3 / 67

第3話 3月の教室②

「ごめん、今日持ってこようと思っていたのに、忘れた。」相変わらず無表情で何を考えているのかわからない奴だ、と和樹は思った。表情が読みとれないのは、前髪が長いせいもある。長いのは前髪だけじゃなくて、後ろもだが。田崎は和樹と同じ水泳部で、夏の大会で引退するまでは丸刈りだった。引退以来、一度も髪を切っていないと言う。引退するとここぞとばかりに伸ばしはじめる元運動部員は少なくなく、和樹もその一人だが、田崎ほど伸ばし放題にしているのはめったにいない。本来、男子の長髪は校則違反だが、三年生に限っては、卒業式までにきちんと整えれば先生も見て見ぬふりをするというのが、この学校の暗黙の了解となっていた。 「何の話。」 「おまえに貸す漫画。新刊が出たって言ったろ、先週。」 「ああ。いいよ、別に。明日でも。」 「いや、俺、明日から来ないから。卒業式の予行まで。」 「そうか。じゃあ、仕方ないな。」  田崎は県内の大学に進むと聞いた。卒業したら会う機会はそうめったにないだろう。東京には二時間と少しで行けるが、かといって漫画の貸し借りごときで会おうと思う距離ではない。 「うちに来ない?」 「田崎んち?」 「そう。今日、うち来てその場で読めばいいかなと思って。」 「おまえの家どこだっけ。」 「N町。学校からチャリで十五分ぐらい。」 「いいよ。」和樹も自転車通学だ。N町というと和樹の家からは学校を挟んで反対側になるが、その程度なら問題はない。 「じゃあ、そういうことで。」  無愛想なまま自席に戻っていく田崎。背中を向け、手だけ和樹に向けてひらひらさせている。挨拶のつもりだろうか。

ともだちにシェアしよう!