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思い出せないもの

 心に広がる深い闇の原因はなんだろう。  怖い。  けれどなんでこんなに怖いのかはわからなかった。  どうしていつもこうなるんだろう。  『いいから寝てろ』  ぶっきらぼうにそう言って、誰かがアルの背中をさする。  この声はきっと紫音だ。  彼に触れられると、不安だった気持ちが和らいでいく。  紫音の力は、他人の痛みだとか不安を吸い取ることができる、と言うものらしい。  ものによっては、傷の痛みや病気の痛みも和らげられると聞いた。  反面、その痛みを自分の中に蓄積させてしまうらしく、あまりやると精神的に不安定になると言っていた。  でもなんで今、アルは自分が不安を抱いているのかがわからなかった。 『帰ってくるから』  と、続けて彼は言う。  帰ってくるって誰のことだろう?  リン? いや、彼が帰ってこようと帰ってこまいと……どうでもいいわけではないけれど、そこまで不安を抱くだろうか?  一番は、兄だろう。  兄がいない。  そんなの不安すぎる。  何でいないんだっけ? 「俺の、せいだ」  自分の声にハッとして、アルは目を覚ました。  隣りでは兄が寝息を立てている。  なぜ、オミがいるんだっけ?  混乱する頭で考え、昨晩のことを思い出す。  昨日、眠れなくてそれで、ここに来た。  眠る前に兄が何か言っていた気がするが、どうも覚えていない。  外はまだ暗いようだ。  布団からはみ出さないよう、兄にくっつく。  寝相が悪いことに定評があるオミだが、布団からはみ出すことはなく、静かに寝息を立てていた。  オミからはアルファの甘い匂いが普段よりも強く漂ってくる。  落ち着くを通りこし、すこし目が回る。  相変わらず、寝るとフェロモンをダダ漏れさせてしまうらしい。  寝てるときにコントロールできるわけがないと、本人は言う。  確かにそうだが、リンはそんなこと言われたことがないと言っていたし、ネットで調べた限り寝ている間にアルファがフェロモンをダダ漏れさせるなんて話はどこにもなかったから、兄が特殊なだけだと思う。  この強い匂いにいつまでも充てられていたら、発情に近い状態になってしまうのではと不安になり、アルはそっと、兄の布団から出た。 「やっぱり、一緒に寝ないほうがいいかも」  兄弟とはいえ、アルファとオメガだ。  血縁がある限り影響は受けづらいというが、何ものにも例外はあるし、いろいろ記録を読めば、近親で子供を作っていたという話はいくつか出てくる。  アルは足音を立てないように兄から離れ、部屋を出た。  音を立てないように、そっとドアを締める。  自分の部屋に戻ろうとして、リビングに常夜灯がついていることに気がついた。  僅かに物音も聞こえる。  不思議に思いリビングに向かい、扉を開けた。 「リン?」 「ごめん、起こしちゃった?」  部屋着のリンが、毛布を手にソファーの横に立っていた。  なぜ毛布を持っているのだろう? 「お帰り。べつに、起こされた訳じゃないけど、どうしたの」 「部屋で紫音が寝てるから。ここで寝ようと思って」 「なんで」  リンのベッドなら大人の男ふたりでも寝られるだろう。なのになんで、わざわざソファーで寝ようとしているのか理解できなきった。 「紫音はオメガだからね。  まだ発情は先なはずだけど。何かあったら嫌だし。  友達と関係をもつきはないから」  友達と関係をもつきはない。  その言葉がなんだか突き刺さる。  静夜と寝てしまった自分とはえらい違いだ。  というか、何人ものセフレを囲っているであろうリンが、紫音とは何もないのが意外だった。 「紫音と寝たことないの?」 「ないよ。オメガはアルしか知らないし、紫音は友達だから」  言いながら彼は毛布をソファーにおき、アルを手招きした。  何だろうと思い、アルは彼に近づく。  手首を掴まれたかと思うと、身体を抱きしめられた。  リンのものとは違う、香水の匂いとその奥底にあるアルファの匂い。  香水の匂いが気持ち悪く、思わずもがくがリンは離してくれなかった。 「リン、香水の匂い……」 「香水……あぁ、今日会ったモデルさんのだよ。シャワーは浴びたんだけど」 「……気持ち悪い」 「ごめんね」  そう謝る割に、リンはアルを離そうとはしない。 「……オミの匂いがするけど、一緒に寝てた?」  その言葉に胃の底が冷えるような思いをするが、声に怒りだとかそう言った負の感情は感じなかった。  前に止められたことを考えれば、すこし怒られると思ったのに。 「え、あ……不安で……その……」  不安だったと認めるのは恥ずかしいが、言葉が滑り落ちていく。 「そうか。ごめんね」  ごめんねの意味が分からず混乱していると、手が頭を撫でていく。 「ねえ、リン」 「なに」 「オミが、俺の前からいなくなったことってある?」 「……アル?」  名前を呼ばれたかと思うと、唇が塞がれた。  舌が入り込み、口蓋を舐め舌を絡め取られていく。  息苦しく思いリンの身体を押すが、びくりともしなかった。  どれくらい口づけられていただろう。  やっと口が離れ、アルはリンに抗議の視線を向ける。 「なんでキス……」 「口をふさぎたかったから」  少し悲しげな瞳をして、リンが言う。  なんでそんな目をするのか理解できないし、口をふさぎたい意味も分からない。  オミがいない不安が心の中にあって、その原因を知りたいだけなのに。  聞いてはいけないことなのだろうか。 「ほら、まだ時間あるし、部屋に戻って寝ていなさい」  そう言って、彼はアルの頭を撫でる。 「聞いちゃいけないの」 「……無理に思い出す必要なんてないから。  不安なら、一緒に寝る?」 「……いや、俺、部屋に戻るから」  弱音を見せるのは本意ではない。  アルは、彼から離れるとお休みと言って、リビングを後にした。

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