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第10話「心療内科医:倉本 羽京」
来院の患者が途切れた隙に、倉本羽京 は診察室横の自室へ移動し、デスクの上のPCを操作し始めた。
そして彼の従弟である半井基 のファイルを開く。
羽京が従弟の精神面を見守り続けて、十年の月日が経っていた。幼い頃から自分に懐いてくれた基の身に悲劇が起きた事を、叔母に当たる基の母親に知らされてから、基の達ての願いで、彼が高校を卒業するまでの期間を、当時、借りていた2LDKのアパートで一緒に暮らした。
基の身に起きた事件は、その日、勤務先の病院から一時帰宅した室生 家の主の通報により公となった。
異臭漂う部屋の中で、全裸を淫水に汚された基と、性器を出したまま、血塗れで気絶している実子の姿と、呆然自失となっている見知らぬ少年の姿を見た室生氏は、隠蔽する事も考えず、現状を有りのまま告げ、救急車を呼んだ。
警察の立ち入り捜査が入ると、マスコミからも注目を受け、自家栽培の植物から作ったドラッグを使用し、大学生が少年の暴行に及んだと報道された。
近隣の者からの詮索を怖れた半井夫婦は、息子の回復を待たずに、速やかに転校の手続きを進めた。
当時、駆け出しの精神科医だった羽京は、事件のあった市より離れた場所に一人暮らしをしていた。その時、一時的に決定権を失っていたらしい半井家の当主の反対がなかった為、いつも迎合しがちだった叔母が主導権を握って事を進め、半ば強引に基を羽京の元へ住まわせた。
病院ではなく、日々の生活の中で、羽京は従弟にさり気なくカウンセリングを行った。全てを語ろうとしない基だったが、何か大きな不安を抱え、怯えている様子も窺えた。
時折、基は羽京のベッドの中に潜り込んでくる事があった。拒むことは出来ず、羽京が彼を優しく受け入れると、基は嬉しそうに寄り添った。
「事件の事は…覚えていないんだ。」
そんな日々を繰り返し、事件の事に触れてみるか悩んでいた羽京に、十六歳の基が自ら切り出した。その第一声に、羽京は複雑な表情を浮かべる。
彼に使用された薬物の主な成分にはスコポラミンやアトロピンがあり、彼が強姦されている間は無痛状態だったとの推測はしていた。
しかし記憶が抜け落ちているという事から、過度の摂取により譫妄 状態になっていた事実が分かると、恐怖を感じた。命に別状がなくて幸いだったと心から思う。
「事件の事なんかよりも、…ずっと前から、羽京さんに話したい事があったんだ。」
そんな羽京の心配を他所に、基は羽京が想像した事もない話を語り出した。
そこで初めて、羽京は基の特殊な能力を知る事となる。
最初が何時だったのかは覚えていないという基は、ごく稀に、見た事のない記憶が脳内に浮かび上がってくると言った。その内容は大抵不快なもので、視た後に倒れてしまう事も偶にあるという事だった。俄かに信じがたかった羽京だったが、基の辛さを懸念しつつ、これまでに視たという他人の記憶を詳細に話してもらうと、心的外傷を持つ社会病質者 が、基に悪念抱いた際に、彼らの心的外傷となった記憶を流し込むのではないかという仮説に辿り着いた。
基に話すと、彼は納得してくれたようだった。
「警鐘って考えたら、使える能力なのかもね。…でも、正直、いらない。」
「辛かったら俺に話して。いつでも共有するから。」
根本的な解決が出来ないまま、基は大学生になり、実家から通う事になった彼は羽京の家を出た。可成り明るさを取り戻した彼が、羽京の元を訪れる事は少なくなり、羽京は寂しさを否めなかったが、いい兆候だと素直に喜んだ。
それから一年半が経った頃、再び傷付いた基が羽京のアパートへ訪れた。夜九時を過ぎた突然の訪問に、驚いて玄関を開けると、苦しそうな顔をした基が羽京に抱きついてきた。
羽京が中へ引き入れると、基はTシャツを捲り上げ、明らかに暴行を受けたと分かる打撲痕を見せた。父親に見られると困るという理由で、基は泊めて欲しいと言い、羽京は適当な理由を付けて彼の両親を納得させた。彼は原因を語ろうとせず、羽京もその日は何も尋ねなかった。
翌朝になると羽京は、後継ぎのいない恩師から引き継いだ心療内科医院に基を連れて行った。正式に診療を行う為に、予約の患者に予定を変更して貰うと、二人きりのカウンセリングルームで催眠療法を行った。
「昨夜は誰と会ってたの?」
一人掛けのリクライニングソファに体を預け、目を閉じた基は静かに口を開いていく。
「…尚人。」
「尚人君は基に何かした?」
基の唇が震え、長い睫毛には涙の雫が絡んでいった。
「…殴られた。」
「喧嘩したのか?」
「…俺が汚れてるって、尚人が。…尚人の記憶が視えたんだ。」
そこから基の呼吸が乱れ始めた。
「俺が…朔也さんに犯されてた。…男なのに!…朔也さんのが…俺の中に…入ってて…。俺は…ただ受け入れ続けてて、一杯、精液が…!俺の体に…!」
基はひと際大きくしゃくり上げると、小さな子供のように声を上げて泣き出した。羽京は暫くそのまま、彼の様子を見る。号泣がやがて啜り泣きに変わった頃、羽京は催眠を解いて、基にティッシュを箱ごと渡した。先程の一部始終を覚えているであろう基は、俯き、顔を上げられずにいる。
「少し、すっきりした?」
「うん…。でも、…俺、恥ずかしい。」
