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灰色の糸第5話
弁当食って、風呂入って部屋に戻ったときには日付が変わっていた。
欠伸しながら適当にドライヤーかけた髪は半乾きのままだけど気にせずベッドにダイブする。
思いがけずあわただしい一日だったからか疲労感がハンパない。
目の上に腕乗せて目を閉じる。
勝手に吐き出されたのはため息。
「……疲れた」
マジでだるい、きつい。
緊張してるつもりはなかったけどひとりになった途端、力が抜けて、抜けたのに身体はベッドに沈みこんでいきそうなくらいに重く感じる。
なにも考えない、真っ暗な視界。
なにも考えずにいたいのに、見ないふりをしていた男の顔が脳裏によみがえる。
『―――陽』
その声までもが生々しく脳内に響いて、勢いよく身体を起こしベッドから降りた。
なにも考えたくない。
行きずりで一夜を過ごした男が―――実の父親だったとか。
なんの冗談だっていうんだろ。まったく笑えない。
『連絡先、訊いていい?』
スマホに手を伸ばし、最近追加された名前と番号を表示させる。
この番号にいま書けたらどうなるんだろう。
"久しぶり"なんて……啓介さんが出ないだろうか。
同姓同名の赤の他人。世界には自分に似た人間が3人いるとか。
もしかしたら、と発信ボタンの傍に指置いて、スマホをベッドの上に放り出した。
部屋の中で無意味に立ちつくしてしまう。
自分の部屋なのに居心地が悪かった。
ようやく日常に、俺の家に戻ってきたのに。
いやもう日常なんて、壊れてるんだろうけど。
深いため息を吐きだして部屋を出てリビングに向かった。
親父のビールでも一本くすねて飲んで寝てしまおう。
そう階段を下りていけばリビングにはまだ明かりがついている。
やわらかな光が暗い廊下に漏れていてドアを開ければダイニングテーブルで親父がビールを飲んでいた。
「どうした?」
「喉渇いて」
さすがに親父のビールを取りに来た、なんて未成年の俺が言えるわけない。
そばに親父がいるのにビールを持っていくのも気が引けるからジュースでも持っていくかって内心軽いため息。
「陽、飲むか?」
キッチンへと入っていく俺に親父の声がかかった。
「は?」
振り返ると親父がビールの缶を掲げて振って見せる。
「俺の分も一緒に持ってきて」
ちょうどなくなった、と笑う親父。
「え、でも俺まだ未成年」
「今日だけは見逃してやるよ。ママには内緒な。それに飲みたかったんだろ?」
「……」
なんて返事すればいいのかわからなくって親父を見つめるけど親父は「つまみも適当に持ってきてくれ」と続けてくる。
わかった、と呟いてビールを二缶と缶詰とか適当に持っていった。
「サンキュ」
親父は俺からビールを受け取ると早速飲み始める。
俺もプルタブを引いたけど本当に飲んでいいのかなって親父を盗み見た。
ビールからつまみの缶詰へと手を伸ばして、三つ持ってきたのを全部開けていっている。
「中元で貰った缶詰のほうが普段食べるのより高級っぽいよなぁ」
前スーパーで見かけたときはひとつ軽く500円を超えていたのを思い出して確かにと豚の角煮の缶詰をつまみだした親父を眺めながらさりげなくビールを口にする。
未成年だけど大学入れば飲みにも行くし、そこそこ飲める。
最初飲んだ時はまずいと思ったビールの味もいまではもう慣れて美味しい。
「……お袋は」
「泊るって」
「……ふうん」
そんなもの、なんだろうか。
"篠崎啓介"とお袋が離婚したのはきっと俺がまだ1歳とかそのくらいのはずだ。
十何年も経っていて元夫が亡くなったからってその実家に泊りこんでまで葬儀の手伝いってするのかな。
よくわからない。いままで俺は離婚の理由も実父についてもなにも訊いたことなかったから。
「これうまいぞ」
親父が俺の方へと寄こしてきたホタテの燻製の油漬け。それを摘まんでビールをちびちびと飲んだ。
あっというまに俺も親父も飲み終えてまた取りに行く。
二本目を飲み始めたけど、なんとなく酔えないような気がした。
缶詰の味についてだけたまに喋って、あとは黙々と飲んでいた。
「―――陽」
少し落ちたトーンの声が響いて、なに、と胸がざわつくのを感じながら返事する。
「……篠崎さんのこと、知りたいか?」
俺よりも多く飲んでるんだろうに酔ってる気配のない親父が静かに、俺と目を合わせることなく言った。
リビングに沈黙が落ちた。
俺と親父しかいない空間に静けさよりも重いものが蔓延して沈んでいく。
―――篠原さんのこと。
篠原啓介、というおとこのこと。
手の中の缶ビールを意味なく眺める。
口を動かそうとして、だけどなにも言うことが見つからない。
俺は本当の父親のことをなにも知らない。
"あの夜"知り合った篠原啓介のことは少しだけ知っている。
ゲイで、昔結婚していたこともある、今は独り身だった男。
本当に少しだけで、全然知らないと言ってもいいかもしれない。
「……親父、知ってるの」
なにを知ってるのか。
離婚の理由?
篠原啓介自身?
「ああ……。同じ大学だったし」
言われて、驚いて顔を上げた。
親父とお袋が大学時代の先輩と後輩だってことは聞いたことがあった。
「まぁ面と向かって顔合わせたのは数えるくらいだけど」
親父とお袋は二歳差だ。そしてお袋と篠原啓介は一歳差。
親父が大学4年だったとき篠原啓介は大学1年生か―――。
「……へぇ」
38歳だった篠原啓介が"父親"になったのは大学2年生なんだろう。
『幸せだったよ』
不意によみがえる声。
それを消すようにビールを飲む。
「知りたいっていったら、教えてくれんの」
そう言ってはみたけど、知りたいのかと訊かれたらわからない。
知ってどうする?
俺の父親だという篠原啓介と、あの啓介さんが―――。
「ああ。ちゃんと綾子には言ってる。お前が聞きたがったら話していいって」
「……」
「陽にとっては覚えてない父親は赤の他人のように感じるかもしれない。でも……血の繋がった父親なんだ。息子として見送るためにも少しでも知っていたほうがいいんじゃないか」
楽しい話でもないかもしれないけどな。
と、親父は普段見せない真面目な顔を向ける。
真っ直ぐな視線をずっとは受けていられなくてさりげなく逸らした。
"覚えてない父親"。
確かにあの日までならそれだけだったのに。
親父にこんな風に言われて聴かないわけにはいかない。
でもどんな顔をして聴けばいいのか、わからない。
「……どんなひと」
それでも硬くなってしまった声で、訊いた。
ゆっくりと親父が喋り出す。
同時に俺の中で、
『陽くん』
と翌朝スーツを着込んだ啓介さんが俺に向けた微笑みが浮かんだ。
***
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