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第6話「加害者:木野 都香沙」

 尚人(なおと)と別れて早めに自宅に着いた(もとき)は、母が準備した夕食を一人で早めに食べると、塾へ行くと嘘を吐いて家を出た。  その足で木野都香沙(きのつかさ)の住むアパートへ向かう。彼女のアパートは、基の家から歩いて十五分くらいの所にあり、訪れるのは今日で二度目だった。  まだ真新しいアパートの階段を三階まで上がり、角部屋の扉のインターホンを押すと、まだ帰って来たてといった装いの都香沙が基を出迎えた。 「着替えるから、ちょっと待っててね。」  2DKの間取りの部屋の居間のソファへ基を座らせると、都香沙は隣の寝室へと身を潜めた。引き戸が数センチ空いており、基は無意識に唾液を嚥下した。しかし覗きに行く勇気は出ない。  暫くするると、ショートパンツに胸元の大きく空いたセーターを着た都香沙が現れた。 「塾に行くって、言って来たの?」 「はい。」 「…じゃあ、十時くらいまで大丈夫だね。」  都香沙が二人分のコーヒーとケーキを用意して、基に勧めた。 「都香沙さん、夕食は?」 「今、ダイエット中。ケーキ食べるから、それ以上は食べない。」 「え?そんなに細いのに?」 「こう見えて、基君より重たいかもよ。…胸、大きくしたいって思って食べてたら、ちょっと太っちゃったんだよね。」  基は目を伏せてコーヒーを啜り、都香沙の言葉を聞かなかった事にした。   「基君、お父さんの携帯電話(ケータイ)の待ち受けって、見た事ある?」  急に話が切り替わり、基は視線を都香沙に戻した。 「ないですけど…。」 「この前、チラッと見えたんだけど、基君なんだよ。…多分、小学生の頃のかなぁ。溺愛されてるの?」 「そんな事ないですよ。とても厳しい感じで…。」 「怖い?」 「…多少は。」  都香沙はよく基の父の話をする。共通の知人と言えば都香沙の上司でもある父なので、仕方がない事だと分かっているが、基は少し不快に思う事があった。 「基君が私と会ってるなんて知ったら、お父さん、激高しちゃうかもね。」  都香沙が頬を紅潮させた。興奮しているように見えて、基が不思議そうな顔を向けると、彼女は距離を詰め、抱きついてきた。 「木野さん!?」 「都香沙って呼んでみてよ。」 「都香沙…さん…。」 「キスしてあげようか?」 「え…、あの…。」 「…そういうの、想像しなかった?」  否定出来ない基の唇に、都香沙の唇が重なった。歯列を割られ舌が入ってくると、基は衝撃を受けて体を引いた。しかし拒絶は許されず、次第に彼は流されるように都香沙を受け入れた。 「初めてだよね?…これから少しずつ教えてあげる。」  基の中に都香沙が侵食していく。 「今週末、また来てよ。…もう少し気持ちいい事してあげる。」  週末の午後、言われるままに基は都香沙の元を訪れた。特に何の会話もなくキスを始めると、都香沙が基の上半身を露にさせた。基が同じように彼女の薄手のセーターに手を掛けると、それはやんわりと拒否された。  都香沙の唇が、基の薄く色付く乳首を這い、舌で濡らし始める。 「どうして…そんな事するの?」 「基君に…してもらいたいから。…だから、今日はこれを覚えて帰ってね。」  胸への愛撫が再開されると、基は洩れそうになる声を堪えた。 「可愛い…。基君は…乳首だけでイイみたいだね。」 「そんなわけ、ないでしょ…。」  基は都香沙の頬に触れて行為を止めさせると、彼女の唇を唇で塞いだ。それに答えるように都香沙が舌を割り入れてくる。 ――ああ、この子とのキスって、レズビアンになった気になるのよね。  