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第6話

 ドアの音で、ユウチは目覚めた。  誰かの近づく気配がする。  確めたいのに、体が鉛のように重くて身動きできない。 「んっ」  首筋に冷たさを感じる。  不快感はなく、気持ちが良い。 「首、赤く腫れているから。冷たいけど、ちょっと我慢して」  声の主の姿がようやく、視界に入る。  ミチルだった。  視界がぼやけているせいで、表情はわからない。  さわさわと髪をかきあげる仕草が優しい。  ……ここは、夢の中だ。  こうやって、ミチルが脈絡なく現れるのも、優しく触れるのも、夢の中なら納得できる。  今、まさに死ぬ瞬間なのだろう。  走馬灯のように人生がよぎると聞いたことがあるが、自分の場合はそうではないらしい。  きっと、ミチルを眺めながらあの世に行くのだ。  それは、この上なく幸福なことに思えた。  死を前にして、ミチルへの愛しさで満たされる。  体中が、細胞という細胞が、ミチルへの愛しさでひしめき合っている。  表面張力限界のグラスの水のように、あと一滴で溢れ出てしまう。  ユウチは、うっとりと目を閉じ、ミチルに身を任した。  唇に吐息を感じ、柔らかいものが触れる。  そのままでいると、もう一度、口づけが振ってくる。  ついばむような甘い口づけ。 「愛してる」  キスの合間にミチルが呟く。  自分も、同じ言葉を返せればどんなにいいだろう。  けれども、いくら夢の中といっても言葉にすることはできない。  だって、自分はシュウのものだ。  ましてや、あんなにシュウを悲しませた後だ。  けして、自分の想いを口にできない。  そんな理性とは裏腹に、体は貪るように唇を味わっていた。  すっかり、甘い誘惑に陥落していた。 「あっ」  唇が緩まると、ぬるりと舌が入ってきた。  途端に、クラクラと地面がひっくり返る様な酩酊感に襲われる。  この綿菓子の様な夢は、いつ覚めるのだろう? 「このまま、番になりたい……いい?」 「……だ…め……」  やっと、拒絶の声がでた。  腕をつっぱり、胸を押しやる。  予想していたのか、ミチルはそれ以上強引に推し進めることはなく体をひいた。  距離が出来たことで、正面から顔を付き合わせる。  目の前には、オスの顔をしたミチルがいた。  匂い立つ色香。  高潔な一匹狼とは全く違う。  情欲にまみれた表情。  やっぱり、夢だ。  ミチルのこんな顔は知らない。 「あれから死ぬほど考えた。気付いていると思うけど、お前は俺の運命の番だ。だけど、俺と番うよりあいつとの方がお前のためになる……財力も、将来性も俺よりある。お前と過ごした時間も俺より遥かに多い。家族も、お前のことを認めている」  言葉を詰まらせ、苦し気に顔を歪めた。 「なにより、お前があいつと番になることを望んでいた」  そこで、ガバリと抱きしめられた。  首に顔を埋められる形になる。 「でも、諦めきれなかった。自分の心を騙しきることは出来なかった。自分さえ身を引けばいいってわかっているのに……どんなに考えても最後はたどり着くんだ……お前を離すことはできないって結論に」  抱きしめられているため、ミチルの表情がわからない。  彼は今、どんな表情でいるのだろう。 「あいつから奪い取ろうと思った。部屋に踏み込んだら、こんなことになっていた。間に合ってよかった。あいつのやろうとしたことは殺人だ。許されることじゃない」  ようやく、頭に言葉が届き始める。  透明な壁の向こうの出来事のように、フワフワ漂っていた意識が体とつながる。  これは、夢じゃない。現実だ。  では、シュウは? シュウは、どうなったのだろう。  周りを見渡すが、シュウの姿はない。 「シュウは悪くない。僕のせいだ」 「もう、やめないか? 人の幸せを優先することは……自分の幸せを一番に考えていいんだ。むしろ、幸せにならなきゃいけない。幸せになる義務が俺たちにはある。お前が好きだ。愛している。お前も俺を愛してる。否定したって、ちゃんとわかってる。俺の番になってくれ。必ず、幸せにする」  ミチルにプロポーズされている。  驚き愕然とするはずなのに、感情が遠い。  自分の言うべき言葉はわかっている。  何度も唾を飲み込み、意を決する。 