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過去への灯火2

***  週が明けて月曜になった。隠しておいたディスクを会社から持ち出そうと早朝出勤して、自分のデスクを見た瞬間に違和感を覚えた。物の配置が微妙にずれていたから。  慌ててファイルを抜き取ってパラパラめくってみても、そこからディスクが出てくることはなく――。  あまりにもマズい事態に、親父の会社に行って直接報告しようと駆け出したそのとき、彼女が突然現れて声をかけてきた。 「あら、どうしたの井上くん。血相を変えた顔で走ったりして」  若い自分は目の前の光景に眉根を寄せてじっと見つめてから、それをしっかりと確認すべく傍に駆け寄った。  微笑みながら俺を見る彼女の右手人差し指には、表面が印刷されていない真っ白なディスクが差し込まれていた。 「安藤さん……。その手にしているのは?」  自分が探している物じゃないことを、心の中で必死に祈った。どこにでもあるような物だし、彼女の私物かもしれないと思い込んだり――だがもうひとりの自分が、頭の片隅でせせら笑いながら言ったんだ。 『謀られたね、これは――』  彼女の手からディスクを取り返して、誰の差し金なのかを吐かせなければならないと言ってる冷静な自分を、心の中で抹殺する。  彼女を信じたかった。両想いになったばかりの自分の恋を、どうしても守りたかった。  呆然としたままの俺を見上げて、手にしたディスクをヒラヒラと見せつけながら意味深にニッコリと微笑む彼女の笑顔は、残酷なまでに美しく見えた。 「これは、井上くんが上手く隠したと思っているディスクだよ。あのとき抱きしめられながらも、手に持っていた小さな鏡でアナタの動きを逐一見ていたから」 「そ、んな……」 「他にもアナタの自宅に行ってから、いろいろと調べさせてもらったわ。お互い気持ちよくなってから一緒に飲んだお茶に、一服仕込んでおいたの。それのお蔭で井上くんは、ずーっと眠っていたからね」  言葉がまったく出てこなかった。信じたい気持ちが音を立てて崩れていくさまを、黙って見つめるのが精一杯だった。 (もう、見てはいられない。あのときの痛みを、ふたたび噛みしめることになろうとは――)  俺は覗き穴に背を向けて、両膝をぎゅっと抱え込んだ。  あのとき一瞬で奪われてしまった恋する気持ちと、時間をかけながら苦労して裏で仕入れた情報――何もかもを失って絶望した自分は自宅に帰ってから、部屋の中にあるものを手あたり次第に滅茶苦茶にした。  そんなことをしてもどうにもならないというのに、情けなさすぎる自分が腹立たしくて、悔しくて惨めで……。そしてあまりにも弱かった。 『どうしたんだよ、らしくないねお前』  気がついたら義兄さんが部屋の中にいて、俺の様子をどこか嘲笑うかのように見下ろしていた。  会社から帰宅して、どれくらいの時間が経っていたのだろうか。それすらも分からなかった――きっと連絡がつかないことに業を煮やして、親父が義兄さんを自宅に寄越したんだろう。  まともな思考が残っていたことに内心驚きつつも、軽くため息をついて、力の入らない首をやっとのことで持ち上げながら義兄さんを見上げる。 『盗まれてしまったんだ、資料も気持ちも……』  情けないけど、そう答えるのが精一杯だったっけ。  本当は義兄さんに縋り付いて泣いてしまいたい衝動に駆られたが、意地悪ばかりするこの人には、それは無理な話だと瞬間的に悟ったんだ。  俺の返答に『ぷっ』って鼻で笑って、バカにしたし――。 『どうしたら、盗まれずに済むんだろう?』  居たたまれなくなって俯き、心に深くついてしまった傷を感じながら、そっと口にしてみる。恋愛ごとに得意そうな義兄さんなら、その答えを知っていると思った。 『そんなの簡単でしょ、盗まれる前に捕っちゃえばいいんだからさ。ついでに首輪でも嵌めておけば、完璧だろう』  そうか。盗られる前に奪って、首輪を嵌めればいいのか――首輪……くび、わ。 『っ、……痛っ!』 『ゴメン、痛くしてしまって』  いつものように好きな人を咬む。もう傷つかないように。誰にも捕られないように。愛情を込めて強く、大好きな千秋を咬んだんだ。 『井上さん、思いっきり咬んだでしょ』 『……咬んだ。俺のだっていう印を、どうしても付けたかったから』  ついでに君の心へ、俺のことを忘れないような烙印を強く押してやりたいと思った。それなのに君は俺のことを憎らしそうに睨んで、声を荒げた。 『俺は誰のものにもなりません。勿論、井上さんも含めてです』  潤んだ瞳で告げられた言葉は、十分に心を揺さぶった。こんな風に、ハッキリと拒否されたのは初めてだった。大抵の者は俺が迫ったら嫌がりながらも簡単に落ちていたので、千秋の態度には面食らうものを感じた。   『絶対に、俺のものにする!』  強引すぎるセリフは彼に対してと同時に、自分に言い聞かせる言葉だったのかもしれない。俺を拒否る千秋のことを、もっともっと知りたいと思った。そして――。 「心の底から愛されたかった。愛してみたいと思ったんだ」  ポッと灯った恋の炎を胸の中に感じたら、かたんっと何かが落ちる音が聞こえた。足元に転がってきた光り輝く小さくて丸い玉を手にしたら、突然辺りを明るく照らし出した。  その眩しい光に目を閉じて、暫しの間やり過ごす。 『……穂高さん。穂高、さん』  心配そうな千秋の声に、ゆっくりと目を開けた。てのひらには丸い玉はなく、笹舟をかたどった、千秋への愛の証のエンゲージリングがそこにあった。  ――戻らなければならない、千秋の元へ――  指輪を嵌めて立ち上がると、自分の足元から一本の真っ白い道ができた。それに導かれるように歩き出した途端に、落とし穴に落ちたような感覚が身体を襲う。

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