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第七章 想い出2

***  案内されたのは、一般のお客様が泊まる普通のシングルの部屋だった。  キョロキョロしながら部屋を見渡していると、クスクス笑った父さんが座るように促してくれる。 「私が瑞穂と一緒にはじめて夜を過ごしたのが、この部屋だったんです」  いきなりの言葉に、どう返事をしていいか分からない。母からはあまり父さんのことは語られず、今まで過ごしているから尚更なんだ。  自分で言うのも何だが、母は結構負けん気の強い人。そんな母を父さんは、どうやって落としたんだろう? 「穂高、不思議そうな顔をしてますね。どうしましたか?」 「すみません、母から父と付き合ったいきさつを、まったく聞いていないものですから」 「そうでしたか。出逢いは衝撃的でしたよ。出会い頭、いきなり平手打ちされたんです。小さな体から出たとは思えないくらいの、信じられない痛さでした」  あの母だからこそ、その行動は何となく予想できてしまう。きっと何か、勘違いを起こしたに違いない。  かなり、そそっかしい人だったから――。 「昔からなんですね。そういうところ」  困った人だなぁと、子どもながらに何度も思った。  笑みを浮かべた俺を見やり、父さんは持ってきていた袋から赤ワインを取り出して、テーブルの上に置いた。 「やっと心から笑ってくれましたね、穂高。君がここに来た理由を聞いてから、これを開けましょうか」 「父さん……」 「君の瞳が私と別れるときの、瑞穂と同じ目の色をしていたので、きっとそういう話なんだろうなと、自分なりに予測はできているんです。だけど――」  一緒に持ってきていたワイングラスを並べ、軽くため息をつく。 「穂高の口からきちんと聞かなければ、前には進めません。未だに心は、囚われたままですから」  胸元を押さえながら、寂しげに俯く父に真実を告げる。母の最期の言葉を伝えるために。 「母が先日、息を引き取りました。苦しまずに眠るように、最期を迎えたんです」 「……長い闘病生活が終わって、本当に良かったです。苦しまなくて良かっ……」  透明感のある青い瞳から、どんどん涙が溢れていった。 「うっ、……瑞穂……」 「母が言ってました。ジュリオ、貴方に逢えて、いろんな物を貰えたって。お返しが出来なくてごめんなさいと謝ってました」  言いながら父さんの手に、自分が持っていたハンカチを持たせる。 「な、んで謝るんだ、瑞穂。私の方が君に謝らなくてはいけないのに。たくさんキズつけて、苦労ばかりさせて」 「それは俺も同じです。母には苦労ばかりさせました。したくない結婚をさせたのも、俺のせいなんです」 「したくない結婚? 彼女は望んで、したのではないのですか?」  渡したハンカチで涙を拭いながら、驚いた顔で訊ねてきた。 「最終的には藤田氏の口車に、上手く乗ってしまったんです。結婚したら穂高くんに兄弟ができて、いい学校に通えるだけじゃなく、就職先も安泰だと。このまま親子ふたりだけなら、絶対に叶うことのない将来を、俺が築かせてあげるとも言ってたかな」 「母親が子を思う気持ちを、巧みに利用した戦法ですね」 「はい。だから俺は母が病気になったときに、自分ができることをしてあげようって思いました。どんなにつらくてもそれ以上のことを、母は体感しているんですから」  膝の上に置いてる拳をぎゅっと握りしめながら、今までのことを思い出していた。  途中からの頑張りは母のことだけじゃなく、千秋が絡んだのもあった。千秋と一緒に生きていきたいと、切に願ったから――。 「さすがは瑞穂の息子です。しっかり者で優しくて頼り甲斐のある、いい子に育ってくれました」 「確かに母の息子でもあるしジュリオ、父である貴方の息子でもあります。結婚せずに独身を貫いたのは、母をずっと想っていたからなのでしょう?」 「そうですね。彼女以上に想える人と、運よく巡り逢えなかったのもありますが」  作り笑いをして肩を竦める。  もう涙を流さずにこっちを見てる視線は、優しい父親そのものだった。 「父さんの心の中にある同じような想いが、俺にも引き継がれている気がします。きっとこれから先、誰とも結婚せずに、ひとりきりで過ごしてしまうだろうなって」 「……それは、誰かと別れてしまったのですか?」  そっと気遣うように訊ねてきた言葉に、こくりと無言で頷く。 「Amor magister est optimus.」 「えっと……アモル・マギステル・エスト・オプティムス?」  俺に分かりやすく説明するためなのか、単語を区切りながら喋ってくれたイタリア語を耳でなんとか聞き取り、それを必死に口にしてみた。 「上手に言えましたね、さすがです穂高。