「大丈夫だよ。恥ずかしい事なんかない。」
基の今の状況を把握した羽京は、自身も涙を堪えて彼の頭を撫でた。折角、辛い記憶が抜け落ちていたのに、四年の月日が経ってから、尚人の視点による最悪な場面を目の当たりにしたのだ。
これは彼にとって障害となるに違いないと思い、羽京は時間を掛けてでも取り除いてあげなければならないという使命感を帯びた。
「基、これから薬物を用いた治療を行いたいけど、どうかな?」
「薬物って?…どんな治療?」
「アモバルビタールというバルビツール系の睡眠薬を使って、半覚醒状態で対話する治療だよ。」
「今の俺に…必要なの?」
「…無理強いは出来ないけど、これから基の心と向き合っていく為には必要だと思ってる。」
基は承諾し、羽京はアミタール面接の準備を始めた。通常は付き添いを付けて行う施術だったが、院長の特権で看護師を介さずに羽京一人で行う事にした。
基の静脈にゆっくりと薬品を注ぎ込んでいくと、彼から苦悶の表情がとり除かれ、淡い吐息が洩れた。
「今、基を苦しめているのは何?」
「…穢された記憶。」
「十六歳の基は…辛い思いをしたね。でも、もう四年も経ったんだ。過去の苦しみに捉われる事はない。」
「…十五歳の俺も辛かったよ。木野都香沙 って女がさ、俺を闇に突き落としたんだ。」
「彼女に何をされた?」
「…キスをされた。…辛かったのは彼女の事を考えてオナニーしてしまった事。その罪悪感は未だに消えない。」
薬の効果で、基は躊躇なく心の中の蟠りを吐露していった。
「男なんだし、当たり前の事を基はしたんだよ。罪悪感なんて感じる必要はない。」
「彼女の事を憎んでるんだ。父さんに相手にされなかったからって、俺に手を出して…。そんな女に欲情したなんて最悪だろ?」
「それも過去の事だよ。これから素敵な女性に会えば…。」
「無理だよ。…女はみんな無理。男も多分、無理。…俺は汚れているから。」
「基は汚れてないよ。尚人君の言葉は気にしなくていい。」
「本当に?…男に犯 られた体でも?」
「そうだよ。そんな事で基は汚されたりなんかしない。」
「俺ね、…もう、ずっと…オナニーしてないんだ。出来なくなったっていうのが、正しい感じ。…ねぇ、俺は…朔也さんとのセックスでイけたのかな?」
「あの時は薬の所為で、何も感じてなかった筈だよ。」
基が突如、自身の下半身へ手を伸ばした。そして熱を持った中心をジーンズの上から擦り、息を荒くし始めた。
「俺…イきたいんだ。でも、解放出来ない。…どうしたらいい?」
半覚醒状態の基に問われて、羽京は迷いながらも彼に手を貸す事を決めた。彼の下半身から衣服を取り払い、勃起したそれに羽京は指を這わせる。徐に扱いてやると、基は嬌声を上げ始めた。
それを止めるように羽京は唇で基の声を塞いだ。咄嗟の行為だったのにも関わらず、彼は舌を絡めて来て、羽京もそれに応えた。そのまま、基の先走りの液を絡めながら扱いてやると、
彼は激しく腰を痙攣させ、羽京の手の中に濃い精液をぶちまけた。
「基…ご免!」
羽京は瞬時に後悔の念に捉われて謝った。しかし基は気を失っており、その言葉は届いていないようだった。慌てて脈を取り、異常がないと分かると、後始末に取り掛かった。
使われていない個室のベッドに基を横たえると、彼は数時間目を覚まさなかった。
羽京は自身に起こった欲情に狼狽えながらも、仕事に気持ちを切り換えた。そして目覚めた基に対面する際の、心構えを形成していく。
「羽京さん、有難う。よく眠れたみたい…。」
目を覚ました基の言葉に羽京は救われる。
「体、大丈夫か?」
「大丈夫。…なんかスッキリしてる…かも。」
「治療中の記憶はある?」
「…ない…かな。何か話してる感はあったけど。…俺、変な事言った?」
羽京は安堵した後、自己嫌悪に陥った。それを隠して取り繕う。
「基の心の枷が分かったよ。…これから向き合って、解決していこう。」
「うん、有難う。だけど今月末にはアメリカに行くんだ。…自己解決してみるよ。…羽京さんが居てくれて良かった。」
心配する羽京を説き伏せ、基は予定を変更することなくアメリカの大学に留学してしまった。
それを機に、従弟に欲情してしまった自分を戒め、その自分を完全否定した羽京は、数ヵ月前に再開した大学時代の彼女と寄りを戻して結婚を決めた。この結婚は逃げなのだと自覚しながら――。
結婚後、一旦、距離が出来た羽京と基だったが、羽京が僅か二年で離婚してしまうと、再び、基の方から羽京に近付いてきた。
会う度に、基の信頼を裏切らないように心掛け、従弟として接してきた羽京だったが、基の時折見せる無防備なスキンシップに、人知れず惑わされる事があった。
ふと、基と同じマンションに引っ越したのは間違いだったのではないかと思い、羽京は溜息を吐く。懸念するのは基との距離感だった。毎日、部屋に来られれば、仮面が剥がれ落ち、彼と一線を越えようとする自分が現れるかも知れないと危惧している。
羽京は心の奥底に眠らせた、従弟である基に特別な感情を抱いている自分が浮上してくる事を怖れていた。
それなのに、基のアミタール面接時の録画データを、数通りの言い訳を用いて未だに消せずにいる。
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