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それらすべて愛しき日々

(……面白くない)  小林さんと両想いになって、今日でちょうど一ヶ月が経った。  ぶっちゃけると、あの海辺でキスをしてから一切何もない。普段の日常が毎日、繰り広げられているだけなんだ。あの告白が、まるでなかったように――  両想いなのに、何でこんなに苦しまなきゃならないんだよ。片想いしている方がまだマシじゃないか!  定時になり、仕事を終えた仲間が次々と去って行く中、デスクの上で拳を握りしめた。 (奥手すぎる、小林さんを好きになったツケがこれなのか!?)  そんな自分の恋愛運を呪いつつ前方で残業らしきことをしている小林さんに、じーっと視線を飛ばしてみる。 「そんな書類なんか見てないで、俺の視線に気がついてくれって……」  恨めしくぼそりと零したところで仕事熱心な恋人は、まったく俺の視線に気がついてはくれない。その様子は、清々しさを感じてしまうくらいだ。  視線を飛ばしていないで、さっさと声をかければいいって思うだろう? できたらやっているさ、踏み込めない理由があるからできずにいる。互いに一度、恋愛で痛い目に遭っているからこそ妙に引き際がいいせいで、踏み込む直前になって逃げるように、自分から引いてしまうんだ。相手をキズつけないように……  想い合いすぎて引いちゃうとか、笑い話にもならないよな。バカみたいだ、俺たち。  小林さんから視線を逸らそうとした瞬間、やっとこっちを見てくれた。  俺の顔を見て、『あ……』と言いながら目をキョロキョロさせ、頬をぽっと赤くする。無性に可愛いすぎる姿に、苛立っていた気持ちが少しだけ落ち着いた。  そんな小林さんの赤ら顔を他の同僚に見せたくないというジレンマと、変わらない間柄に苛立っていた俺は、あることを思いついてしまった。 『好きですよ』  未だにこっちを見ている小林さんに向かって、そう口パクしてやった。それなのに何を言ってるんだという表情を浮かべ、小首を傾げながら肩を竦める。  いいようのないもどかしい距離感――伝わらない気持ちは以前のままなれど……  デスクの上で握りしめた拳を使って、えいやと立ち上がり、靴音を立てて愛しい恋人の傍まで赴いた。 「り、竜馬?」  傷つけないように、深く愛したいだけなのにな。どうして上手くいかないんだろう? 「――今夜、お暇でしょうか?」  きっかけを作れば、この人は動いてくれる。……と思いたい。 「え、っと、まぁ暇かな?」  こっちが訊ねているのに、どうして疑問文で返すんだ。自分のことなのにさ…… 「小林さん家で、宅呑みしたいなぁと思いまして。ダメでしょうか?」 「ええっ!? いきなりかよ。家ン中が散らかっているが、それでもいいのか?」 「本当は外で一杯やりたいんですけど、養育費やらいろいろとお金がかかっているであろう、小林さんを慮って宅呑みにしたんです」  柔らかく微笑みながら、痛いところを突っついてやった。  すると目を瞬かせて、顎に手をやり何かを考え込む。俺の提案した宅呑みの本当の意味を、きっと分かっていないだろうな。 「そうか、いろいろと済まんな。気を遣わせて」 (嫌味も通じないのかよ、参ったな――) 「小林さん家が嫌なら、俺の家でもいいですよ。母親がいますが」 「へぇ、そうなんだ」 「はい。飲んだ勢いで、小林さんを押し倒したらすみません」  しれっとしながら適度に大きな声で言ってみると、ぶわっと顔を赤らめさせ、慌てて周囲をチェックしだす。 「おまっ、こんなトコで何を言い出すんだ」  声のトーンを落とし、迷惑そうに眉根を寄せられても全然平気。 「べっつにぃ。俺、前に好きだった人に付きまとって、迷惑かけまくった犯罪者だか――うっ!」  言いかけたところで、大きな手が口を塞いできた。 「竜馬、表に出るぞ」  放り出すように俺から手を離し、ひとりでさっさと事務所から出て行く。 (――小林さん、すっごく怖い顔をしていた)  叱られるのを覚悟しながら大きな背中を追いかけると、お客様から預かった荷物を保管している倉庫に辿り着く。