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第11話「高校教師:半井 基」

「相変わらず綺麗で安心したよ。」  半井(なからい)家の浴室で、和彦は息子の裸体に手を這わせた。 「どうなってたら、安心できない?」  和彦の息子、(もとき)は十年以上前から続いている父親の行為に、抗うこともせず、人形のように身を任せている。 「分かってるだろう?…この白い肌に傷が付いていたりしたら、俺は堪えられない。」  和彦は優しく基の体を洗い始めた。目立つ黒子ひとつない白皙の裸体に、和彦の顔は恍惚となっていく。 「父さんは…ただ、俺の体を洗うだけでいいの?」  基の手が、白髪が混じり始めた和彦の髪を撫でる。 「舐めてみたくない?」  基の言動に、和彦は厳しい目を向けた。 「男を誘惑するような振る舞いは慎め!」  窘められ、基は笑みを零した。 「ちょっと確かめただけだよ。…だって、普通じゃないでしょ?二十六になる息子の体をチェックするなんてさ。」 「普通じゃないか…。そうだな、おまえが特別だから、こうなったんだよ。」  体を洗い終わると、和彦は基を湯船に浸からせた。そして自分の体を洗い始める。 「学校はどうだ?」 「楽じゃないよ。…割に合わない事も沢山ある。なるべく深入りしないようにしてるから、急な呼び出しとかはないけどね。」  高校生の基の身に起こった悲惨な出来事の後、暫く基の進路に口出ししていなかった和彦だったが、彼が大学生になり就職活動を始めた頃、再び彼の人生を仕切り始めた。  そうして決められた先が、和彦の知人が経営する私立高校の常勤講師という職業だった。基が望んだ進路ではなかったが、一人暮らしを許してもらう条件を出し、父親の敷いたレールに乗った。 「専任教諭の打診、断ったんだって?」 「…定年まで教師生活なんて考えられない。」 「辛かったら、いつでも辞めて家に戻って来たらいい。」 「…そんなんで、いいの?」  厳格な父親の甘やかす態度に、基は眉を顰め、彼から目を逸らした。  幼馴染に無理矢理体を開かれてから、まともに睡眠を得られなくなった基は、自宅マンションのベッドの上で、目覚ましのアラームが鳴る前に起き出した。  身支度を整えてスーツを着込むと、彼は黒縁の眼鏡を掛ける。それが冷徹さを装うスイッチとなっていた。  今年の四月から普通科の二年生の副担任になった基は、担任の女教師が産休を取った為、六月から代わりに担任を務める事になった。  朝の職員会議から始まり、ホームルームを行うと、時間割に従い、英語の教師として教壇に立つ。部活動においては文芸部の名ばかりの顧問を担当している為、ほぼ顔を出さずに他の雑務をこなして一日を終える。  それが、今の彼の日常だった。  いつものように受け持ちのクラスで教鞭を執っている基の脳裏に、不快な情景が流れ込んで来た。思わず厳しい表情で教室内を見渡す。目が合ったと思った生徒達は慌てて目を逸らしたり、驚いた表情をして基を見返してきた。誤魔化すように基は一人の生徒を指名して、教科書の例文を訳させた。  基が感じた情景は、何処か悪魔的なイメージに包まれていた。鬼女が小柄な女性の股の間を舌で攻め上げ、異物を挿入しているのを認識した瞬間、彼は吐き気を覚えた。  それを堪えると、心拍数を整える努力をして授業に徹した。それが視えたのは夏休み明けからで、今日が五回目だった。何気に、一番前に座っている、いつも真っ直ぐな瞳で基を見つめてくる女生徒を一瞥する。彼女なのではないかと疑った。接触すれば、もっと鮮明に分かる筈だが、逡巡の後、基は関わらない事を選んだ。  放課後になると、基はヘルダーリンの詩集等の古書を数冊持って、滅多に赴かない文芸部の部室へと向かった。  中高一貫校であるこの高校は、渡り廊下で繋がった大きな図書館を持っている。そこは中等部とも繋がっており、中高の共有スペースとなっていた。その館の一室に文芸部の部室はあった。  基が図書館の中に入ると、中等部の制服姿の小柄な女の子が二人いて、その内の一人が急に小銭をばら撒いて慌てていた。傍に居たために、基は小銭を拾うのを手伝って渡すと、顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまったと顔を真っ赤になっている二人の少女は、小声でお礼を言ってから基の前を立ち去った。基は思わず笑みを誘われる。 「先生、笑えるんですね?」  不意に横から声を掛けられ、基は瞬時に表情を無にした。声を掛けた人物は、基の受け持ちの生徒である梶原弘樹(かじわらひろき)という男子生徒だった。 「図書館で勉強か?」  基は笑顔を見られたのを無かった事にして、生徒に応じた。 「俺、文芸部ですよ。ああ…先生、部活放置してるから、知らないの当然か。」 「俺がいなくても、みんな、ちゃんとやってるだろ?」 「今日は様子見に来てくれたんですか?」  梶原が一歩近付いてくると、基は一歩下がりたくなるのを堪えた。梶原は何処か室生朔也(むろうさくや)に似た印象があり、基は苦手意識が浮上してくるのを悟られないように努力する。 「部長に頼まれてた古書を持って来ただけだよ。これ、教頭先生の私物だから、丁重に扱って。」  本を梶原に押し付けると、基は素早く彼から離れた。 「俺、梶原弘樹です。」  立ち去ろうとした瞬間、不意に名乗られて、基は呆気にとられた。 「担任の俺に自己紹介か?」 「覚えてもらってない気がしたので…。」 「あ、そう…。」  基は冷たい答えを返すと、図書館を後にした。  そんな出来事から二日が経過した日の放課後、帰宅準備をしている基のスマートフォンが着信を告げた。基はプライベート用と仕事用の二台のスマートフォンを持っている。  マナーモードで震えているのは仕事用のスマートフォンだった。画面を見ると、産休を取っている女教師の名前があった。 「お疲れ様です、半井先生。花澤です。…急にご免なさい。今、大丈夫ですか?」 「はい。丁度帰ろうかとしていたところで…。あの、ご出産、おめでとうございます。」 「有難うございます。お陰様で、産休は終わって、今月から育児休暇に突入しました。…クラスは問題ありませんか?」 「えぇ、今のところ。」  ここまでは現状報告と確認の電話だったが、次に繰り出された伝達事項に、基は表情を曇らされる。 「あの、実はですね…。先程、梶原弘樹から私に電話があって、半井先生の電話番号を教えてしまったんですよ。…ご免なさい!彼が思い詰めたように話すのでつい…。」 「つい、ですか?…これから掛かってくるかも知れないっていうご連絡ですね。」  こっちの方が要件だったかと基は納得する。 「本当に、ご免なさい。先生の許可もなく教えてしまって。いつもなら、こんな失敗しないんですけど…。」 「大丈夫ですよ。梶原の事はこちらで対応しますので、先生はお気になさらずに、ゆっくり休んでいて下さい。ご連絡有難うございました。」  電話を切ると、基は大きな溜息をひとつ吐いた。改めて仕事用の電話を用意しておいて良かったと痛感した。

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