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第2話
いつの間に距離が狭まっていた。
矢崎先生が至近距離で僕を見下ろしていたのだ。
身長が160センチギリギリあるくらいの僕よりも矢崎先生は20センチ近く高そうにみえる。
矢崎先生は担任だし教室内で近づいたことだってもちろんある。
だけどいまの距離は近すぎて緊張が増していく。
それに……僕を見下ろす目が濡れて光っているその艶やかさに息を飲んで見つめ返してしまった。
やっぱりこういうの色っぽい、セクシーっていうのかな。
ぼうっと見ていたら、
「彼女いるのか、高王子」
間近で僕を見下ろしたまま矢崎先生が聞いてきた。
「……え?」
「彼女だよ、彼女」
彼女って、彼女だよね。
当たり前のことを反芻する。
16年間生きてきてまだ交際をしたことがない僕。
その上、初恋もまだだった。
まわりのみんなは高校二年生にもなればそれなりに経験しているみたいだけど。
僕は遅れてる自覚はあるけど男子校のいま出会いもないし、そこまで女の子と知り合いたいって思うことも少なかった。
「……いない、です」
どうして矢崎先生はそんなことを聞いてくるんだろう。
「じゃあ彼氏は?」
「かれ……?」
続けてきた質問に僕は目を点にして問い返した。
僕に恋人ができたらそれは彼女。
女の子に恋人ができたらそれが彼氏、だよね。
意味がわからなくってポカンと口を開けてると矢崎先生が喉を鳴らし、距離を縮めた。
やっぱり、いつもと違う。
まるで"先生"じゃなくて、知らない男の人のような雰囲気。
目を細めた矢崎先生が僕の頬に触れてきた。
指先だけがちょっと触れただけ。なのに体温が急上昇していく。
「無自覚なのか?」
「あ、あの……先生……?」
すぐに手は離れてった。
だけど僕の緊張はとけない。
どうすればいいのかわからずにやたら速く心臓の音にそっと胸を押さえた。
「それで、どうしてここに?」
ふらりと矢崎先生が離れていってイスに腰掛ける。
イスが軋む音が響き、重なるようにもうひとつ軋む音が聞こえた。
自然と音がした方へ顔を向ける。
「高王子? ここにはなにしに?」
物音がなんなのか認識する間もなく矢崎先生に訊かれて、三上先生から頼まれたことを話した。
「ふーん。じゃあ早く持っていってやれよ。他の生徒たちもお前が戻らないことには帰れないんだろう?」
「はい」
そうだった。
僕が戻らなきゃ終わらないんだ。
矢崎先生が急げよー、とからかうようにかけてくる声に促されて残りを用意し終えた。
その間もずっと矢崎先生の視線を感じてドキドキはなかなか治まらない。
―――こんなにドキドキしている理由もよくわからないんだけど。
備品も持ちやすいようにまとめて抱える。
「……失礼しました」
どう声をかければいいのか分からなかったから職員室を出るときと同じようにしてドアへと向かった。
背中にはまだ矢崎先生からの視線を感じてるけど、ここを出ればもう関係ない。
そわそわしながらあとちょっと、と出口に差し掛かったところで背後から足音が近づいてきた。
僕より先に手が伸びて矢崎先生がドアを開けてくれた。
「気をつけて持っていけよ」
「……はい」
向けられた笑みは教室で見る矢崎先生のものだった。
そのことにホッとしながら一歩廊下へと足を踏み出そうとしたところで呼びとめられた。
「高王子」
同時に手にしていた荷物の上に小さなものが乗せられる。
チョコレートだ。濃い茶色の小さな固形。
よく見かけるセロファンに包まれたチョコレート。
「お前今日ってこのあと用事あるのか?」
チョコレートだよね。
まじまじとチョコレートを見て口の中に食べてもいないのに甘さが広がる。
甘いものは大好きでチョコレートはとくに好きで毎日食べてる。
「……ないです」
これってもしかして僕にくれるのかな?
首を振りながら矢崎先生を見上げると、
「ふうん。―――そのチョコやるよ」
放課後まで委員会活動がんばってるご褒美に頭を軽く撫でられた。
また、触れられた。
いままでこんなことはなくって戸惑う。
「……ありがとうございます」
矢崎先生の手は僕の頭から背中に移動し、その手のぬくもりに小さく身体が震えた。
そのままその手は僕を廊下へと押しだす。
「食べて美味しかったら、帰る準備してからまたここに来い。もう一個やるから」
「……え」
肩越しに先生を振りかえるけど、じゃあな、とあっさり矢崎先生はドアが閉めた。
僕は呆然と閉じたドアを見つめる。
美味しかったら、またここに。
矢崎先生、そう言ったよね?
チョコレートをもう一個って。
歩き出しながらじーっとチョコレートを眺めて、保健室まであと少しのところでチョコレートを食べてしまった。
美味しいチョコレート。
甘く舌に絡みつく濃厚さ。
美味しくないはずがないチョコレート。
口の中でゆっくりと溶けていくチョコレートを歩きながら味わう。
その間もずっと矢崎先生の言葉がぐるぐる頭の中で回っていた。
保健室へ辿りついた時にはすでになくなっていたけど、それでもチョコの甘さは口の中に残ってる。
「―――よーし、終わりだ。帰っていいぞー」
「やったー」
「早くかえろーぜ」
僕を待ってようやく終わった片付け。
バタバタと松永くんたちが保健室を走って出ていく。
僕も三上先生に挨拶をして鞄を取りに教室へと戻って。
『またここにこい。もう一個やるから』
ずっと繰り返されていた言葉の意味にふと気付いた。
美味しかったら来い、って矢崎先生は言ったんだ。
美味しくなかったら行かなくていい。
でも、美味しかったら。
美味しかったら行かない、なんて選択肢は最初からなかった。
僕には美味しいのに美味しくなかったって嘘ついて行かない、なんていう考えもなくて。
もう一個チョコレートくれるのかな。
そんな気持ちと―――ざわざわと胸の奥でざわめくよくわからない感覚を抱きながら僕は旧保健室へと向かってしまった。
なにが起こるかなんてなんにも知らずに。
***
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