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第30話 母と父と①
帰宅するなり急いで自室に直行した。「宏樹? 和樹?」という母の声がする。「和樹だよ。」と大声で答えた。それから、深呼吸をした。ちょっと待て、落ち着くんだ、俺。と、心の中で何度も唱える。だが、下半身は言うなりにはなってくれない。和樹は制服のジャケットを脱ぎ捨て、ベッドに横たわるとズボンのベルトをゆるめた。そして、目をつぶり、綾乃を思い浮かべた。せめて女性に欲情したことにしたかった。綾乃とは数回体を重ねた。予想していたことだがバージンではなく、むしろベッドでは和樹をリードするほどだった。彼女の体の柔らかな胸と細い腰は実に魅力的で、わがままだったけど、やっぱり良い女だったなあと和樹は思う。あの白い肌が紅潮していく様は、他の彼女たちとは段違いに美しかった。
綾乃の白い肌。それを思い出した途端に、それは涼矢の白い腕のイメージと重なった。綾乃の熱っぽい眼差しは涼矢のあの上目遣いに。綾乃の喘ぐ口元は、口づける寸前の涼矢の口元に。
まずい、と思った時には遅かった。せっかく綾乃の肢体を詳細に思い出せていたのに、最後の最後に、そのイメージは涼矢にとってかわり、そこで和樹はフィニッシュしてしまったのだった。ティッシュで後始末をしながら、和樹は果てしないぬかるみに足を踏み入れた気がした。
「落ち着け。」と声に出して言ってみた。「なんでもない。何もなかった。」部屋着に着替えながら、そんなことを呟いてもみた。
この日は宏樹は外出していて、母親の恵と二人きりの夕食だった。父親の隆志は翌日一緒に東京に行く予定だ。それに備えて早めに帰ると今朝は言っていたが、あてにならない。
「体調はどう?」と恵が聞いてきた。
「うん、大丈夫。」
「帰って来た時もやけにバタバタして。どうかしたの。」
「別に。」
「明日はお父さんと二人で大丈夫? やっぱり私も行こうかしら。」
「え、来るの?」
「だって、あなたとお父さんじゃ心配だわ。適当に最初に見た部屋に決めちゃいそうなんだもの。」その通りになるだろうと和樹も思った。
「別にどっちだって構わないけど。来たいなら来れば。」
「もう、他人事みたいに言わないで。交通費だって宿泊代だって、ただじゃないのよ。」それから恵はハァとためいきをついて、お金ばかりかかって困るわと呟いた。さすがの和樹もこんな時は親に苦労をかけていることを申し訳なく思うが、同時に「宏樹はこんなことないのに」という母親の気持ちが透かし見えて、反抗的な感情も湧きあがるのだった。しかし、実際兄の宏樹は小学校から大学まで公立で、少なくとも教育費に関しては和樹より格段に安上がりのはずだ。さらに春からは稼ぎ手にもなり、そのおかげで自分は東京で一人暮らしができる。和樹は文句を言える立場ではなかった。
恵との食卓が微妙に気まずくなったところで、隆志が帰ってきた。「あら、早いのね」という恵の言葉に、隆志は「今日は早く帰ると言ったろう」と苦笑したが、そんな約束を何度も破っていることは本人も承知だった。
「明日、母さんも一緒に行っていいよね。」と和樹は言った。
「ああ。いいんじゃないか。」と隆志はこともなげに言った。
「でも、お金がかかるでしょ。」と恵が言った。
「こんなことめったにあるものじゃないし、どうせ和樹のことだ、上京したら俺らのことなんざ無視だろう。この機会を逃したら、ママは下宿先を見ることないまま卒業しちまうぞ。」と隆志。恵をママと呼ぶのは、今では隆志だけだ。
恵は和樹を見た。和樹に何か言わせようとしているようだ。
「父さんと俺じゃ、とんでもないアパートを選びそうだ。」と言うと、恵は満足気にうなづいた。
「それもそうね。心配だから、私も行くわ。」
そんな経緯で、翌日は両親と東京に行くことになった。大学と提携している不動産屋を使うので、たとえ適当に決めてしまったとしても、そこまでひどいアパートになるとは思えないのだが、それで母親の気持ちが落ち着くのなら、これぐらいの干渉には目をつぶろうと和樹は思った。
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