腕をしていると降夜は思った。  吸血鬼の弱点は心臓だ。ただの木の杭や、小さな刃物くらいじゃ……びくともしないけれど、それでも……始祖吸血鬼を仕留めることができる、あの銀の弾丸ならば……例え降夜といえども助からない。  だからこそ、彼女に……降夜はあれを託したのだった。 「うるせえ…!つべこべ言うな…いいから、早くしろよ…頼むから…なあ…死なないでくれよ…」  清涼は、いつまでも自分の血を飲もうとしない降夜にそう言って……最後には声を詰まらせた。  震える両手は、離しはしないと必死の力で……とても優しく降夜を包んでいた。 「……俺に、君を殺して…生きろと?冗談じゃないよ…嫌だ。君は…人間だ。どうせいつかは…俺を置いて、死んでしまうじゃないか…だったら、このほうがいい…君に置いて行かれるくらいだったら…君の腕の中で死ぬ方が…ずっといい…」  降夜は、そう言って笑った。清涼は……その言葉に、また涙を溢れさせた。  なんで……どうしてそんなことを言うんだと……降夜を詰った。あんまりだと、酷いと降夜を責めた。 「……そんなに…置いて行かれるのが怖かったのかよ…!だったら…言えばよかったじゃねえか…そんなに寂しいんだったら…一人が嫌なんだったら、俺に…言えばよかったんだ!」  清涼は、そう言って顔を覗き込んで、今からでも遅くはねえ……だから早く俺の血を飲めよと降夜の頬を両手で挟んで、再び自分に引き寄せた。 「……言っても…無駄…だったんだよ…騒君…俺はね、眷属を作る力を失ってしまっているんだよ…話しただろう…?俺は子供の頃…始祖吸血鬼の眷属にされたんだって…ね。彼の名は…架希王神駕…悪魔の王様さ。俺は…彼を殺す為に…死神と取引をしたんだ。その代償が…眷属を作る力…というわけさ」  清涼の首筋に額を当てて、降夜はそう言って……苦し気に息を吐き出した。  流石に、心臓を失っては……いくら不死身の吸血鬼でもキツイ……  それでも……降夜を覗き込む、清涼の怯えた表情を見れば……それを口にすることは出来なかった。  あと少し……  そう思って降夜は必死に笑顔を向けるのだった。  大丈夫だと……そう言って、話し続けた。 「でもね…後悔はしていなかったんだよ…?俺は…自分の意思なんて関係なく…彼の仲間に…吸血鬼にされてしまったから…だから、俺は…そんな力なんて惜しくなかった…でも…」  降夜は、清涼の顔を見上げて……微笑んだ。 「……君に会ってしまった…君と離れたくないと…思ってしまったんだよ…」  降夜の言葉に……清涼は目を見開いて…… 「……っ!なら、なんで…!」  どうして……だと……清涼は声を詰まらせ、降夜の顔を見つめて泣いた。   「一緒にいてくれるって…お前言ったじゃねえか…!俺に置いて行かれるのが怖い?そんなこと…俺はしなかったのに!俺が死ぬ前に…お前を殺してやったのに…!」  泣きながら清涼はそう言って……降夜を抱く腕を、身体を震わせ……置いて行くわけがないと囁いた。  だって……お前を誰にも渡したくなんてないんだから……!  囁かれて降夜は、そっと震えた。そうか……そうだったねえと降夜は笑った。 「……今まで、一度も…好きって言ってくれたこと…ないのに…?」  降夜は、微笑んで清涼にそう言った。  いつだって……降夜を独占したいと態度で示す癖に、絶対に口に出して……その言葉を聞かせてくれたことなんて、無かったじゃないかと言えば…… 「ん…う…」  降夜の唇を熱い清涼の唇が覆った。  震えながらも……降夜の身体を抱きしめ……優しく、冷たい降夜の身体を温めるような口づけをした。 「……好きだ。お前が…好きだ!」  息の掛かる距離で……清涼は降夜がずっと欲しかった言葉を囁いた。   「やっと…言ってくれたね…?ありがとう…嬉しいよ…?ねぇ…じゃあ…改宗して…俺と結婚してくれる…?」  くすりと……弱々しく笑いを零して、降夜が強請れば清涼はすぐに頷いた。 「ああ。お前と結婚してやる…だから、早く血を飲め。ちゃんと…お前が元の…煩くて苛々する…忌々しい吸血鬼に戻ったら…すぐにでも結婚してやる!だから…」  俺はそう簡単に死んだりしねえから……だから、いくらでもこの血を飲んでいいんだと、降夜の頬を優しく撫でた。  その優しい感触に、降夜の深紅の瞳から……涙が零れた。  嬉しい……嬉しい……嬉しい……!  心の底から沸き上がる歓喜の声が身体を駆け巡った……  その強い感情は、降夜から声を奪い……ただ涙だけが溢れた。 「じゃあ…今、すぐ結婚式をあげなくっちゃ…もう、あまり時間がない…からさ」  降夜は、そう言うと、フォールを呼んだ。  小さな蝙蝠は降夜のすぐ傍まで、パタパタと飛んできて二人の頭上をクルクルと飛び回った。  それを見て……一体なにをするつもりだと清涼は顔を顰めた。 「おい…!いいから、早く血を飲めって俺は言ってんだよ!」  降夜の顔を、自分の首筋に抱き寄せ……清涼が急かす言葉に降夜は小さくごめんねと謝った。   「……たとえ…君の血を残らず飲み干しても…もう無理なんだよ…俺は、もう永い間血を…君があの日くれた時以外に飲んでいないし、俺を撃った銀の弾丸は…架希王神駕を殺したものと同じ…特別製のものなんだ…だから、俺が死ぬ前に…ね…?」  降夜はそう言って、フォールにあれを持って来てと頼むと、清涼の顔をそっと引き寄せて唇にキスをした。  