無言でそこの鍵を開け俺を中に促してから、後ろ手で扉を閉めて、しっかりと鍵をかける音を聞いた。 「小林さん、俺……」  自分の態度に反省して謝ろうと口を開いた刹那、いきなり頭を下げられてしまった。 「なかったことに、してくれないか?」  ……何だよ、それ――! 「竜馬、お前はまだ若い。問題を抱えてる俺の人生に、巻き込みたくはないんだ。分かってくれ」 「……告白したのを後悔したから、今まで俺に手を出さなかったんですね」 「ああ、そうだ」  ゆっくりと頭を上げながら短く返事をした小林さんの顔は、とてもつらそうなものだった。俺に一切目を合わせず、眉根を寄せて口を引き結ぶ。自分の感情を隠すべく、余計なことを言わないようにしているんだろう。 「今でもっ……俺のことが好きなクセに、潔く諦めるんですか?」 「…………」  追いすがったら、もっと苦しめることになるのが分かってる。ここで諦めたら互いに浅い傷で済むのは承知の上だけど、俺はどうしても嫌なんだ。 「諦めませんよ、絶対に。俺は根っからのストーカーなんです。逃げるのなら、迷うことなく追いかけます」  アキさんのときもそうだった。冷たくされればされるほど、何故だか俺のボルテージが上がり、追いかけずにはいられなくて―― 「竜馬?」  しかも今回は俺のことが好きなクセに諦めようとするなんて、追いかけてほしいと言ってるようなものだって! 「好き合ってるのに、どうして別れなきゃならないんですか。おかしいでしょ!!」  悲鳴のような叫びが、倉庫内に響き渡った。 「小林さんまだ30代だけど、一緒に過ごす先の未来をいろいろと考えちゃって。俺の手料理を嬉しそうに食べてる顔をぼんやりと思い描くんですけど、目尻のシワに何とも言えない愛しさを感じたり、日当りのいい縁側で読書している隣で、その様子を眺めているところを想像しただけで、幸せだなぁって思ったりしてるんですっ」 「……随分と具体的なんだな」 「当たり前でしょう。だって今まで進展がなかったから。夢見るくらい許してくださいよ」  ワガママを押し付けても、どうにもならないって分かってる。この人に言ったところで、通じないって分かっているけれど、すごく好きだっていう気持ちくらい、知っていてほしいんだ。 「お前の手料理は、そんなに美味いのか?」  唐突に投げつけられた意味不明な質問に、ポカンとしてしまった。 「美味いのかと聞いているんだが?」  相変わらず小林さんの表情が苦渋に満ちたものだったから、肯定するのが躊躇われる。 「た、ぶん。お口に合うと思いますけど……」 「だったら帰り道で買い物しなきゃダメだ。冷蔵庫の中、調味料しか入ってないからさ」 「それって――」  妙に乾いた自分の声。さっきから考えが追いつかない。導き出される現実に、思わず夢を見てしまう。 「ああ、俺ン家で宅飲みするんだろ? 一人暮らしの散らかっている部屋を本当は見せたくはないが、お前ならしょうがない」  他の人に見せたことのないようなデレッとした表情で、お前ならしょうがないって言うなんて。そんなの、嬉し過ぎる言葉にしか聞こえない。  さっき浮かべていた苦渋の表情が一変、情けないくらいに目尻を下げる照れ臭そうな顔が、目の前にあった。俺はただ、そんな小林さんを見上げるだけしか出来ない。  こみ上げてくる感情をぶつけないように、ぎゅうっと心の奥底に抑え込んだ。俺の想いは膨大だから、きっと迷惑になってしまうだろう。  そんな我慢している気持ちを知らないはずなのに、宥めるように頭を撫でながら小林さんが口を開く。 「それに好きなヤツを、犯罪者にするワケにはいかないしな。迷惑防止条例違反だっけか?」 「……今までの関係を状態を維持するならその違反に、軽犯罪法違反がプラスされるかもしれませんよ。あと小林さんを脅して会社の業務に支障をきたしてしまったら、威力業務妨害罪で捕まっちゃうかもしれません」 「はっ、何を言って……。どんだけ重いんだ、お前の想いは」  呆れたと言わんばかりに、肩を揺すって笑い出した。 「俺の想いは業火で出来ていますから。