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第8話「医大生:室生 朔也」
母親の心配を他所に、基 はあっさりと、父親が決めた私立の男子校への進学を承諾した。
四月――。有名デザイナーがプロデュースしたというブレザーの制服を身に纏った基は、新しい環境へと身を投じた。見知らぬ土地、見知らぬ人々は新鮮で、不安も大きかったが、そのプレッシャーが嫌な記憶を忘れさせてくれた。
受験合格の通知の直後に一度、会食していた下宿先の室生 家の人々は、とても温かく、人見知りの基の心を直ぐに解いてくれた。
特に、医学部の三年生だという朔也 は気遣いが上手く、基を優しくリードし、基は直ぐに彼を信頼した。
室生家は二世帯住宅で、数年前に朔也の祖父母が亡くなってからは、一階を室生家夫婦が使い、二階を息子の朔也が一人で使っているという事だった。
その二階の一室を基は間借りさせて貰う事になった。
とある四月の終わりの夕食後、朔也が温室へ行こうと誘って来た。
室生家には外へ出る渡り廊下があり、それは中庭の隅にあるガラス張りの部屋へと続いている。そこを室生家では温室で呼んでおり、無数のプランターで植物を育てているようだった。
基は此処へ来た時から興味を持っていた場所だったので、素直に彼の後を追った。
サッシになっている入口から中へ入ると、十畳分くらいの広さのそこに、プランターが並ぶ雛壇が周りを囲むように設置されていた。その中央には応接セットが配置されており、朔也が三人掛けソファの方に座るように基に示唆した。
植物の事をよく知らない基だったが、一角に固まって咲いている、アサガオのような白い花達を美しいと思い、心を綻ばせた。
朔也はティーカップを二つ用意すると、持ってきていた魔法瓶からお茶を注いだ。独特なハーブの香りが漂ってくる。
「部活、陸上部なんだってね。正直、意外で驚いてるよ。」
「運動、出来ないように見えます?…中学の時はバスケ部だったんですけど、高校に入ったら、入部希望者達の高身長に気圧されて…。陸上部に入っちゃいました。」
基の正面に座った朔也が、基の顔を覗き込む。
「走るの好きなの?短距離?」
「長距離です。」
「へぇ。…ランナーズハイって、やっぱり気持ちいいの?」
朔也の問に、基は記憶を辿ってみた。
「まあ、達成感とがあるし。…ハイになってるのかな?ちょっと比較対象が見当たらなくて…。」
「未成年だしね。…脳内麻薬物質 って知ってる?長距離走るとね、脳内麻薬の一種でエンドルフィンって物質が分泌されるんだけど、それには鎮痛作用もあったりしてね、正に麻薬なんだよ。」
基は感心しながら、朔也自身に興味を持った。
「朔也さんも、お父さんみたいな脳神経外科医を目指してるんですか?」
「医者は目指してるけどね。…俺的には一研究員でもいいかな、って思ってる。」
「そうなんですね。…精神科医になったばかりの従兄がいるんですけど、朔也さんは、また別のタイプって気がします。」
「…俺は野心もなくて、元々怠け者だしね。」
朔也が自嘲し、基は慌ててフォローする。
「頑張ってるじゃないですか!全然、遊んでるとこ見ませんし…。」
実際、基は朔也が遊んでいる姿を見た事がなかった。いつも難しそうな本を読んでいるイメージが強い。
「遊んでるよ。ここに入り浸って、植物ばかり見てる。…ここは祖父が作った部屋なんだ。祖父が亡くなった時に一度、ここの植物達は撤去しようって事になったんだけど、その頃、居候してた叔父が、ここの世話を引き継いでね。その叔父も亡くなってしまったから、今度は俺が引き継いだんだ。」
基は彼の叔父さんが八年程前に、交通事故で他界したと聞いた事を思い出した。同情した顔をするべきか悩んだ瞬間、彼は突如、激しい頭痛に襲われた。そしてその直後、見知らぬ若い女性の顔が浮かんできた。その女性の瞳孔は開いており、口元から白い液体を垂らしている。そしてその体は黒い影により揺らされていた。
基は吐き気を催し、手で口を覆った。
「どうしたの?」
朔也が驚いて基の顔を覗き込む。
「少し…気分が…。」
「ハーブティーが合わなかったのかな…?」
「いえ、たまにあるんです。…環境の変化による…ストレスとかかな…?」
基が誤魔化すと、朔也は信じてくれたようだった。基を抱きかかえるようにして椅子から立たせると、そのまま横抱きにした。
「あ、歩けますよ。」
「心配だから、ベッドまで運ぶよ。」
基は尚も再生を繰り返す脳内の映像に耐えながら、朔也に身を任せた。
その日の夜、基は悪夢に魘された。それは温室で見た映像が更に鮮明になったもので、顕在意識下でない分、彼を苦しめた。
場所は室生家の温室で、黒い影だったものが、見知らぬ三十代前後の男の姿に変わり、意識が朦朧としている若い女性の衣服を剥ぎ取っていく。
「ちゃんと見てろよ。」
男は基にそう言うと、女性を犯し始めた。基は目を逸らしたいのに逸らせず、止めるように叫び続けた。逃げ出したかったが、体が縄で縛られている事に気付く。
男は笑いながら腰を振っていた。普通の精神状態ではなさそうだった。やがて高まりを極めた男は、女性から体を離すと、基の顔へ淫水をぶちまけた。
そこで目が覚め、基は悪夢から解放された。しかし嫌悪感からは解放されず、彼は耐え切れずに嗚咽し始めた。
涙が引いていき、少し冷静になると、基は自分には特殊な能力があるのだと改めて理解した。そうだとすると、この映像は朔也からか、あの温室の中の残留思念から来たものではないかと推測する。そして、あの温室で、人知れず何か事件が起こっていたのだと決定付けた。
――朔也さんが、叔父さんの話をした辺りで視えた気がする。…じゃあ、あの男の人は、朔也さんの叔父さん?
