134 / 175
―未来への灯火―3
***
ガタガタガタッ!
「わっ、ビックリしたな……」
夕飯を食べ終えて穂高さんが買ってくれたプリンに舌づつみを打っている最中に、強風で窓ガラスが音を立てはじめた。
海から吹き付けるような風はまるで台風の到来のように感じるもので、天気の急変時に毎回こんな風が吹くから、今は慣れてしまった。
――それでも、心配の種が尽きないのは常なんだ……。
(穂高さんがこの風に煽られて、海に落ちていなきゃいいけど。この様子だと、間違いなく波だって高いはずだ。いつもより仕事をするのが大変だろうなぁ)
疲れて帰ってくる穂高さんのことを考えて、明日の朝ごはんはスタミナ系のおかずにしようと考えついた。
手に持っていたプリンを食べてから、スマホでレシピを検索してみる。親切丁寧なレシピの数々に、頭が下がってしまう。俺でも作れそうなものが、結構出てきた。
「焼き肉のタレに一晩漬け込んでおいて、あとは焼くだけにしておけば、朝からバタバタせずに済みそうだな。これにしようっと」
空になったプリンの容器を片手に台所に立ち、下ごしらえを開始する。穂高さんの喜ぶ顔を想像しながら作るだけで、楽しさが倍増するから不思議だな。
『朝からこんなに精の付くものを作って、襲ってくださいと言っているように感じるよ千秋』
とか何とか言われちゃったら……。否定できない自分が、ちゃっかりいるのが恥ずかしい。
照れながらもきちんと料理の下準備を終えて、シャワーを浴びた。その後、テレビを見ながらアイロンがけをする。
賑やかなバラエティー番組を耳で聞きながら、ワイシャツの襟の部分を丁寧にアイロンを当てていたら、黒電話のけたたましい音が鳴った。突然すぎるその物音に、ビクッと肩をすくめてしまう。
アイロンを専用のスタンドに戻してからゆっくりと立ち上がり、何の気なしにひょいと受話器を取る。きっと強風が吹いているから、注意しろっていう島の連絡網だろう。
「もしもし!」
「もしもし、診療所の周防だ。今、大丈夫か?」
緊迫した声が聞こえた瞬間、一気に身体が緊張してしまった。
「はぃ、大丈夫、ですが。……何か?」
「井上さんが海で溺れて、ウチに運ばれた。頭を打っているから内地の病院に運びたいんだが、この強風でドクターヘリが来られないと言われてしまってな」
――海で溺れて、頭を打った!?
「あのっ、穂高さんは無事なんですか? すごい大怪我をしているのでしょうか?」
(強風でどこかに頭を打ち付けて、海に落ちてしまったんだろうか?)
自然と身体が震えてきた。頭の中が真っ白になって、他のことが何も考えられない。
「落ち着きなさい、大丈夫だから。とにかく着替えをもって、診療所に顔を出してくれないか? 船長も話がしたいと言ってるから」
「分かりました、すぐに伺います!」
言いきって受話器を置き、自分を落ち着かせるべく大きなため息を数回ついてみる。身体の震えを止めようと、拳に力を入れてみた。
周防先生から大丈夫だと言われても、見えないからこそすごく心配だった。冷静にならなきゃいけないのが分かっているのに、何から手をつけていいか困ってしまう。
「……穂高さんの着替えを用意する前に」
目の前にあるアイロンを片付けなきゃ。電源を落として、それから――。
慌てて用意すると何かを忘れそうだったので、先にやっていた物を片付けて終えてから、穂高さんの着替えを用意してカバンに詰め込んだ。
そして強風が吹き抜ける中を自転車に跨り、診療所を目指す。途中から追い風になってくれたお蔭で、かなり助かってしまった。
「穂高さんっ、穂高、さんっ!」
立ち漕ぎしたまま必死に走らせて、暗闇の中に光り輝いている診療所に無事に到着した。自転車のスタンドを立てずにその場に放り出し、扉を開けて素足のまま診察室に駆け込んだ。
「紺野、ですっ! 穂高さんがお世話に――、っ!?」
思わず、その場に立ちすくむ。目に飛び込んできた穂高さんの姿が……。
「ほ、らかさ……ん、どう、して?」
「ほぉ、思ったよりも早く来たな」
周防先生が話しかけてきたけれど、視線は穂高さんに釘付けのままだったから、どこにいるのか分からなかった。
