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過去への灯火3

 その衝撃に驚いてビクッと躰を震わせながら目を開けて辺りを確認したら、うす暗い部屋の天井が飛び込んできた。  さっきまで見ていた映像は夢だったのかとホッとした瞬間、左手を包み込むあたたかさを感じたので顔を上げるとそこには――俺の手を握りしめたまま突っ伏して寝ている、千秋の姿があった。 「う、っ?」  声を出したいのに喉が渇ききっているせいか、上手く出せない。それだけじゃなく、身体に力がまったく入らない。首を動かすだけで精一杯って、どうなっているんだ。 (……ああ、そうか。俺は海で溺れてそれから――あれ、どうやって助かったんだろうか? 船長が網を引き揚げて俺を助けたから、ここにこうして横たわった状態でいるのだろうか)  いろいろ考えを巡らせながら、頭痛をひしひしと感じた。  手荒に引き上げられたときにでも、ぶつけてしまったのだろうか? 溺れた後って、こんなにも身体が重だるいものなのか?  さっきから疑問ばかりが、頭の中でループしてしまう。溺れてからの記憶が、まったくもって思い出せなかった。だが――。 (ちゃんとここに……千秋のもとに戻ってきたんだな)  しっかりと握りしめられた左手に感じる千秋のぬくもりがその証拠で、自分が生きてることを身体に感じるつらさで再確認できた。  千秋、心配かけて済まない。明日だって仕事があるだろうに、こんな格好で付き添わせてしまうなんて。  上手く力の入らない左腕を、ゆるゆると揺さぶってみた。残念ながら僅かな振動にしかならないので、気がついてもらえそうにない。 「ちあ、き……千秋っ、ち――」  情けないことに息も絶え絶えの状態。しかも蚊の鳴くような小さな声しか出せなかったが、ふっと千秋が目を覚ました。  視線をゆっくりと俺の顔に向けるなり、寝ぼけ眼だった顔がみるみるうちに驚きの表情に変わり、声にならない声で話しかけてくる。  音がなくても唇の動きだけで、何を喋ったのかがすぐに分かった。 「…………」 「…………」  千秋の言葉に、声にならない声で俺も返事をする。途端に大きな瞳から、ぽたぽたと大粒の涙を流しはじめた。 「ううっ……ひっ、ひっく……ほらかさ、っ……ぉ、おかっ、お帰りなさいっ!」  ほのかに薄暗い部屋の中、カーテンの隙間から入り込む月明かりが、笑い泣きをしている千秋の顔を照らし出していた。言葉にしなくても伝わった挨拶に、満面の笑みで返してあげる。  本当は手を握り返したり声に出して気持ちを表したいが、今の俺はそれすらもできない。しかもすごく心配かけて、謝ることすらできない駄目な恋人だというのに、涙を流しながら愛おしそうに見つめてくれた。 「良かった。目が覚めなかったら、どうしようかと思っていたんだよ。溺れただけじゃなくて頭もぶつけているから、何かあってもこの強風のせいでドクターヘリも来られないって、それで……」  ひとしきり泣いてから涙に濡れた頬を拭い、擦れた声で心配を口にする千秋。  本当は君の涙を、この手で拭ってあげたいのにな――。 「……千秋」  名前を呼ぶだけでもやっとの俺に、気遣いながらぎゅっと抱きついてきた。何だか、久しぶりの対面を果たしたみたいだ。あたたかい千秋の身体と愛おしい重みに、返ってきたことを改めて痛感する。  昔の夢を見たせいだろうか――つらいことを経験したけど、それもすべて千秋との幸せのためだったのかもしれない。 (こうして深く愛されるために、俺はここにいる)  千秋の首筋に視線を向けた。服に隠れて今は見えないが、俺が付けた咬み痕がしっかりと残されているんだよな。  千秋を愛した俺の痕跡。不器用な俺は君のことを、きちんと愛することができているのだろうか。 「ちあ、き……」  がぶっと服の上から、千秋を咬んでみた。力いっぱい咬みたいのに、甘噛みのような咬み方しかできない。 「穂高さん、どうしたの?」  俺に咬まれたまま、不思議そうに訊ねてきた。 「んっ……はぁはぁ――」  咬むことを止めて力の抜けきった俺をしげしげと見つめる千秋へ、たくさん伝えたいことがあるというのに、肩で息をするのがやっとだった。 「ち、あきっ、お、れは……」 「大丈夫だよ、穂高さん。俺は貴方を見捨てたりしないからね」 「みす、てる?」  ワケが分からずオウム返しをすると、宥めるように頭を撫でてから額にそっと優しいキスを落としてくれた。 「穂高さんがインフルエンザになって具合が悪かったのに、仕事に行かせてごめんなさい。体温が高いことに気づいていながらそのまま漁に行かせちゃうなんて、俺は恋人として最低だなって思ったんだ」  ――インフルエンザを罹っていたのか。それで身体が重くて、自由がきかなかったというワケだったんだな。  千秋の言葉に返事をしたかったが、上手いことが言えそうもないので、首を何度か横に振ってみせた。  それを見て、千秋はふたたび言の葉を告げる。 「俺が診療所に着いたとき「頼むから行かないでくれ。俺を見捨てないでくれ」って、とても苦しそうにうなされていたんだよ。昔のつらい記憶を、夢の中で思い出しているような感じだった。そんな夢を見たから不安になって、ここを咬んだんでしょ?」  肩口を擦りながら心配そうな表情を浮かべて、俺の顔を覗き込んでくる。  千秋、君は俺の過去を知っているのだろうか。 「ど、して……知って?」 「前に教えたことがあったよね。穂高さんと一度別れた後に、藤田さんがコンビニにやって来て、バイトが終わってからいろんな話を教えてもらったこと。穂高さんの初恋の話や、お母さんが亡くなったこともね」  義兄さん、相変わらずやってくれるな――。 「穂高さんが大変なときに支えられなかった分だけ、これから頑張っていかないとなって思ってた。だけど思うだけなら、誰にでもできちゃうんだよね」  しょんぼりする千秋に、首を横に振ってやる。  千秋の頑張りを見ているから――俺を追いかけるために、ここでたくさんの人たちと仲良くなっただけじゃなく、就職まで成し遂げてしまったのだから。 「穂高さん……」 「今、このときは……今しかなくて。二度と、訪れない……もの、だから」  そんな頑張っている彼に対して、俺はちゃんと向き合えていただろうか。一緒にいられるという現実に、どこか甘えがあったんじゃないだろうか。  当たり前の日常は繰り返される――毎日、同じように繰り返されるものだと思っていたが、今日命を落としかけてはじめて、それが当り前じゃないことに気がついた。 「うん、そうだね。今過ごしているこのときを、大事にしないといけない。取り戻すことができないものなんだから。そういうことでしょ?」  補足するように告げてくれた言葉に、首を大きく縦に振る。 (君と過ごしている一瞬一瞬を、大切にしていきたい)  抱きしめられている温もりを感じながら、千秋とベッドで向き合っている幸せなこの時間を忘れないように、胸の中に刻み込んだのだった。

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