この事を室生家の人に話すと、どうなるだろうか、と基は思案する。きっと今の関係性が崩れてしまい、ここには居られなくなるだろう。
――視なかった事にするしかない。
基はそう決意した。
週末になり、父親の和彦が迎えに来て、基は実家へ帰省した。その日は必ず父親と風呂に入り、体を隈なく洗われるという事が、基にとって当たり前になってきていた。
「学校は問題ないか?」
「うん。みんな、いい人ばかりだよ。」
「…運動部は無理に続けなくていいぞ。怪我してからじゃ遅いからな。」
「大丈夫だよ。」
「室生家はどうだ?」
「…うん。そっちも問題ない。みんな優しい。」
和彦は息子の僅かな陰りを感じ取ったのか、基の体を滑らせていた手を止めた。
「何かあっただろう?」
「…父さんはさ、人の考えてる事が視えたことある?」
基は答えずに質問を返した。
「推測なら出来る。…八割方当たってるかな。…基は分かるのか?」
「分からないよ。…分からないけど、嫌な気分にさせられる時がある。」
「朔也君と何かあったか?」
「何もないよ。…ただ、あそこにある温室が嫌なだけ。」
「温室?」
和彦は訝し気に眉を顰めた。
「昔、室生家の温室…離れで、何か事件があったとか聞いた事ない?」
「…ないが、気になる様なら、室生さんに訊いてやろうか?」
「訊かなくていいよ!…気のせいだから!ちょっと、怖い夢を見ただけだから!…それよりも、早く洗い終わって。」
基は慌てて拒否し、手を止めていた和彦を促した。和彦の手が基の内股に差し込まれる。基は俯き、感覚を遮断する努力をした。
室生家での下宿生活を、表面上では問題なく過ごしている基だったが、夜になると時折、悪夢に魘された。それが嫌で、彼は部活に打ち込み、夜は疲労困憊して眠るように心掛けた。
朔也に温室に誘われる事も度々あったが、何かと理由を付け、基は温室に近寄らないようにした。
そんな生活をして一月程が経過した頃、自室に入る際に、基は朔也に呼び止められた。
「…基君さ、温室を避けてるよね?理由を教えてくれないかな。」
「避けてはないんですけど…。」
返答に困っていると、基の携帯電話が鳴った。尚人からの着信だった。
「すみません!中学の時の友達からで…。本当にすみません!」
助かったと言わんばかりに、基はの自室へ駆け込んだ。
尚人との久し振りの長電話が終わった頃、基の部屋の扉がノックされた。返事をすると、朔也がお茶を運んできた。
「カモミールティーを淹れたんだ。」
机に広げられたノートや参考書を避けてティーカップが置かれる。
「有難うございます。」
「宿題?」
「あ、これからです。…さっきまで電話してて。」
「中学の?…幼馴染?」
「そうです。…色々、心配性な奴で。…男子校って聞いただけで、何か変な想像してるし。」
朔也は軽く笑いを洩らした。
「変なって、ホモとか?」
「…そんなとこです。」
「君なら有り得るかもね。…実際に告白されたりとかあるんじゃない?」
揶揄われているのだと分かり、基は不愉快な顔をした。
「ありませんよ。」
「俺は…あったよ。」
朔也の言葉に、彼が基の通う高校の卒業生である事を思い出した。祖父がクォーターだったいう朔也の顔は、どことなく異国の血が感じられるような彫の深い精悍な顔をしている。そんな彼に憧れを抱いた同性が居たとしてもおかしくないと基は思った。
「付き合ったりはしてないけどね。」
朔也は間近で基の顔を見つめて来た。基は驚き、そして戸惑う。
「基君を見てるとさ、性染色体に異常がないのかなって…少し心配しちゃうんだけど。」
朔也の言葉の意味が理解出来ずに、基は彼の真意を探る様に目を合わせた。
「染色体…異常…?」
「そう。中学の頃、習っただろ?…人間の四十六個ある染色体の内の、性別を決める染色体が男だとXY、女だとXXの形をしているって話。それが時として異常を来して生まれてくる事があるんだ。」
「…奇形児とか、ダウン症とか?」
基は精一杯の知識で着いていこうとする。
「違うよ。姿は一見普通なんだ。だけど、男に生まれたのにX染色体の数が多かったり、女に生まれたのにXでなくOの形をしていたりすると、らしさが欠如してしまうらしい。前者はクラインフェルター症候群、後者はターナー症候群って言うんだけど、その辺の話は知らい?」
基は首を横に振る。しかし朔也が言いたい事は何となくわかった。
「俺が男らしくないって言いたいんですか?」
「…だってさ、髭とか脛毛とか全然ないだろ?剃ってるとこは見た事ないし。その顔はメイクしてる女の子より綺麗だしね。…性器が極端に未発達だったりしない?」
「見せればいいんですか?」
基が怒気を含んだ時、朔也は笑って一歩下がった。
「冗談だよ。…君がさ、温室を嫌がってる理由が、俺を避けてるからじゃないのかなって思えて、意地悪を言っただけだよ。」
先程の話の着地点が温室の件に辿り着いた事を、基は少し意外に思い、怒りを振り払った。
「…虫が苦手なんです。虫、いるでしょう?温室って。」
基は改めて考え付いた言い訳をした。
「いないよ。だから、また行こうよ。」
朔也の懲りない誘いに、基は笑顔で返事を濁らせた。
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