頭に真っ白い包帯を巻かれて、頬の色がいつもより赤くなっているだけじゃなく、点滴までされた状態に二の句を告げることができない。
「うっ……」
穂高さんのうめき声で、反射的に傍に駆け寄る。点滴をしていない左手をぎゅぅっと握りしめながら、顔を覗き込んでみた。
「穂高さんっ、穂高さん?」
「……た、頼む、から……行かないでくれ。俺を……見捨て、ないでくれ」
もしかして、昔のことを思い出しているのかな。穂高さんを捨てた初恋の人のことを――たまにこうして、うなされる姿を見ているだけに、胸が張り裂けそうなくらいに痛んだ。
いつもよりあたたかい手のひらを、両手で握りしめてやる。
「穂高さん、大丈夫だから。俺はここにいるよ、見捨てたりしないからね!」
(俺の存在を、この手のひらから感じ取ってください)
そんな願いを込めて、更に握りしめてみる。彼の抱える不安を、早く取り除いてあげたかった。
「おとーとさ、そげな顔しとったら、井上のヤツは目を覚まさないと思うど」
「へっ!? わわっ!」
背後から伸びてきた手でいきなり頭をグチャグチャに撫でられたせいで、変な声が出てしまった。
「コイツはよー、オメェの笑った顔が好きなんだがらよ。早く起ぎねぇかって声かけながら、ニコニコ笑ってやれって」
「……船長さん」
「そんな沈んだ顔すんな! 無事だったんだがらよ。な?」
頭を撫でてくれる手のひらから、船長さんのあたたかい気持ちが伝わってきた。そのお蔭で、涙腺が緩んでしまいそうだった。
「こっ、この度は穂高さんが……大変お世話になり――、あの……」
船長さんにきちんと向き直って挨拶を口にしたのに、頭に載せられた手のひらはそのままの状態。しかも言いたいことが詰まって、あたふたするしかない。
「井上さんは、どんな状態で助かったんだっけ?」
困り果てた俺を見かねてか、周防先生が助け舟を出してくれた。
「お~、それな。落とした網ん中に落ちていったがらよ、スイッチ押して引き揚げようとしたんだけどな。井上がプカァと浮いてきたもんだがら、慌てて引っ張り上げてやったんよ。そんで意識が戻るかどうか、ほっぺさ叩いてやったら、いきなりムクッと起き上がって、カゴに頭さ勝手にぶつけて倒れたんだ。はた迷惑な野郎だろ?」
言いながら何故か、俺の頭をバシバシ叩く。
「痛っ! 穂高さんが大変お騒がせしましたっ」
「あ、悪ぃな。つい力が入っちまった。アハハ!」
そこでやっと船長さんの手から解放されたので、改めて穂高さんに向き直ったら反対側に周防先生が立っていて、しげしげと点滴を眺めていた。
「あのぅ、穂高さんの容態はどうなんでしょうか?」
「ああ……。どこから貰ったか知らんが、インフルエンザB型を患っていたよ。熱が出たり、頭痛や寒気が出ていたと思うけど井上さん、どうして気がつかなかったんだか」
周防先生の言葉に、身体が固まってしまう。だって、俺は気がついていたから。やっぱりあのとき、熱があったんだ。
「……あの、俺――」
「アイツ、熱があったのか。いつもより動きが良くて使えるもんだから、どんどん仕事をやらせちまった。悪がったな」
俺と穂高さんに向かって頭を下げる船長さんに、首を横に振ってみせた。
「謝らないでください、俺だって……。穂高さんの変化に気がついていたのに、やり過ごした挙句に仕事に行かせたんですから」
本人の言葉を信用しないできちんと熱を測っていたら、こんな大事にならなかったはずだ。
穂高さんの左手を両手で握りしめてみる。あたたかい手のひらを感じて、心の底から安堵のため息をついた。こうして無事に戻ってきてくれて、本当に良かったとしみじみ思う。
「井上さんってヤツは、一体どんな身体をしているんだ。身近にいるふたりを見事に欺き、ウイルスに冒されながら仕事をするなんて、並みの人間にはできないことだぞ」
呆れ果てた周防先生の言葉に同意すべくクスクス笑ってから、隣にいる船長さんに視線を飛ばしてみた。俺と同じように笑っていると思ったのに真顔のまま、ある一点をじーっと眺めている様子に、首を傾げるしかない。