愛は最良の教師であるという意味です。これは博物学者の他に、軍人と政治家を兼ねていたガイウス・プリニウス・セクンドゥスの言葉なんですよ。自分の中にある愛が、いろいろなことを教えてくれました。私は実家から妨害されても反抗して、すべてを投げ打つ覚悟だってあったのに……」  やるせなさそうな表情を浮かべ赤ワインの瓶に手を伸ばすと、手馴れた様子でコルクを抜いていく。 「すべてを投げ打っていたら、どうなっていたんでしょうね?」  俺は実の父さんと母さんに囲まれて、幸せに暮らしていたんだろうか? 「……間違いなく、親子バラバラにされているでしょう。ベルリーニの一族は非情の塊だから。きっと私は家に連れ戻され、君たち親子はどこかに遠ざけられたでしょう。代々続く家柄を守るために――」  いい音で抜かれたコルクを静かにテーブルに置き、グラスにワインを注いでくれた。見慣れている赤ワインの色が、何だか眩しく見える。 「今年初物のイタリアワインです。さぁ乾杯しましょう」 「あの、イタリア語で乾杯は?」  グラスを手にして訊ねると、父さんは口角を上げて嬉しそうに笑った。 「Salute!」  言いながらグラスを掲げたので、慌ててカチンと鳴らしながら言ってみた。 「サルーテ!!」  父さんの独特のテンションについていけないのは、多少の時差ボケがほんのり入っているせいかもしれない。  眠気を吹き飛ばすべく、ワインを口にする。酸味と渋みが混ざり合い、芳醇な香りが口いっぱいに広がった。 「うん、今年のワインの出来は上々みたいです。一緒に楽しめて嬉しいですよ」  無理をしてはしゃぐ父さんに、何だか声をかけられない。母の死を知って本当はもっと、泣いていたかったはずだろうに。 「君が高校生のときに、私が日本に逢いに行ったことがありましたよね。瑞穂にはナイショで」  自嘲気味に笑いながらワイングラスを回して、話し出した父さんの顔を見た。 「はい、かなり驚かされました。逢うのがはじめてだったので」 「いいえ、初めてではないのですよ。穂高がうんと小さいとき、一度だけ逢ってます。瑞穂が出産したのを知り、逢いに行こうとしたのですが、秘書に仕事を強引に入れられ、邪魔をされましてね。コッソリとスケジュールを調整して日本に渡ったのは、それから3年も経っていました」 「3年……」 「酷い父だと言って下さい。君たちに逢うのに、こんなに年月がかかってしまったのですから」  俺は手にしていたグラスを一旦テーブルに置き、首を横に振る。 「一生の内の3年なんて、たった3年です。しかも、逢いに来てくれたじゃないですか。覚えていないのが悔しい限りです」 「穂高、君はとても優しいですね。今もあのときも……。ちょうど桜が咲いてる時期でした。君を連れた瑞穂は微笑みを浮かべていて、とてもキレイだった。だけど私を見た瞬間、儚くその笑みが消え失せて、悲しい表情になったんです」  一口ワインを飲み、切なそうな表情を浮かべた父さん。当時のことを思い出し、胸の痛みを感じているのかもしれない。 「きっと逢うことはないだろうと思っていた人に、突然逢ったから、母としては困っただけだと思いますよ」 「そうですね。固まって動けなくなった瑞穂の手を振り切り、小さな穂高が私のところに駆け寄ってきたんです。跪いて君の頭を撫でたら、いきなり髪の毛を掴んで、無理やり引っ張ってきました」 「母からは落ち着きないと、よく叱られてました」  苦笑いをしたら、言った通りに俺の前髪を引っ張って、わざわざ再現してくれた。 「こんな感じに容赦なく引っ張りながら、満面の笑みを浮かべて言ったんです。『おじちゃん、僕と一緒だね。おそろいだよ』って。きっと嬉しかったのでしょうか、日本人ではありえない髪色ですし」 「そうですね。よく弄られる原因の、ひとつにもなってました。目立っていましたから」  だけど今は、この栗色の髪をしていて良かったって思うんだ。  ふたりきりで何度か迎えた朝――目を開くと隣で寝ている千秋が、じっと俺を見つめていた。その目がやけに嬉しさを滲ませたものだったから、迷うことなく訊ねてみたんだ。「どうしたんだい?」って。  すると笑いながら、俺の頭を優しく撫でてきて――。 『穂高さんの髪の毛って日に当たると、金色になるんですね。たったそれだけの発見だったんだけど、すごく嬉しくなったんです。穂高さんの髪色は、俺の好きな色になっちゃいました。とってもキレイで、あたたかい色だから』  そう言って髪を一房手に取り、キスを落としてくれた。  千秋が告げた言葉が、今でも心の中にこうやって残ってる。俺の心を優しく包み込み、無条件に幸せにするものになっていた。 「君には、必要のない苦労をかけさせてばかりでしたね。