清涼は……目を見開いて……唇を戦慄かせ……そんな……と呟いた。  そんな馬鹿な……!そう言って……涙を零した。  もう間に合わないのだと、どうやっても降夜を助ける事なんて出来ないと知って……清涼は、腕に抱く降夜の顔を両手で包むようにして……降夜の深紅の瞳を見つめるのだった。  いつまででも……見つめていたいけれど、見つめて欲しいけれど、それは叶わない願いなのだと……清涼に告げる降夜の瞳からも涙が零れるのだった。  パタパタ……小さな羽音に、清涼が小さな蝙蝠を見上げると、フォールはいつものように彼の金色の頭に墜落せずに、小さな布袋を代わりに落として……またパタパタと音をさせて扉の外へ姿を消した。 「一体…なんだよ…?」  掠れた声で清涼が、頭の上の物を取ろうと……手を伸ばせば、それは袋の中から零れて清涼の腕に絡まるようにして、落ちてきた。  それは…… 「……っ!…な…んで、お前…!」  それは……小さな金の十字架のネックレスだった。  清涼がこの村を出て行くときに、降夜にお守りとして必ず帰って来る約束の証として……残していってくれた……清涼の母親の形見の品だった。 「……もう…捨てられたと…思ってたのに…。こんなものを、よく今まで…持ってたな…?」  そっと……懐かしい小さな十字架を手に取って、清涼は微かに笑った。  お前にやったもんだから……例え捨てられたとしても、仕方がねえと思ってたと言って、降夜に持っててくれて……ありがとうなと囁いた。 「……捨てる訳…ないだろう?俺の為に大切な…お母さんの形見をくれた…君の気持ちがとても嬉しかったよ。でも…流石に俺が着けるわけには…いかなかったから…十字架を着けた吸血鬼なんて…笑えるだろう?だから…いつもあのマントの裏側に入れて…ずっと持っていたんだよ…」  降夜は、清涼の手にある金色の小さな十字架を指でなぞった。  小さな聖母の横顔は……今は少し悲し気に微笑んでいる気がした。  大丈夫。そんなに悲しまないで……?降夜はそっとその聖母に語り掛けた。  今……俺はとても幸せなんだ……誰よりも、きっと世界で一番……幸せだよ。  降夜は、清涼を見上げて……これを君の手で首にかけてくれないかと頼んだ。  その願いに……清涼は驚いた顔をして、真剣な眼差しの降夜を見て静かに頷いた。  清涼は、降夜の身体をそっと自分の胸から離して片手で支えると、降夜の首に細い金のネックレスをかけて微笑んだ。  良く似合う……本当は、お前なら……もっと沢山の宝石で飾られた、偉い人が着けているみたいなやつの方が、似合うだろうけどなと言った。  それに、降夜は苦笑で答えた。  そんなの欲しくないと……これがいいと言った。 「ありがとう…騒君。じゃあ…誓いの言葉…言って?」  降夜は強請った。最後の……願いだった。  それに、清涼は気付いたのだろう……ほんの僅かだけ声を詰まらせ俯いた。  涙は……もう止める事など出来ない。それでも……彼は涙に濡れた顔を上げて……降夜を見つめた。  世界で一番……君が大切だと誓う為に、あの……誓いの言葉を聞かせてほしいと……降夜の願いを、叶える為に分かったと頷いてくれた。 「…汝健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも…富めるときも…貧しいときもこれを…愛し、敬い…慰め遣え、共に…助け合い、その命…ある限り…真心を尽くすことを誓いますか…?」  込み上げる慟哭を……必死に堪えて、清涼は誓いの言葉を降夜の為に言ってくれた。  誰よりも大切な声が、降夜に問いかけた。永遠を誓えと…… 「……はい。誓います…騒君…君だけだよ…君だけに誓おう…神に愛されず…母親にさえ捨てられたこんな…呪われた命だったけど…君と一緒に過ごしたこの十年だけは…とても幸せだったよ…?ありがとう…さあ…君も誓って…俺だけだと…言って…?」  降夜は、微笑んで清涼へ手を伸ばした。すぐに、清涼が降夜の身体を抱き寄せて二人の唇が重なった。  青い月だけが見守る夜の中で……ひっそりと行われた……神の祝福も、悪魔の歓声もない……たった二人だけの、誓いの儀式だった。  唇が一瞬だけ、清涼の方から離され……降夜の耳元で低い囁きが零された。 「世界で一番、お前を愛している…誰でもない…お前が…降夜がすきだ…」  降夜の深紅の瞳から、新たに涙が溢れた。嬉しいよ……囁き返す声は清涼に届いただろうか?  再び二人の唇が重なり合い……  そして、必死に縋り付くように清涼の背中に回された自分の手が……サラサラと……音を立てて静かに白い灰になっていくのを眺めながら……降夜は最後の微笑みを、世界で最も愛しい金色を纏った目の前の男に残して……  跡形もなく、その姿を灰塵へと変えて……最愛の者の手の中でその命を終えたのだった。 「……降夜…!こう…や…!こうやあぁあぁ!!!」  青白い……月光が作り出した美しい青い闇の中で、清涼は降夜の名を叫んだ。  魂が破けるような……聞いた者の心を粉々に砕いてしまいそうな狂気を孕んだその声は……  夜の闇に……いつまでも……いつまでも響くのだった。

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