何だろうと思いながら視線の先を辿り、ハッとして穂高さんの手を放り出すように離してしまった。今更隠しても遅いのは分かっているけれど、隠さずにはいられない。
薬指に嵌められたままの、俺の指輪――。
心臓が痛いくらいに高鳴って、冷や汗が額に滲んでくるのが分かった。
「……何で、おんなじ指輪してんだ。兄弟そろって」
「あの、えっとですね兄弟の証、みたいな感じでしょうか……」
目を白黒させながら誤魔化した俺を見つめる船長さんの目線が、グサグサと身体に突き刺さるように感じた。不自然に背中に隠した左手を見ようとしているみたいな視線で、さらに焦ってしまう。
「兄弟の証って、そんなの内地で流行ってるんか?」
船長さんの質問は俺ではなく、向かい側にいる周防先生に向かってなされた。
「俺だって暫くそっちに帰っていないから、流行りなんてものはさっぱりだ」
面倒くさそうな顔しながら短く切りそろえられた白髪頭を掻き、困惑しまくりの俺を眺める。その瞳がなぜだか妙に優しげに見えるのは、気のせいなんかじゃない。
「おいおい、周防さん。アンタ何か知っとるじゃろ? もの言いたげな顔しやがって、ズルいじゃねぇが! 俺の知らないコイツ等のこと、全部教えんか?」
「悪いが溝田さん、医者には守秘義務っつーのがあるんだ。おいそれと口にしちゃいけないんだよ。だから――」
呼吸を合わせたかのように、二人がそろって俺の顔を見た。
「……えっ!?」
「大丈夫だよ、千秋くん。君も知っているだろうが、この人は単純だから。難しく考えないで答えを出す人だからこそ、思いきって教えてやるといい。それに井上さんが溝田さんと培ってきた人間関係があるし、変な対応はしないだろうさ」
「おい周防さん、俺はそんなに単純な人間か? 適当なこと、コイツに教えるんじゃねぇって」
ああ、どうしよう。周防先生の発言に船長さん、若干キレ気味だよ。
「何を突っかかってくるんだ、褒めているというのに」
「その言葉の、どこが褒めているんだっ。バカだと思って、けなしているんだろが!?」
「すみません、ごめんなさいっ!! 俺たち兄弟じゃなくて、本当は恋人同士なんですっ」
(一触即発になりかけたところに、勢いで割って入ってしまった……)
しかも、ふたりして固まっちゃったよ。どうしよう――。
「……あ゛? 兄弟じゃない?」
どこか笑いをかみ殺した顔の周防先生を無視して、船長さんがやっと口を開いてきた。その顔には、ワケが分からないと書いてあるように見える。
「あ、はい……。そう、なんです」
「それってつまり、男色家ってことけ?」
普段耳にしない言葉なれど、ズバリと言い当てられたせいで頷くのがやっとだった。心臓が痛いくらいに、ドキドキしっぱなしだ。
「……そう、か、そうだったのか。どうりでやけに井上のヤツが、おとーとに執着してたワケだ。二言目には「俺の千秋がー」って、自慢ばっかりしとったからな」
「あの、その、今まで騙していて、本当にすみませんでしたっ!」
理由はどうあれ兄弟じゃないのだから、騙した形になる。だから謝らなければ、穂高さんの分まで。
背筋を伸ばして船長さんの顔をしっかり見てから、キッチリ頭を下げた。
「ええがら、ええがら。そんな気を遣うなって。内地で迫害にでも遭って、こっちさ来たのか?」
下げた頭を強引に掴まれ、ぐいっと上げられる。その手荒な行動にビックリしていたら、心配そうな瞳が俺を捉えた。
「……いいえ、そういうのはなかったです。上手く隠していたので」
「だけどよ、辛かったんじゃねぇか? 知り合いや友達にも隠すもんだろよ、そういうのは。親はどうなんじゃ? そういや井上の外人の親父さんは、もしかして知っていたから、こっちさ来たのか!?」
心痛な面持ちで俺を見ながら立て続けに質問され、困り果てて向かい側にいる周防先生を見たら、柔和な笑みを浮かべて俺たちを眺めていた。
ほらな、大丈夫だったろって言ってるみたいだ。
「溝田さん、落ち着かないか。いっぺんに訊ねられたせいで、千秋くんが困っているぞ」
「ぉおぅ、済まねぇな。人のいいお前たちが、辛い目に遭ってきたんじゃねぇかと思ったら、居ても立ってもいられなくなっちまって……」
