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第55話 前日③
そうこうしている内に担任がやってきて、その話はうやむやのまま終わり、粛々と卒業式の予行が行われた。式では出席番号順に席に着く。出席番号は五十音順のため「田崎」と「都倉」は隣り合う席だった。入学式の日も、やはり出席番号順に座った。和樹の脳裏に、突然その時のことが浮かんだ。
「入学式も」和樹は涼矢に小声で聞いた。「こうやって並んで座ってた?」
「ああ。」涼矢は前を向いたまま答えた。
「俺、何かスポーツやってるかって、おまえに聞いた?」
「ああ。」
「あれ、涼矢だったんだ。」そうだ。入学して、初めて会話したのは、涼矢だった。和樹は芋づる式にさまざまなことを思い出した。入学した時、同じ中学から来ている生徒がいなくて、少しだけ心細かった。勇気を出して、たまたま隣にいた涼矢に話しかけようと思った。何を言えばいいのか迷った末に、そんなことを聞いた。涼矢が短く「水泳」と答えた時、たった一言だったけれど、ものすごく嬉しかった。サッカーでも野球でもテニスでもバスケでもなく、自分と同じ水泳。それだけの会話だったが、その数日後の体験入部の時に涼矢の姿を見つけたときの心強さ。涼矢には柳瀬のほかにも同じ中学から来ている友達が何人かいて、和樹はそこから友達の輪を広げて行くことができた。
涼矢だった。俺の高校生活は、涼矢から始まっていた。どうしてそのことを忘れていたのだろう。
予行は滞りなく済んだ。この日の涼矢との会話はこれだけだった。
あのイラストファイル、もらってくれば良かったかな。和樹は帰宅後、自室のベッドでゴロゴロとしながら、そんなことを考えていた。そうしたら、会えない時でもそれを見て、少しは、慰められたかもしれない。でも、あそこで受け取っちゃったら、二度と会えない気がしたんだよなあ。
「和樹。」という声がした。恵だ。和樹はのろのろと起き上がり、リビングに行った。「ねえ、どっちが良いと思う? 紺と黒。」明日の衣装の相談のようだ。
「紺。」どちらでも好きすればいいというのが本音だが、それは恵を怒らせる言い方であることは、経験上知っていたから、先に目についた紺のスーツを指す。
「やっぱり? でもねえ、これ、丈が少し短い気がするのよねえ。」
「いいんじゃない、それぐらい。足が細く見えるし。」
「そう?」恵は満更でもなさそうだった。「あなたのワイシャツも、アイロンかけたわよ。ズボンはちゃんと皺にならないようにかけた?」
「うん。大丈夫。」高校になってからも思いのほか背が伸びたせいで、二年生の後半になって買い替えることになったズボンだった。
「最後ぐらいは、ピシッとしなさいね。」と恵が言う。
「ああ。」いつもピシッとしているつもりだけどな、と思いながらも、めんどうなので言い返すことはしない。もう用は済んだのだろうと思い、和樹は再び部屋に戻ろうとした。その時、恵が言い出した。
「明日の夕飯はどこかでお食事しない? あなたと宏樹のお祝いに。」
「ごめん、明日は帰りの時間、わからないよ。謝恩会もあるし、その後にも打ち上げとかあるかも。」
「あら、そうなの? 宏樹の予定もわからないし、そうね、じゃあ、別の日にしましょうか。」恵はさほどがっかりした様子もなかった。「でも、あまり羽目を外してはだめよ。ちゃんと常識的な時間には帰ってらっしゃい。まだ三月までは高校生なんだから、大学入学取り消しにでもなったら大変だわ。」と、母親らしい言葉も付け加えた。
「わかってるよ。」和樹は今後こそ自室に戻った。
明日の帰宅時間がわからないのは本当だった。午前中に式をして、その後にクラスや部活でワイワイと写真を撮ったりする。大抵はここで保護者だけが帰る。昼ごろからは学校の近くにある公共施設の宴会場で謝恩会と称した食事会をするのが恒例で、その後は帰宅する者もいれば、クラスや部活の仲間でどこかに繰り出す者もいる。そのどの段階で、涼矢の返事が聞けるのかもわからない。和樹はじりじりとした気持ちに苛まれながら、その夜を過ごした。
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