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―未来への灯火―

 当たり前のように、穂高さんが傍にいる――。  島に就職が決まり、本土からここに移住して約一か月が経とうとしていた。  都会に比べて島民の人口が少ないから仕事量だって少ないと思いきやその逆で、職員五名で350名分のお客様に関する仕事をこなさなければならない。  そんな農協でのお仕事は当然初めて尽くしなので戸惑うことが多いけれど、職員のオジサンたちが優しく仕事を教えてくださる方々ばかりで、毎日が恐縮しまくりだったりする。  大変だけど、すごくやりがいがある。ここに住むことができて本当に良かった。  そんなことを考えながら現在、必死こいて自転車のペダルを最大限に回していた。農協から漁協までの登り坂を、思いっきりあくせくしながらだけど。  さいわいなことに滅多に残業のない職場なので、午後五時ちょうどに仕事が終わるんだ。 「お先に失礼しますっ! お疲れ様でした!」  仕事終わりのお茶を美味しそうに飲んで、まったりと和んでいる職員の皆さんにしっかりと挨拶をしてから、脱兎のごとく表に駆け出して自転車に跨り、漁協に続く道のりをひた走る。穂高さんの船出を見送るために――。  一緒に暮らしていても残念ながら、俺たちの生活サイクルはかみ合うものではなかった。それは暮らす前から分かっていたことなれど、やはりちょっぴり寂しい。  それでも波が高かったり悪天候だったりした場合は、漁がお休みになるのでそのときはもう、ね。穂高さんが俺の仕事帰りを、今か今かと首を長くして待っている状態だったりする。  かくいう俺もべったりできるひとときを大事にしたいから、喜び勇んで帰る。  どんなに肌を重ねても穂高さんに飽きがこないのはやっぱり、お互い求めているせいなのかなって最近思うようになった。  一緒にいて幸せを感じられる人。傍にいられるだけでこんなに嬉しくて――。 「あっ、穂高さーんっ!」  夕日の色が映える栗色の髪をなびかせて元気に右手を振る愛しい人が、俺の姿を見て柔らかく微笑んだ。 「千秋、お帰り。今日も一日頑張ったね」  登り坂の途中にいた穂高さんに合わせるべく、微笑み返しながら自転車を降り、寄り添うように隣に並ぶ。視線が絡んだだけで、胸がきゅっとなった。相変わらずの自分の反応に、毎度戸惑ってしまう。 「良か、った、今日もっ、間に合った!」 「ん……。千秋が毎日一生懸命に自転車を漕いでるからか、逢う時間がどんどん長くなっていくのが嬉しいよ」 「穂高さんっ、出る時間……っ、ぉ、遅くしてない?」  ハアハアと息を切らしたままの俺の頭を、よしよしと撫でてくれる。大きな手のひらに触れられただけで、ドキドキが一層加速していくな。 「出発した時間はいつもと同じだよ。遅刻したら船長に蹴られて、海に突き落とされてしまうからね」  頭を撫でていた手をゆっくり下して、頬を愛おしそうに触れてくる。 「穂高、さん?」 「頑張った千秋に、ご褒美をあげていいかい?」  頬に触れていた手が顎に移動してきて強引にくちびるを開かせると、穂高さんの端正な顔が近づいてきた。迷うことなくその場に立ち止まり、瞳を閉じてそのときを待つ。 「千秋、愛してる……」  くちびるの直ぐ傍で告げられた言葉に、返事をしたくてもできない――。 「っ、ンンっ!」  俺の言葉を塞ぐように、強く重ねられたくちびる。自転車のグリップを握る手に、自然と力が入る。本当はこんなの放り出して、穂高さんの首に巻きつけたいのにな。  ゆっくりと割って入ってきた穂高さんの舌へ、求めるように自分の舌を絡める。   「ん、ぁ、あっ……、う、やっ」  俺が動けないのをいいことにお尻にちゃっかり触れるなんて、何を考えているんだ、まったく!  と怒りつつも、もっと触れてほしいって思った自分もいたりする。割れ目に沿って指で強くなぞられるせいで、自然と息が上がってしまうじゃないか。 「そんな顔をしないでくれ。俺としてはただ、ご褒美をあげただけなんだから」 「ごっ、ご褒美なんて強請ってませんよ」 「とか何とか言って物欲しそうな顔をしていたのは、どこの誰だい?」  怒った俺の態度が可笑しいと言わんばかりに、肩を揺すって笑い出した。しかも図星を突かれたせいで、反論ができない。 「もっとイチャイチャしていたいのだが、そろそろ行かなければ」  残念そうな顔で腕時計に視線を落とす穂高さんに、そっと顔を寄せてみた。 「ねぇ、ちょっとだけ屈んでくれる?」 「ん? これくらいかい?」  膝を落として俺と同じ目線に合わせてくれたので、真ん中分けになっている前髪の隙間からちょっとだけ見えている額に顔を近づけて、ちゅっとしてあげた。 「これから頑張る穂高さんに、元気をチャージしてみました。これでドジしないでしょ?」 