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第56話 卒業式①

 そして、ついに卒業式当日となった。家を出る寸前になって、母親が和樹の革靴が汚れていると言い出して、軽く一悶着する程度のハプニングはあったものの、あとは予定通りに進んだ。 「涼矢。」教室で、式が始まる前のざわついている間に、和樹は話しかけた。「式終わったらすぐ更衣室前だって。水泳部で写真撮るってよ。」 「了解。」涼矢はまだ目を合わせない。 「奏多が見てたらしい。映画観に行ってた日の俺達のこと。」小声でそう言うと、ようやく涼矢ははっきりと和樹を見た。「でも、シネコンの近くで見かけたってだけで、あとは何も。」 「ああ、そう。」また目をそらす。和樹は黙って自席へと戻った。  二年生が教室に入ってくる。卒業していく三年生の胸に、小さな花飾りをつけるためだ。担当は機械的に決められているので、人気者の争奪戦にはならない。去年、和樹も全然知らない男の先輩につけた記憶がある。せめて女子がつけてくれるといいなあと思っていると、なかなか可愛らしい女の子が和樹の担当としてやってきた。ピンで胸ポケットのあたりに挿す、その手が小刻みに震えている。「大丈夫? ゆっくりでいいよ。」と声をかけると、女の子は真っ赤になって「すみません、緊張しちゃって。」と小さな声で言った。可愛いな、と和樹は思う。やっとのことでピンが刺さると、女の子はホッとしたように笑顔を見せ、「都倉先輩、卒業、おめでとうございます。」と言った。「ありがとう。」と和樹は答える。その途端、くるりと踵を返し、小走りで廊下に出ていった。かと思うと間髪を入れずに廊下から「キャー」という嬌声が聞こえてきた。運よく憧れの先輩にあたった子が興奮して出す声らしい。和樹を担当した子もその一人だったようだ。  もうすぐ、式が始まろうとしていた。  和樹は涼矢を見た。もう既に胸には飾りがある。どんな後輩がつけたのかはわからない。後輩にも、いつも通り無愛想にしていたのだろうか。その時、こちらを見た涼矢と目が合った。また即座にそっぽを向かれるのだろうと思っていたが、そうはならなかった。涼矢は和樹に向かって微笑み、しかも、手招きしたのだ。和樹は吸い寄せられるように涼矢に近づいた。 「そろそろ入場です。みんな、名簿順に整列して。」という学級委員の声がした。そのために俺を呼んだのか。それだけのことか。和樹は、腑に落ちた安堵と、落胆と、双方の気持ちを味わった。たかだか微笑まれて、手招きされて。それだけのことで、一気に鼓動が速くなる。まるで初恋のようだ。廊下ですれ違うだけでドキドキして、目が合ったら飛び上がるほど嬉しくて。さっきの二年生だって可愛かった。綾乃は今日も美しかった。でも、やっぱり、今は涼矢だ。涼矢に笑いかけてほしい。それだけで幸せだ。……そう思った次の瞬間、それを否定する自分もいた。それだけで幸せなわけがあるか。本当は、今すぐ抱きしめたい。触れていたい。あの熱い唇にキスしたい。初恋のような甘酸っぱい気持ちと、怒涛の性欲が同時に押し寄せてくる。  そんな和樹の混乱は、校長の長い訓辞がクールダウンしてくれた。それから何人かの偉い人からの祝辞も。ごくスタンダードな卒業式だった。卒業証書を受け取り、歌を歌い。女子の何割かはすすり泣いていた。

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