つらいときに支えてあげられなくて、とても済まないと思っています」  手にしたグラスをテーブルに置き、頭を下げる父に首を横に振ってやる。 「実は今、とても落ち込んでいるところなので、父さんの言葉に支えられています。顔をあげて下さい」 「穂高……」 「聞きたかったことがあるんです。どうして高校生のときに突然現れて、父だと名乗っただけで帰っていったのかを」  幼い日のことは覚えていないけど、さすがに高校生で逢ったときのことは、ハッキリと記憶している。 「実は当時、ベルリーニ家では、跡取り問題が発生しましてね。私の血を受け継いでいる君も、れっきとした跡取りになりますから」 「もしかして――」 「ん……。君に私の跡を継いでもらおうと、交渉しに逢いに行ったんです」  高校からの帰り道、家の前にいた見慣れない外国人に面食らった。自分の容姿に非常に似ているその姿に、心臓がバクバクしたのを、今でも思い出せるくらいに。 「いきなりハグして抱きついたと思ったら、『私は君の父さんなのです』と言われても衝撃的すぎて、上手く言葉が出なかったです」 「あはは、さっき空港であったままですね。私も成長していないなぁ。息子がこんなに、ステキに成長しているのに」  再びワイングラスを手に取り、一口飲んだのを見て、同じように口にする。こうやって同じものを父さんと一緒に共有できるこの時間も、幸せのひとつなんだな。 「私が将来イタリアに来ないかと誘った言葉に、君は直ぐに首を横に振りました。そのときはどうしてだろうって思いましたが、さっき教えてくれた事実で、やっと納得しました。瑞穂は本当に親孝行の息子を持って、幸せだったでしょうね」 「だけど心の中までは、支えてあげることができてないと思います。俺の前では絶対に泣き言を口にしなかったですし、泣いたところだって見ていないけど、時々目が腫れていることがありました」  きっと父さんに、逢いたかったんだと思う。病気でつらいときに、うわ言で名前を呼んでいたのを、何度か間近で聞いていた。 「君はこれから先、どうするのですか? 跡取りの件は、弟夫婦の息子が継ぐことになったので、君には何もしてあげられませんが、父親として最低限のものだけでも――」 「お気持ちだけ受け取らせて下さい。日本に帰国後、義理の兄が斡旋してくれる漁港に行って、漁師として修行するつもりです」 「漁師!? それならここ、イタリアでもできますよ。周りが海で囲まれているんですから。何なら、私が口利きをすれば――」 「父さん、俺は……」  遠く離れていても、千秋の存在を感じられる日本で生きていたい。そのことをどうやって伝えようか思案したら、俺の顔を見て渋い表情をしながら父さんは俯いた。 「すみません、困らせてしまいましたね。君は別れてしまった人の傍にいたいから、日本で頑張ろうというのに。寂しさのあまり、つい引き止めようとしてしまいました」 「離れていても俺たちは親子です。ぜひ、遊びに来てください」  この世で唯一血の繋がった人なんだし、大切にしたい。 「では父親として、もうひとつ伝えておく言葉があります。胸に刻み込んで下さい」 「はい」 「Audentem Forsque Venusque iuvat.」 「アウデンテム・フォルスクゥェ・ウェヌスクゥェ・ユウァト……?」  難しい発音がたくさん出てきて、舌を噛みそうになった。 「運も愛も、大胆に振る舞う者の味方をするという意味です。古代ローマ時代を生きた、詩人の言葉なんですがね。私は運に恵まれなかったのは、大胆に振舞うことができない境遇と、弱さを持っていたからでしょう」  言いながら、どこか遠くを見つめる青い瞳が、とても悲しげに映る。 「だけど君には私にはない強さを、心の奥底に秘めている気がします。大胆に振舞って抗いながら、明るい未来を勝ち取る勇気を、日本に帰ってから出すことはできませんか?」  父さんの言葉に、心がゆらゆらと揺さぶられた。  できることなら帰国後、千秋のもとに直行してすべてを吐露した上に、一緒に暮らしたい気持ちがある。だけどそれだけで幸せになれる保障なんて、どこにもない。ふたたび泣かせる可能性だってある。だから――。 「父さんの言葉、しっかりと胸に刻み付けました。だけど一人前になるまでは、先を見据えるために、歯を食いしばってみてから考えようかな、と」 「穂高は堅実ですね。確かに、ローマは一日にして成らずです。君の人生、遠くから応援しますよ」  呆れたような、それでいて安心したような表情をし、グラスを掲げてきたのでカチンと鳴らしてあげると、一気に中身を煽った。  その日はふたりで、想い出話に花が咲いた。ふたりそろって、愛おしい人を失った悲しみを忘れるかのように――。

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