「じゃあ俺も――」 「穂高さぁん、そんな時間はないよ。急がなきゃ!」  時間を確認してくださいと言わんばかりに、腕時計に指を差してやる。本当にギリギリの状態なんだ。 「くそっ、千秋との楽しい抱擁タイムなのに」 「穂高さんとの貴重な時間を少しでも作るために、俺も頑張るから。そんな顔をしないで。せっかくのイケメンが台無しだよ」  転がってる小石を悔しそうな表情で蹴りながら、くちびるを尖らせて歩き出した穂高さん。  困った人だな、どうしたら機嫌が直るだろうか。   「千秋は分かってない。俺がどんな気持ちでいるのか……」  カラカラと音を鳴らして自転車を押してる俺の耳に、そっと手を伸ばしてきた。耳たぶをふにふにと摘まみ倒す。 「……くすぐったいですよ」  何とかしてイチャイチャしたい気持ちが、分からないワケではないんだけど。 「少しだけ髪を乱して頬を赤く染めながら、満面の笑みで自転車を漕いでいるスーツ姿の君を、何度この場に押し倒したくなるか、全然分かっていないだろう?」 「分かりたくないです、ごめんなさい!」  生活習慣がすれ違っているせいでHしたくてもできない現状を、そんな風に言葉にされると本当に困ってしまう。 「その姿の殺傷能力がどれだけ高いか、千秋は全然理解してくれないし。妙な色香を放っているんだよ、ふわぁって」  今日はやたらと絡んでくるな、どうしたんだろ――って、そういえば……。 「話は変わるけど、さっき頬に触れたとき、いつもより体温が高いなって思ったんだけど、体がダルかったりしません?」  キスしたときに絡められた舌も、ちょっとだけ熱っぽく感じられたんだ。 「いやむしろ、いつもより体調がいいくらいだよ。出てくる直前まで昼寝をしていたせいで、洗濯物を慌てて取り込んだんだが、畳む時間がなくてね」  穂高さんの体温が高く感じたのは俺が汗をかいて体温が下がったせいで、そんな風に伝わったのかもしれないな。 「洗濯物の取り込みなんて、俺が帰ってからやるって。無理しないで、ゆっくり休まないと」 「だが、千秋だって疲れているのに」 「分かってないな、穂高さん。大好きな人の洗濯物を畳める幸せが、どんなものなのか。愛情を込めてアイロンがけしたり、畳んだりするのが楽しくて仕方ないんだよ」  一緒にいられなくても、こうして穂高さんのものに触れられることの幸せ。俺の畳んだシャツを嬉しそうに袖を通す姿を見られるだけで、じーんとしちゃうんだ。 「まるで新妻のような発言だね、参った……」  照れくさそうに人差し指で頬をポリポリ掻き、目の下をほんのり赤く染めながらじっと俺を見つめてきてもな。 「……新妻っていうその表現、俺には似合わないと思んですけど」  なぁんて言いつつも穂高さんの照れが見事にうつってしまい、赤い顔を見られないようにすべく、意味なく首を動かした。 「いつまで新婚気分を持続させられるか、マンネリにならないようにアレコレ創意工夫が必要だな」  何の創意工夫を考えているのかあえてツッコミを入れず、ただ並んで歩いてみる。  毎日穂高さんを見送る何気ないこのひとときも、会話が違うだけで毎回新鮮なものに感じられるというのに、隣にいる愛しい恋人は俺を何とかして喜ばせようと、どこかいつも必死だった。 「創意工夫なんて、そんなの必要ありません。穂高さんが傍にいるだけで、俺は十分なんだからね」 「千秋……、俺に飽きて捨てたりしないかい?」 「その言葉、そっくりそのままお返しするよ」  半分呆れながら言ってみせると、信じられないという表情をありありと浮かべた。 「君に飽きるなんて絶対にありえない! 抱き足りないくらいなのに」  あー、自ら墓穴を掘っちゃったかも。穂高さんの目が、ギラギラしてきちゃった。 「千秋のすべてを攻略できていない今、どうやってそれについて調べる術があるのか。かなり頭を悩ませているんだよ」 「そんなくだらないことで、いちいち頭を悩ませないでください。攻略って一体……」  頭を抱えたいけど両手に自転車のグリップを握りしめているので、無理なんだよな。 「その日の体調にもよるだろうが、千秋のドライとウエットの違いを恋人としてはどうしても攻略したい! 今日はドライでたくさんイかせてあげたりなんて、いろいろできるほうがお互いに気持ちがイイだろう?」  夢見るように熱く語ってくれても内容が内容だけに、素直に同意はできなかった。 「穂高さんとしては、いろいろと考えることがあるでしょうけど、俺は今まで通りがいいんです。自然に任せたい、みたいな」 「悪いがそれじゃあ、俺が持たないんだ。何とかして微調整をしなければ、千秋にイかされてしまうからね。掴めそうで掴みきれないんだよ、本当に悔しい……」 「はあ、そうですか」  こりゃあ俺が何を言っても、無駄なパターンだな。変なところに、研究熱心なんだから――。 「そんな、呆れた顔をしないでくれ。俺としては真剣な悩みなんだ。