「無理。僕はシュウの番になるって決まってる。だって、その条件で引き取られた。シュウの番になるから、みんなに大事にされた。そうじゃないと、僕の価値……存在意義がない。僕はΩに覚醒するまで、誰にも必要とされなかった。僕の存在は、親にさえ無視された。Ωに覚醒して……シュウの番という役割を得ることによって、やっとみんなに見てもらえることになったんだ」  話しているうちに、本音が混じり始める。  これが本音だ。  シュウの番という役割を手離して、もとの誰にも顧みられない存在にもどるのが怖いだけ。  それを何よりも恐れている。 「ちがう。ちゃんとお前の存在意義はある。だって、運命の番だってわかる前に、お前は俺を救ってくれた。絶望で閉ざしていた俺の心を開けてくれたのはお前なんだ。だから、そんな悲しいことは言うな。それに、昔、命を助けてもらったんだろ? 自分の命を投げ出してまで、お前のことを守ってくれる存在がいたんだろう? その人の命を無駄にしない為にも、お前には幸せになる責任があるんだっ!」  苦しい。  今まで感じたことがないような激しい感情が渦となって襲う。  まるで、嵐の中の小舟。  荒れ狂う感情が、胸を貫き、体をズタズタにする。  わからない。  誰か、教えて。  自分は、どうしたらいいのだろう。  どこを目指して進むのが、正解なのか。 「周りのことは考えるな。俺が引き受ける。自分が幸せになることだけ考えろ。お前は俺を愛している」  どうして、こんな展開になっているのだろう。  再び、唇が落とされる。  今度は、喰らいつくされるような獰猛な口づけ。  このまま、彼に食べられたい。  骨ひとつ残さずに、彼の中に収まりたい。 「んっ」  突然、体の中心に甘い疼きが生まれる。  混乱、愛情、当惑、喜楽、絶望……相反する感情に、情欲が加わる。  頭が混乱して、何が何かわからない。  完全に、パニックにおちいる。  最後の一滴が投下され、表面ぎりぎりで耐えていた想いが溢れだす。  絶対に口にすることのない、考えることも許されない本心がポロポロと零れ出る。 「みっちゃんと行きたい。みっちゃんのことが好き。この世の誰よりもみっちゃんが好き。離れたくない。みっちゃん以外の誰のものにもなりたくない」  自分を抱きしめる背中に手を回す。  そうだ、シュウの言う通り心は裏切っていた。  口に出さなくても、行動しなくても、想うだけで裏切りだ。  裏切らないと約束したのに、とっくの昔に心で裏切っていた。 「聞いたか?」  抱きしめる腕をますます強めながら、ミチルはおもむろに低い声を出した。 「うん、聞いた。それが、ユウチの本心なんだね」  驚いて、ミチルの胸から顔を離して見上げると、そこにはシュウが立っていた。  一体、いつから、そこにいたのだろう? 「シュウ、違う。裏切るつもりはない。僕は、ちゃんとシュウの番になる」 「もう、いいよ。言い訳は聞きたくない。約束を破ったお前を許さない」 「シュウ! 待って」 「お前の顔なんか、見たくない。うちの家に帰って来るな……そいつとどこかに行っちゃえ」 「……シュウ……」  シュウは、きびすを返し、戸口に向かった。  背中を向けたまま、言葉を続ける。 「ごめん。首……痛くしてごめん。今まで、引き止めて……ごめん……僕といて最高に幸せだったって言ってくれてありがとう」  最後は聞こえるかどうかというくらいの小さな声で呟くと、そのまま部屋を出て行った。 「うぅっ」  涙が止まらない。  いつも笑顔で、元気いっぱいで、みんなの中心のシュウ。  太陽みたいな存在だった。  傷つけたくなかった。 「誰かをも傷つけるとわかっていても、退いたらいけないときがある。傷つけるのをおそれるな。その代わり、俺も一緒に悪者になるから。悪意は俺が引き受ける。幸せになろう。それが俺たちの出来ることだ」  大事な人を傷つけた。  愛情を踏みにじった。  だからこそ、この手を離さない。  明日からの生活、今夜の寝床。  不安は山積みだ。  けど、大丈夫。  ミチルと二人なら乗り越えることが出来る。  必ず、幸せになる。  ユウチは、自分を支える大きな手をぎゅっと握りしめた。

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