都香沙は指で執拗に基の胸を攻め上げた。 「…いや!」  基が声を上げる。都香沙の愛撫に感じた訳ではなく、また再び暗い闇が彼の脳内を占めたのだった。彼の意識が遠のいていく。 「嘘!?…基君?」  都香沙は慌てて基の鼓動を確認して安堵する。 ――てんかん持ちなのかしら?…まあ、いいわ。  都香沙は彼のジーンズと下着を途中まで下ろすと、デジタルカメラを手にして構えた。 ――半勃ちして気絶なんてあるんだ…。意外と大人になってるじゃない。…この写真、会社のPCから匿名で課長に送り付けてみようかな。  都香沙は(わざ)とらしく乳白色のローションを、意識のない基の腹部に垂らして写真を数枚撮った。     半井美月(なからいみづき)は、ここ最近の息子の嘘に気付いて悩んでいた。学校から真っ直ぐに塾へ行ったとか、塾で知り合った友達の家に行く等、気付き難い嘘の数々だったが、息子の微妙な表情から美月は、それらが嘘である事を痛切に感じ取っていた。 ――好きな女の子でも出来たのかしら。  つい先ほど塾へ出掛けて行った息子の部屋の前に立ち、美月は逡巡しながら扉を開けて中へ入った。きちんと片付けられている机の上に、買い与えた覚えのない携帯電話があるのを見止めて、彼女はそれを手に取った。その瞬間、インターホンが鳴り、夫の帰宅を感じ取った彼女は、それを手にしたまま玄関へ走った。  玄関で夫を出迎えると、ここ暫く見た事がないくらいの不機嫌な顔に、美月は一瞬、怯んでしまった。 「お帰りなさい。和彦さん、何かあったの?」 「基は?」  美月の質問には答えずに、和彦は息子の所在を訪ねた。 「ついさっき、塾へ行きましたけど…。」  和彦は美月の手に握られた携帯電話に気付いた。 「それは、どうした?…君のか?」 「いいえ。…実はこれ、基のとこで見つけたんです。」  聞くや否や、和彦は美月から携帯電話を取り上げた。そして躊躇なく中身を確認していくと、彼の整った顔が鬼の形相へと変化した。 「基を(たぶら)かした女が居たようだ。」  そう吐き捨てると、帰って来たばかりの和彦は、再び玄関の扉に手を掛ける。 「和彦さん、何処へ行くの?」 「その女の処だよ。…君も一緒に来るか?」 「いいえ、私は…。」  美月は怯えた表情を浮かべる。彼女は過去に幼い基に傷を負わせてしまった際に、酷く頬を打たれた事を思い出していた。 「あなた!…乱暴な事は止めて下さい。」 「分かってるよ。」  塾へ行く道中、基は携帯電話をうっかり机の上に忘れてしまった事に気付き、慌てて引き返した。家に帰ると、少し顔色が優れない母親が出迎え、心配そうに見つめられた。 「基、お父さんに会わなかった?」 「会わなかったけど。もう、帰って来てたの?」  母親が言い難そうに切り出す。 「基の机に携帯電話があったんだけど、お父さんが中身を見て、その携帯電話の人のところへ行ってしまったわ。…電話はお父さんが持ってる。」  その瞬間、基の心臓は止まりそうになった。慌てて玄関を飛び出す。嫌な予感しかしなかった。  都香沙のアパートまで全力疾走する。厳格な父がどんな態度に出るのか、想像するのも辛かった。  アパートへ辿り着くと、なるべく息を整え、都香沙の部屋の扉に手を掛けた。鍵は掛かっておらず、中に入ると、玄関先にある父親の靴を見つけた。  その瞬間、都香沙の明るい声が洩れ聞こえてきた。 「課長の方から私に会いに来てくれるなんて嬉しい!」  基は殴られたような衝撃を味わった。 「息子を誘惑したのか?」 「少しだけ。…でも本当は中学生なんかに興味ないし、目的は課長だったから…。」  そこまで会話を聞いた基は、湧き上がる怒りと悲しみを堪え、その場を離れた。  