135 / 175
過去への灯火
「……うっ、いたっ!」
きりきり痛む頭を押さえて、横たわっていた場所からゆっくりと身体を起こしてみた。
しっかりと目を見開きながら周りを見渡してみたのだが、そこは真っ暗闇で何も見えない様子がまるで、さっき沈んでしまった海の底のようだった。
(――もしかしてここは、死後の世界なんだろうか)
痛みを伴う頭はそのままに、自分の身体のあちこちを触ってみたけど、生きているときの感触と何ら変わりない状態に、首を傾げるしかない。
恐々とその場から立ち上がって周囲にしっかりと目を凝らしてみたら、光り輝いている丸いものを見つけることができた。
両足を踏みしめて足元が大丈夫なことを確認しつつ、その丸いものに近付いてみる。
よく見てみようと跪き、3センチ大の穴をしげしげと眺めた。光が漏れている様子に、向こう側にある何かが見えるのは一目瞭然だ。
(久しぶりだな、この感じ。会社の情報を得るのにこうやって、こっそりといろんなものを覗き見たっけ……)
そんな昔の自分を思い出しながら、穴に顔を近づけてみた。
どこかの会社の渡り廊下が目の前に展開されていて、それだけじゃなく――。
「あら、どうしたの井上くん。血相を変えた顔で走ったりして」
見覚えのある女性の姿に、一瞬だけ息を飲んだ。そしてその女性の前に焦った様子で駆け寄る、今よりも若い顔の自分がその場にいたことに驚きを隠せない。
(このシチュエーションは、確か――)
顎に手を当てて、眉根を寄せながら下くちびるを噛みしめる。胸の奥底にしまっていた苦い記憶が覗き穴の向こう側にいるふたりのせいで、痛みと共にまざまざと蘇った。
裏の仕事をはじめて、まだ1年と少ししか経っていない頃に彼女と出逢った。すれ違いざまに書類を落とした彼女に、声をかけたのがきっかけだった。
それから顔を合わせるたびに、少しずつ話をするようになった。
派遣社員として半月前に入社したばかりの彼女、安藤美咲さん。
背中まで伸ばしている髪を一つに束ね、眉毛よりもちょっとだけ短く切りそろえられた前髪の下にある、黒縁のメガネが印象的な女性だったな。
半年前から働く俺に近寄ってくる女性は吐いて捨てるほどいたが、彼女からは好意というよりも、母性の方をなんとなく感じ取っていた。年齢が8つ離れているのも理由のひとつだが、彼女の言葉がまるで弟に話しかけるようなセリフばかりだったから。
『なぁに、ぼーっとしてんのよ。ちゃんとしなきゃ!』
『これから営業? ちょっとネクタイ曲がってるじゃない、だらしないわね』
『やーい、暗い顔して残業してんじゃないわよ。差し入れあげるから、頑張りなさいよね』
サバサバしていて裏表のない彼女とのやり取りは、変に気を遣わなくて済む分だけ、居心地のいいものとして俺の中で変化していった。それが好意へと変わることに、そう時間はかからなかった。
しかし自分よりもうんと年下の男が告白しても、きっと一蹴して終えられると考えて、気持ちを必死に隠しながら彼女と接していたある日――次の日が休みだということもあり、部署には誰ひとりとして残業するものがいなかった。
調べ物をするには、まさに好都合。裏で行っている調査という名の仕事を仕上げるために、喜んで残っていた。
「……井上くん」
しんと静まり返った部署に、どこか震えるような声が響いた。
パソコンを使って機密情報をコピーしていた最中だったせいで、声をかけられても直ぐには反応できず、内心焦る俺を尻目にいきなり抱きついてきた彼女。
「あっ、安藤さんどうしたんですか?」
パソコンの画面と彼女の顔をチラチラ見比べながら、上擦った声を出してしまった。いろんな意味で、ドキドキが止まらない。
いつもひとつに束ねられている髪が解かれているせいで雰囲気が違う上に、メガネのない彼女の瞳はどこか潤んだ様子で、俺をじっと見つめてきた。
「……私のことキライ? それともスキ?」
言いながら俺の膝の上に跨ってきた安藤さんの足は、タイトスカートがたくし上がった状態となり、太ももが露わとなっている様子は目のやり場に困ってしまうものだった。
そんな初心な若い自分の姿を垣間見て、失笑するしかない。できることなら声をかけて、この現場を滅茶苦茶にしたい衝動に駆られた。
「井上くん、こっちを見て。ねぇ答えてってば。じゃないと――」
俺の左手を取り、彼女の胸元に触れさせる。
「ちょっ……」
「井上くんにHなコトされましたって、騒いじゃうかも」
「何を言って……」
慌ててその手を引っ込めたが既に遅し。てのひらに残る感触が、その証拠だ。
「分かってよ、私の気持ち。こんな強引なことをしてでも、井上くんの気持ちが知りたいの」
「俺の、気持ち?」
「そうよ。30間近の私が年下のアナタのことを好きなんて、変な話で――」
気がついたら、彼女のくちびるを奪っていた。強引にくちづけながら、ゆっくりと椅子を反転させて、彼女の身体をデスクに押し倒した。
コピーが終了したら自動的にディスクがパソコンから出てくるので、その処理をしなければと咄嗟に考えついた。
そんなことを考えながらも、彼女の想いを噛みしめる。自分を好きだと言った愛しい人を、もっと感じさせたいと思ったんだ。
「んぅっ……。これが、井上くんの気持ち、なの?」
俺の首に両腕を絡ませながらうっとりした顔で訊ねた彼女に、しっかりと頷く俺の表情は、どこか自信に満ち溢れていた。
(――当然か、片想いが成就したんだ。自信過剰になっても仕方がない……)
「あのね、結婚を前提に付き合ってっていうのは、やっぱり重いわよね? 井上くんはもっと遊びたいでしょ? 若いんだし」
「安藤さんが結婚を望むのなら、俺はかまいません。アナタのことが好きだから」
言ってる最中にカシャーンという小さな音とともに、パソコンから排出されたディスク。これを今すぐ、どこかに隠さなければならない。
「いいの? 本当に私でいいの?」
「勿論です。安藤さんじゃなきゃ、俺は嫌です」
彼女の腰に左手を添えつつ、右手をパソコンに伸ばしディスクを手にして、立てかけてあるファイルの上から落とす形で隠してみた。
(自分だけが使うファイルだし大丈夫だろうと高を括ったのが、そもそもの失敗だったんだよな)
彼女の言葉に絆された結果自宅に連れ帰り、そのまま関係を持ってしまった。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!