重くて深いんです」  小林さんに向かって、右手を差し出してみた。前回告白したときは自分から抱きついてしまったけど、今回はこのままでいることにしてみる。伸ばしたこの手を、自ら掴んで欲しいと切に願ったから―― 「こんな歳だが地獄の業火に身を焦がすのも、案外悪くないのかもしれないな。竜馬、後悔するなよ。俺は面倒くさい男なんだから」  笑いながら頭を撫でていた手で、しっかりと右手を掴んで引き寄せてくれた。ずっと縋り付きたかった安心出来る温もりに、安堵のため息をつきつつ、その躰を抱きしめ返す。 「……面倒くさいことは前から知っています。腹立たしくなるくらいに」 「ほら、あれだ。まずは金がないし、月一ある娘に逢うイベントは、絶対に外せないからな」  楽し気に告げる言葉に嬉しくなって小林さんの頬に顔を寄せたら、無精ヒゲが顔に当たってちょっとだけ痛い。こういう飾り気のないところも、結構好きだったりする。 「いつかは、娘さんに逢ってみたいかも」 「絶対に駄目。俺に似て面食いだから、きっと竜馬を好きになるかもしれん」 「それって、ちょっと憧れるかも。取り合いされるの楽しそう」 「駄目って言ってるだろ、お前は俺の、――っ!」  俺の笑い声をかき消した小林さんの台詞。奥手な彼が言葉の続きをスムーズに言ってくれないのは、至極残念なことだけど息を飲んで見つめる視線から、その想いを感じ取ることができた。だからしょうがなく、強請るのを止めてみたんだ。  黙ったままゆっくりと目を閉じた。それを合図に小林さんの唇が重ねられる。倉庫内に響く荒い息遣いと、ぐちゅぐちゅと俺の中を責める舌遣いに、気がおかしくなってしまった。  腰にじんとくるような甘いキスの連続に、とうとう立っていられなくなり、躰にぎゅっと抱きつく。 「小林さ……、ズルい。そん、なキスされたら、堪らないですって。この場に押し倒しますよ」  顔を振り切り、苦情をやっと口にした俺に、憮然とした表情を浮かべる。 「何を言ってるんだ、俺が押し倒すに決まっているだろう?」 「は? 小林さんもうお年なんだから、黙って横たわっていればいいでしょう」  本当はどっちでもいいんだけど、小林さんの反応が面白くて、からかうように告げてしまった。こんなくだけた会話すらさせてもらえなかったから尚更だ。 「この俺を食うのかよ!? マジか……」  竜馬が欲しいって言えば捧げる覚悟はとうの昔に出来ているのに、俺の意見を尊重してそれを言わない、この人の優しさが胸に沁みるな。 「食べられたくなければ俺の告白に負けないくらい、たくさんの愛の言葉を囁いてくださいよ。24時間、いつでも待っていますから!」  強請りまくったお願いに小林さんは顔を真っ赤にして絶句し、固まってしまったけれど、一緒にいられるこのひとときが、とても愛おしいもので。 「すっ、好きだ竜馬……。ぁあ、愛して、る」 「…………」  上擦った声で告げられた愛の言葉に、笑いをかみ殺すのに必死だ。 「だから、お前を食わせろ。分かったな?」 (本当はまだまだ足りないけれど、しょうがないか――) 「だったら残業、早く終わらせてくださいね。俺の鮮度が落ちてしまう前に」 「おう! 勿論だ、とっとと終わらせてやる。待ってろよ」  見惚れてしまうような笑顔で言いきり素早く鍵を開け、勢いよく扉を開け放つと、俺を置き去りにして、倉庫を出て行ってしまった。  ここに来たときは別れる決心をしていたクセに結局俺に絆されて、見事に問題が解決してしまったのだが。 「あの人のことだ。俺に手を出す直前になって、ビビっちゃうに違いない。奥手だからなぁ……」  それならそれで、俺が押し倒せばいいだけの話だ。小林さん、どうなっても知らないぞ。 「あと俺に夢中になって、ドジしてるトコも何とかしなきゃだなぁ。ここの鍵、施錠しなきゃならないっていうのに」  そんなドジさえ愛おしく感じてるって、相当の重傷だ――  苦笑いを浮かべ扉を閉じ、急いで事務所に向かう。やっと前進することの出来た自分の恋に、くすぐったさを感じながら。

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