基の気配に気付かないまま、彼が去った後も二人の対話は続けられていた。 「一度はっきりと、君の事は拒絶した筈だが?」 「ええ、ショックでしたよ。…それで尚更、火が点いたっていうか…。どんな手を使ってでも、課長を落とすって決めたんです。」 「どうして息子に手を出した?」 「課長が息子さんの事、溺愛してるって聞いた事があって…。最愛の息子が興味を持った女性が誰なのか、絶対に気にするって思ったんですよね。」 「…私の所為でこんな事に。」  和彦は愕然となり、苦悩の表情を浮かべた。それに気付かない風の都香沙は、ノートPCの前に行くと、画面に裸体を晒して横たわる基の写真を開いた。 「この写真、どう思いました?匿名で送ったのに、ここに辿り着くの、早かったですよね。」 「息子をレイプしたんじゃないだろうな?」 「私が?…彼が私に夢中になったんですよ。彼、…すごくHな事考えてたみたい。でも、しょうがないですよね?私がこんな体してるから。」  ブラウスのボタンを外し、盛り上がった胸を彼女は見せつける。それを一瞥しただけで、和彦はPCの画面に視線を固定した。 「ちゃんと、私を見て!…怖いんですか?私にハマってしまうのが。」  都香沙が和彦の手を取り、自身の胸元へと誘うと、激しく手を振り払われた。 「自意識過剰な女だな!…私の息子に比べると、君なんかゴミ以下だ。」  蔑まれた都香沙は、自身の耳を疑った。 「私の息子は…美しいだろう。こんな綺麗な子が生まれてくるなんて、本当に奇跡を感じたよ。…そんな基に、君のような汚れた女が触れるなんて!」  和彦の手が都香沙の顎を乱暴に掴む。彼女は身の危険を感じて身を竦ませた。 「その汚らしい唇で、基にキスしたのか!?…基を裸にして、その肌にも触れたのか!?」  和彦の蔑みに、都香沙は(かつ)て感じたことのない憤りを宿し、体を震わせた。 「私に暴力を振るったら…この写真、住所付きで今直ぐゲイのサイトにアップしますよ。」 「教唆するつもりか?女だって強姦罪は適用される。…もし、基に何かあれば、君も同等の罪で訴えてやるからな!」 「…怖~い。息子溺愛がここまでなんて思わなかった。…まさか、息子を抱きたいなんて思ってないですよね?」 「私が?…基を汚す筈がないだろう。…汚らわしい言葉ばかり吐きやがって、永遠に口が利けないようにしてやろうか?」  都香沙は和彦から真の狂気を感じ取り、彼から距離を取った。 「二度と息子に近付くな。でないと、おまえの人生、終わらせてやるぞ。」  和彦の今までにない低い声が、都香沙から戦意を奪った。和彦はPCに触れ、基のデータを削除すると、都香沙が基に渡していた携帯電話を彼女に投げつけ、その部屋を立ち去った。  涙ながらに帰宅した基に、母親の美月が駆け寄った。 「基!…どうしたの?」  基は悲しみよりも怒りを優先させようとして、涙を必死でコントロールした。 「…父さん、浮気してるよ。…部下の木野都香沙って女の人。今頃、寝てる筈だ。…今、父さんに電話してみたらいい。」  復讐を目論む基は、母親を巻き込む決意を下した。現時点の彼は、二人が離婚する事態が起こっても良心が痛まない気がしていた。しかし、母親は狼狽えることはせず、首を横に振って悲しそうに微笑んだ。 「違うのよ、基。…お父さんは、あなたを誘惑した女性を懲らしめに行ったの。お父さんは…あなたの事を一番愛しているのよ。」  母の言葉が基の感情に打ち水を掛ける。涙と怒りの感情が引き、疑問の言葉を口に出せないまま母を見つめた。

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