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第5話

(ああ…) トビアスは涙が溢れ出した。 次から次へ、まるで氾濫した河のように。 同時に溢れてくるもの。 それは、愛情だ。 トビアスの意思か、それともトビアスの中に眠るトーマスの魂がそうさせたのかわからない。 トビアスは怪我の痛みが残る身体を起こし、さめざめと泣くユリアンを力一杯抱きしめた。 (そうだ、思い出した。) 5本の薔薇が示す意味を。 「あんたに逢えて…本当に、良かった。」 背に回ったユリアンの腕の力は、人よりも弱々しかった。 かちゃ、とティーカップが控えめな音を立てる。静かな洋館に、それはやけに響いて聞こえた。 「ずっと…待っていてくれたんだな。」 2人の息の音。 ささやくような話し声。 布がこすれる音。 ユリアンの鼓動の音さえ、聞こえそうだ。 「約束…しましたから。」 微笑んだユリアンの顔は、少しだけ歪んでいた。今にも泣きそうな、淋しさと苦しさを滲ませた笑み。 トビアスはその笑みを見て、心に暗い影が現れたのを感じた。 こんな微笑み方をさせたトーマスが許せない。 待っていてくれ、なんて。 死ぬかもしれないことはわかっていたのに。悪魔であるユリアンが長い長い時を生きることもわかっていたはずなのに。 かつての自分に対する、怒りだ。 「ユリアン…俺の名を呼んでくれないか。」 「トーマス?どうしました?」 「いや。」 魂はトーマスと同じものかもしれない。けれど、心までは同じではない。 「トビアス、と。」 一流のオペラ歌手なんかよりもずっと美しいユリアンのその声で呼ばれた名は、この世の中で最も格調高い名のように感じた。 トビアスの傷はその後間も無く癒えたが、トビアスは村に帰らなかった。 ユリアンが育てる庭一面のアネモネの花を共に世話して、時には共に狩りに出て、時には木の実や山菜を採取した。 飯を炊くこともろくにしたことがなかった年若いトビアスが自給自足の生活をするのは楽ではなかったが、幸せそうなユリアンの顔を見ているだけで満足だった。 そうしてトビアスは37になった。 ぼんやりと起き出して顔を洗ったトビアスは、洗面台に抜け落ちた白い毛を見て愕然とした。 ユリアンの輝く白銀の髪とは違うそれは、明らかに、白髪。トビアスは慌てて鏡に映る自分の姿を見た。 目尻にほんの少し浮かぶ皺。 艶を失った肌。 重力に負けた頬。 トビアスは悟った。 いつかまた、ユリアンを独りにしてしまうことを。 トビアスは考えた。 考えて考えて考えて、既に数ヶ月が過ぎた。 ユリアンは人間には考えられないほどの長い時を生きる。対してトビアスは、あと30年も生きたらいいところだろう。 そのあとは? また、待っていてくれと頼むのか?ユリアンは待っていてくれるだろう。気が遠くなるような長い時を、この寂しい洋館で独り、トビアスを待ち続けるだろう。 けれど、次も逢いにこられるか? 300年前に死んだトーマスの生まれ変わりがトビアスなのは間違いない。が、その間に誰もいなかったのか?トビアスとして生を受ける前に、生まれ落ちてユリアンに逢わずに死んでいった者もいたのではないか? だとしたら、もしトビアスが先に逝ったとして、必ず次があるとは約束できない。未来永劫、ユリアンを独りにしてしまうかもしれない。 「トビアス、ここのところ様子がおかしいですよ?体に異変はないようですが…」 「ああいや、気にするな。ちょっと髪が伸びてきたなと思ってな。」 「あ、本当ですね。夜に切って差し上げます。」 「頼む。」 トビアスはシルバーをギュッと握りしめた。キラリと光る、フォーク。 トビアスはそれの先をじっと見つめる。 美味かったよと席を立ち、トビアスは食器を下げにキッチンへ向かった。 先ずは、悪魔を、ユリアンを知らなければならない。

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