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奥底に眠るもの

 「……る? アル?」 「え……あ……」  目を瞬き、我に返ると顔を覗き込む静夜と目が合った。  彼は心配げな表情を浮かべて、こちらを見ている。 「大丈夫か? ぼんやりとしてたけど」 「う、うん。だい、じょうぶ……」  そう答え、ぎこちなく笑みを浮かべる。  その答えを信じていないらしい静夜は、不審な表情になりアルの額に触れてきた。  驚いて、思わず半歩後ずさる。 「あ……ごめん」 「お前変だぞ」 「……あ、うん」  一瞬考えた後、あいまいに返して苦笑する。  変だとは自分でも思う。  すべて、思い出せない記憶のせいだ。  けれどなぜ今になってこんなものに振り回されるのだろう。  今まであまり気にもしなかったのに。  だいぶ時間が経っていたらしく、廊下には掃除の生徒の姿があるくらいだった。  彼らはだまって廊下にモップをかけている。   「お前、迎え来てるだろ。行こうぜ」  言いながら、静夜が腕を掴んでくる。  迎え。  そうか。  迎えだ。  リンと、兄が待っている。  家に帰り、自室のベッドに制服のまま横たわり暗い天井を見つめ、アルはひとり考え込んだ。  人ごみ。  消えた兄の姿。  そのあと何も覚えていない。  思い出せそうで思い出せない記憶のかけら。正直気持ち悪い。  兄がいなくなったのは確かだろう。  でも、なぜ?  迷子? 誘拐? 迷子はあり得なくもない。  オミは、自分の興味が向く物をみつけるとそちらに走っていってしまうからだ。  けれどどうやら、自分は静夜に電話をかけているらしい。  さすがに、そんな前のことは携帯の履歴にも残っていない。 「……わっかんないな」  考えることに疲れ、身体を起こす。  ひとりにしてほしい、と言って引きこもったため誰も部屋には入ってこなかった。  スマートフォンで時間を見ると5時半を回っていた。  部屋も、窓の外も闇がつつんでいる。  今夜も、リンは自分を抱くのだろうか。  この間の、オミと抱き合っていた光景が脳裏に浮かぶ。  リンの感情はよく知っているが、オミは何も考えているのかさっぱりだ。  双子なのに、何も読めない。  首を振り、ベッドから起き上がって明かりをつけ、制服から着替える。  深紅のブレザーの制服。  こんな色のブレザー、誰が考えたのだろうか。  血を、連想させる色。  あの日。  11歳のお正月、手についた兄の血。  それが思い浮かび、思わず顔をしかめる。  アルは、かすり傷ていどしか怪我をしなかった。  兄が守ってくれたから。  力はあるけれれど、この力で兄を守れたことはない。  あの時、この力で兄を守れただろうに。  それができなかった。  アルが操る風ならば、兄に降り注いだガラス片を吹きとばすくらいできるだろう。  あの時、それができていたらよかったのに。  ふわりと、髪を風がなぐ。  滅多に使うことのない、風を操る力。  最後に使ったのは、能力検査の時だろう。  強すぎる力は、簡単に周囲の物を破壊してしまう。  だから、基本この力を使うことはない。  こんな力があっても、誰も助けられない。  無意識に唇を噛み、鉄の味が口の中に広がっていく。  手の甲で唇を拭うと、わずかに血が付いた。これは、見られたら何か言われるかもしれない。  適当な言い訳は思いつかず、だからと言ってこのまま部屋に引きこもっているわけにもいかず部屋を出た。  廊下に出ると、綿パンツに黒いロングTシャツを着た兄がちょうどリビングから出てきた。  アルに気が付くと、ふわりと笑い、 「ご飯、呼びに行くところだった」  と言った。  もうそんな時間かと思い、無意識にポケットに手を入れる。スマートフォンを部屋に忘れたことを思い出し踵を返す。  そこで、不意に腕を掴まれた。  何かと思い振り返ると、灰色がかった大きな二重の瞳が、アルを捉えていた。  オミはじっと、アルの顔を見つめあいている手で唇に触れてきた。 「血が出てる」 「あ」  至近距離にある、兄の顔。  やばい。  心臓が跳ね上がり、体温が上がっていく。  顔が紅くなるのを感じ、逃げなければと思うけれどとっさに体は動かない。  すっと、唇を指が撫で、オミは小さく首をかしげた。 「乾燥してるわけじゃないみたいだけど、どうしたの?」 「え、あ……」  とっさに言い訳が出てこずどうしようかと考えていると、唇に触れていた手が額に伸びてくる。 「顔紅いよ?」  不思議そうな声音。  額に触れる兄の手の感触。  僅かに香る、アルファの匂い。 『……オメガじゃないのになんで?!』 