とことんまで千秋を感じさせつつ、己を保っていなければならないのは非常に難しいからね。イクと言われても、どっちなのかが、未だに分からないワケだし」 「穂高さん、そろそろ声のトーンを落としてくださいよ。漁協が近いんですから」  間違いなく自分がアブナイことを言ってるのを、理解していないと思われる。 「分かってる。だが言葉にしないと、どうにもやり切れなくてね」  闇色の瞳を細めながら俺の胸の中心辺りに、そっと左手を伸ばしてきた。沈みかけた夕日が、穂高さんのしている指輪にキラリと反射する。  触れた胸元にはネックレスに付けた穂高さんがくれた、笹舟をかたどったシルバーの指輪がある場所だった。 「千秋――」 「愛してるから穂高さん。焦らなくても大丈夫だよ。俺は逃げたりしないし」  伸ばしている穂高さんの手を取り、薬指に付けている指輪にキスを落とした。  おおやけにできない関係を示している指輪。それを自宅に帰ってから左手の薬指にはめる度に、穂高さんへの強い気持ちを思い知るんだ。  島のみんなには見せられないお揃いの指輪をしているというマイナス面がある上に、仕事ですれ違うことが多いからこそ、こうして短いひとときを一緒に過ごせるだけで、幸せを改めて噛みしめることができる。 「穂高さんを見送ったあと、家に帰って洗濯物を畳むのが楽しみだなぁ」 「ふっ、もうひとつ楽しみがあるよ」  嬉しげに語った俺の頬を、つんつんと突ついてきた。 「なぁに、その意味ありげな笑みは?」 「千秋の笑顔があまりにも可愛くてね、食べてしまいたいと思ったんだ」 (安定のセリフですね、穂高さん。それについてのツッコミはいれないよ)  じと目で見つめる俺に気がついて表情を引きしめたみたいだけど、目元が笑ったまんまだ。 「一仕事終えた千秋にご褒美として、冷蔵庫に大好きなプリンを入れておいた」 「本当に?」 「ああ、だから偉い俺にもご褒美が欲しくてね。さっきしてくれた額のキス、もう一度して欲しい」  してあげたいのは山々なれど、目と鼻の先に漁協の建物が見えているんだよ。困ったな――。 「大丈夫だ、千秋。こうすればいい」  顔色を曇らせた俺の心情を素早く読み取り、自転車の前に立ちはだかる。穂高さんの大きな身体が建物を隠したので、向こうからは何も見えないと思うけど。 「ね、千秋早く!」 (時間も差し迫っているし、止む終えないか) 「穂高さん、いつもありがと」  俺と同じ目線にしている顔に近づいて、額にちゅっとしてあげた。  くちびるを離した瞬間、穂高さんのくちびるがいきなり俺の動きを塞いできて――。 「うっ……」  奪うような突然すぎるくちづけに、息が止まってしまった。いつもよりあたたかい穂高さんのくちびるがまるで、想いの熱を示しているみたい。  ――どうしよう、トロけてしまいそうになる……。 「ありがと千秋、今夜も頑張って仕事ができそうだ」  くちびるをちょっとだけ離して掠れた声で感謝を告げつつ、顔の角度を変えて再び俺のくちびるを奪おうとする穂高さんのくちびるを、手のひらで素早く阻止してやった。 「穂高さぁん、じ・か・んっ! 遅刻しちゃいますよ」  ひと昔前の自分なら、間違いなく二度目のキスを受けていたと思う。だけど、流されてばかりもいられないんだ。約束したから、穂高さんのお父さんと。  ――彼を支える、立派な柱になるって。  動きを止められた穂高さんが形のいい眉をちょっとだけへの字になり、恨めしそうに見つめてきた。その様子にただならぬ気配を感じて、恐るおそる手のひらを引っ込める。 「……つれない君には、おしおき決定だな」  妙に乾いた声で告げて身を翻し、自転車の前をさっさと歩いて行ってしまう。そのクセ目の前にある大きな背中は、どこかホクホクしたように見えるのは気のせいだと思いたい。 (穂高さんのおしおきは、ロクなものじゃないからな)  自転車を押しながらちょっとだけ小走りして隣に並ぶと、見下ろしてくる視線が俺を捉えた。  お預けを食らった獣のようなそれに負けないように、気を引き締めて見つめ返してみる。 「――今すぐにでも、千秋を食べてしまいたい。ああ、自分の仕事がこんなにも恨めしく思えるものになるなんてな」 「今日も大漁だといいですね」  そんな、まったく噛みあわないやり取りを数回しているうちに、漁協に到着した。  穂高さんは準備があるからと足早に船長が待つ船に向かい、俺は漁協の倉庫にいらっしゃる顔馴染みのパートのおばさん達の輪の中に入り、井戸端会議に花を咲かせた。そして――。  船長さんを先頭に出て行く何隻もの船を、『いってらっしゃい!』と大きな声をかけながら、両手を振って見送った。  心の中で、今日も無事に帰ってきますようにとお祈りしながら。

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