周防先生に指摘された途端に、しゅんとして俯いてしまう船長さんに、声をかけずにはいられない。
「そんな風に思ってくださって、すごく嬉しいです。普通ならその……気持ち悪がられる類のもの、ですから。俺たちを大切にしている気持ちが、とても伝わってきました」
胸の前に左手を当てながら反対の手で意味なく指輪を弄り、じっと船長さんの顔を見上げたら、どこか困った表情を浮かべる。
「その、よおぅ……。そこに寝っ転がってる井上はドジばっかやって、足を引っ張るヤツだがよ。おめぇはそんなコイツを、献身的に支えてるの見てるがら。気持ち悪いっていうよりも心配が先に出ちまって、口が勝手に喋っちまったというか……。周防さんよ、さっきから俺の顔見てニヤニヤしてんじゃねぇ!」
「はいはい、悪かったって。でもな照れ隠しなのは分かるが、一応ここは病院なんで静かにしてもらえると助かる」
「うっ、済まねぇな」
病室がこんなに騒がしい状態なのに、穂高さんは表情を一切変えずに、眠り続けたままだった。
ベッドの傍にある椅子を引き寄せて座り込み、さっきと同じように左手を両手で握りしめてあげる。
「そんなに心配しなくても大丈夫だ。早く良くなるように、周防スぺシャルを注射しておいたし、それに井上さんはただ者じゃないんだろ?」
「んだんだ! コイツは何があっても、絶対におとーとのトコさ戻るっていう執念を感じたがらよ。インフルエンザにゃ負けんべ!」
おふたりからのエールに、不安な気持ちがなくなっていく。
「ありがとうございます。あの今晩、付き添いしていいでしょうか?」
窺うように訊ねた言葉に、ちょっとだけ渋い表情を浮かべた周防先生。
「千秋くんは、明日も仕事があるんだろ。大丈夫かね?」
「大丈夫です! 穂高さんが目覚めたとき、すぐ傍にいてあげたいんです」
椅子から立ち上がり、頭を下げて頼んでみる。今夜は目覚めないかもしれないけれど、それでも傍にいたいと思ったから。
「こげな風に、おとーとが必死に頼み込んでるんだから、それくらい飲んでやらにゃ、男が廃るんじゃねぇの?」
頭を下げたまま横を向いて船長さんの顔を見ると、さっきのやり取りのお返しと言わんばかりにニヤニヤしていた。
「見くびられたものだな、俺はそこまで器の小さな人間じゃないというのに」
「いんや、小せぇ小せぇ! ついでに肝っ玉もな」
「なっ!?」
「すみませんっ、我儘を言ってしまって!」
一触即発の場面で、またしても言葉を挟む。頼みごとをするのにも、大変な状況だよ。
「とにかく今晩だけだぞ。それ以上の泊まり込みの看病は、絶対に認めんからな!」
OKをもらえたのだけれど、船長さんをしっかりと睨みつけながらだったので、とても小さな声で「ありがとうございます」と言ってしまった。
「俺の分まで、井上のヤツを看病してやってくれ。頼んだぞ」
縮こまった俺の頭をグチャグチャと撫でて、満面の笑みを浮かべている船長さん。周防先生のひと睨みも、何のそのって感じだ。
「やれやれ……。この決着は、引き分けってことになるのか。次の決戦は、来月にある飲み会でやる?」
漂々とした船長さんの態度に諦めたような顔をし、強引に肩を抱き寄せて病室を出て行く。牽制し合っているのにどこか仲の良さそうなふたりの姿に、自然と口角が上がってしまった。
穂高さんと出逢ってから導かれるように、いろんな人と出逢った。その誰もがいい人たちばかりで、まるで幸せのお裾分けをしてもらっているみたいに感じる。
「感謝しても、しきれない気持ちを伝えたいんだから、早く目を覚ましてくださいね」
真ん中分けの前髪から覗くオデコに、そっとくちびるを押し当ててみた。いつもより熱いぬくもりを直で感じて、心配に拍車がかかる。
普段は体温の低い彼だからこそ、この熱は相当辛いだろうな――。
「気がついてあげられなくて、ゴメンね穂高さん……」
ポツリと零して、椅子に腰かけ再び左手を握りしめた。少しでもいいから早く良くなりますようにと、祈らずにはいられなかった。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!