『性別のせいか、力のせいか、なにもわかってないよ』  そんな声が、脳に響く。  誰の声だろう。自分か、兄か。別の誰かだろうか。 「なんで、オミばかりが傷つくの」  唇が勝手に言葉を紡ぐ。 「アル?」 「なんで、俺の前からいなくなろうとするの」  なんでこんなことを喋っているのだろう。そんな疑問は、徐々に消え失せていく。 「ちょっと、何言ってるかわから……」  戸惑う兄の肩を掴み、細い身体を壁に押し付けた。  風が、アルの、オミの髪を凪ぐ。  オミは大きく目を見開いて、アルをみている。 「俺だって、守りたいのに。  なんでオミばかりいつも傷つくの」  言葉と共に、涙があふれでる。風も徐々に強くなり、身体をおおう。 「落ち着いて、アル。壊れるってば!」  壊れる。何が?  それを考える余裕などすでになかった。  オミがいなくなる。  そんなの嫌だ。  オミが傷つく。  そんなの嫌だ。  死にかけて。いなくなって。傷つくのはいつも兄。  守りたいのに。守れない。 「アル」  腕を捕まれたかと思うと、強引に引っ張られ、オミから引き剥がされてしまう。  身体を抱き締められたかと思うと、唇を塞がれた。  相手がリンで、薬を飲まされていると気が付くのに時間を要した。  唇が離れ、体の力が抜けていく。  そんなアルを、リンは抱き上げた。 「部屋に運んでくる。あと、あいつ呼んだから」  そう、彼は言うと、アルを抱えてあるきだした。  あいつって誰だ。  混濁する意識では考えることができなかった。  部屋に運ばれ、ベッドに寝かされる。 「無理に思い出さなくていいのに」  手が頬を撫でたかと思うとまた口付けられた。  深く、舌が入り込み、口内を犯していく。  アルは彼の首に腕を絡め、唇が離れたとき涙目で言った。 「なんでオミばかり傷つくの。なんで俺は……」  そこまで言って何を言いたいのか分からなくなる。  リンは心配そうな顔をして、静かに言った。 「何か思い出したの」 「え? えーと……オミがいなくなって……」  けれどその先がわからない。  オミがなぜいなくなったのか。その理由に納得できなかったような気がする。  オミは違うのにと。  なんでだっけ?  頭にもやがかかって思い出せない。 「考えるの、やめたらいいのに」 「なんでそんなこと言うの。俺は……俺は……」  頭の中に流れる色んな映像に、気持ち悪くなってくる。   「僕は便利アイテムじゃねーぞ」  文句を言いながらアルの部屋に入って来たのは、病院の制服姿の紫音だった。  なんで彼がいるんだろうか。  思考が回らない。  リンは離れるとこっちを頼むと言って、部屋を出て行った。 「まったく、大和に俺を送らせるし……んだよ、アル、普通じゃねーか」  などとぶつぶつと文句を言っている。 「紫音は知ってるの。  なんで俺は覚えてないの。なんで俺は……」  ベッドから立ち上がり、紫音に迫ると、 「あー……そういう」  と言って、アルの頭に触れた。 「え……あ……」  不安だった気持ちが、徐々に薄らいでいく。  紫音の力。  不安だとか、恐怖だとかのマイナスの感情を吸い取るもの。  それを思いだし、リンが彼を呼び出した理由を理解する。  考えていたはずのことが徐々にぼやけていき、アルは瞬きをして紫音を見つめた。 「なん、で……紫音」  彼は蒼い顔をして首を振り、 「なんでもねーよ」  と答え、手を下ろした。  なぜ彼がいるのだろうか。  何を考えて何をしていたのか思い出せず、アルは首をかしげた。  紫音は口を押さえ、大きく息を吐く。 「……わすれてればいいのに」  と呟く。  彼は首を振り、苦しげな表情のまま言った。 「お前は大丈夫だな。  僕、ソファーで寝るわ」  紫音は振り返り、部屋を出て行く。 「え、なんで……」  紫音を追いかけて廊下に出て、リビングへと向かう。  頭にもやがかかっている様で、少し前の記憶がぼやけている。  リビングへの扉を開けて中に入る紫音の背を見送り、廊下で足を止める。  前もあったこんなこと。  紫音に触れられて。記憶が、途切れて。  気が付いたら、紫音が床でぐったりしていた。  吸い取った人の不安だとか恐怖は、身体の中に蓄積されると聞いた覚えがある。  ひどく疲れるとも。  そういうことか。  記憶がおぼろげな一つの理由は彼だ。  不安や恐怖を吸い取るとき、その原因を相手から忘れさせるという副作用があるらしい。  だから、対象は何が怖かったのかとか、何が不安だったのかわからなくなると。 「だから俺……」  呆然と、リビングの扉を見つめ、奥底に眠る記憶を呼び覚まそうと必死に考えを巡らせた。

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