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灰色の糸第11話
マンションへは伯父さんが送ってくれた。
一緒についてきたお袋はなにか言いたげにしながらも、当たり障りのないことしか言わなかった。
「……明日迎えに来るから」
「うん」
「洗濯物出たらまとめておいてね」
「わかった」
マンションの中に入ろうとはしないお袋とエントランス前で喋って、じゃあ、とオートロックを開ける。
「陽……!」
エントランスに入ろうとしたところでお袋が呼び止めてきた。
「なに」
呼んだのはお袋なのに、何も言わない。物言いたげにしながらじっと俺を見つめてくる。
――このマンションにお袋は来たことがあるのだろうか。
俺が生まれたとき、ここに住んでいた?
いやそれはないだろうな。マンションはそんなに古い感じはない。
あの人と、お袋が結婚していたという事実を思い浮かべながらお袋を見つめ返す。
「……陽のお父さんはいい人よ」
しばらくしてお袋はため息をつくようにして呟いた。疲れ切った表情で、絞り出された言葉。だけど、少しだけ笑みを作り俺に向けた。安心させるように。
「……おやすみなさい。なにかあったら連絡してね」
そう言うとお袋は車で待つ伯父さんのもとへと戻っていった。
なにか、もなにもないだろう。誰もいない部屋に行くだけだ。たった一晩過ごすだけ。たった、ひとりで。
マンションの中へ入っていく。エレベーターのボタンを押し、13階を押す。
エレベーターが昇っていく中、お袋のことを考えた。
お袋は――未練とかあったりするんだろうか。
別れて18年?
大学生のころであった二人はどんな――恋をしたんだろう。
「……いい人か」
確かにいい人だった。穏やかで優しい笑顔で……。
『……陽』
耳に蘇る声。首を振ってそれを振り払おうとして、自嘲した。これからあの人の部屋に行こうとしてるのに、無意味だよな。
自分から、あの人のところへ行くと言った、とか自分のことだけど笑える。笑えねぇけど。すぐに13階ついて下りる。1307号室。角部屋だった。
借りた合鍵を鍵穴に差し込むとき手が震えた。ドアノブを回す手に力がこもった。深呼吸して玄関を開けた。
シンとした空気。誰もいない、持ち主はもう亡い、部屋に足を踏み入れる。
瞬間、あの人の匂いがした。とっくに忘れていた匂いが鮮明によみがえって足が竦む。
なんで来たんだろう。なんでここで一晩過ごすなんて言ったんだろう。
ドアを閉めて玄関でぼうっと立ち尽くす。そこから動けなかった。玄関に出しっぱなしの靴はない。清潔感のある玄関と廊下。当然人の気配はない。
次第に匂いはなじんでわからなくなる。それにホッとして、同時に苦しくなって。
なんで来たんだろう。なんでここに来るって言ったんだろう。
「お邪魔します……」
固くこわばった体を動かしようやく靴を脱いで上がった。廊下を挟んでドアが右手にひとつ、左手に二つ。そっと左のほう開けてみたらトイレとバスルームだった。じゃあ、と反対側を開ける。
ガランとした部屋だった。6畳くらいのなにもない部屋。いや、シングルベッドと本棚とデスクはある。でもそれだけ。生活感のない部屋だった。
ここがあの人の寝室? 違和感があって少し迷いながら足を踏み入れて、後悔した。
なんで気づかなかったんだろう。祖母が言っていたのに。
俺の部屋がある、って。
ここは俺の部屋なんだ。あの人が用意していた、俺の部屋。見渡して、中の方までは入らずにすぐに出た。
息苦しくて仕方なくて深呼吸を繰り返しながらゆっくりとリビングに向かった。廊下の先がリビングでその隣にもう一部屋あるようだった。
リビングもシンプルなインテリアだった。使われていなかった”俺の部屋”とは違って生活感はあるけど、男の一人暮らしには思えない清潔感のあるきちんと整理された部屋。
グレーのソファ、テレビ、どこの家にもあるものが同じように配置されているのに、なにか足りなく感じる。リビングが広いからか。2LDKらしい間取り。
キッチンも綺麗だった。うちの家と大違い。真面目そうだったけど几帳面でもあったのかな。
そんな中、シンクにグラスがひとつ置いてあった。朝出かけるときに使って置いてって感じの。
ぼんやりと意味なくそのグラスをしばらく眺めてた。
どうやってこの部屋で過ごしてたのか、知らない。知ることもない。ただ、あの日ホテルに付属の小さい冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し飲んでいた後ろ姿を思い出す。
親族がいなくなったからなのか。ひとりだからかセーブしていた記憶がポツポツと蘇ってくる。1日も満たない、思い出のかけらが浮かんでくる。
『陽はなにを飲む?』
薄暗い客室に冷蔵庫の光が明るくて、なにもまとっていない身体が照らされていた。
「……なんで」
キッチンを出て最後の部屋に向かう。
たぶん寝室だろう。ドアを開けると、やっぱりあの人の匂いがした。一番濃く感じた。暗い部屋にリビングの明かりだけがさしている。ベッドと、壁に面してパソコンデスクがあった。そしてテレビ。
ふらっとベッドに近づいて腰を下ろした。
やっぱり、あの人の匂いがする。
きちんとベッドメイクされてるけど、あの人はこの部屋で過ごすことが多かったんじゃないかって思えた。
――なんで俺はここへ来たのか。
シーツを握りしめ、匂いを辿るようにベッドに横になって目を閉じた。匂いを強く感じる。まるであのとき、
『陽』
抱きしめられたように、感覚が重なって。
思い出すな。あの人は、だって俺の。と、振り払うように白昼夢のような記憶を追い払うように目を開き、目に映った。
ベッドサイドテーブルに目覚まし時計と、小さな観葉植物と、そして写真立てがあった。
若いころの――あの人が、啓介さんが映っていた。見覚えのある子どもと一緒に。何歳のころかは知らない。だけど、間違えるはずがない。
――自分の子供のころの写真なんだから。
「……ッ」
手がジン、と痛んで、ガシャンと床に写真立てが落ちる音が響いた。
わけのわからない混乱と、吐き気と、苛立ちと、焦燥と。グラグラと全身を包んで一気に焼き尽くしていく感覚。
ベッドから下りて写真立てを拾い、それをもう一度投げつけた。壁に。
ガシャン、と今度は写真立てのガラスが割れる音が大きく響いた。
「……んで」
『お前はちゃんと望まれて生まれてきたんだからな』
「な、んで」
幸せそうな笑顔をしている割れた写真立ての中の篠原啓介。
幼い俺は”父親”に満面の笑みでしがみついていた。
「なんでっ、俺を――抱いたんだよッ!!」
頭の中が沸騰したかのように熱く、あるのは憤り。
あの男がその答えをくれることはない。それが、悔しかった。
***
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