140 / 175
急転直下2
***
(想像以上だよ、これは――)
診療所に電話をしてから自転車で真っ直ぐに漁協へ行き、二階にある事務所に足を踏み入れた瞬間、それは目に飛び込んできた。
たくさんの見舞いの品々に、感嘆のため息が漏れてしまうしまうくらいの量だった。
何だかんだ言っても穂高さんってば、漁協のおばちゃんたちに十分愛されているじゃないか――寝込んだ俺宛てに届けられる見舞い品に対して、いちいち嫉妬していた穂高さんの気持ちが、今頃分かってしまってもな。
見舞いの品は食べ物だけじゃなく、綺麗な切り花まである始末。まるで、島のアイドルみたいだ。さすがは、元ホストというべきなのか……。
当然、一度で運べる量じゃないし自転車で来ているので、手提げ袋で持って帰れる物だけまずは運んでしまおうと考えつく。
そして家に一度帰ってそれらを置いた後に、穂高さんの車を借りてここにきて荷物を載せてから、診療所に向かうのが手っ取り早そうだ。
しかしここで問題が発生する。俺、ペーパードライバーだから……。十八歳でとったきり、一度も運転していない状態だった。
(いいや、悩んでいる場合じゃない。どっちみち、歩いて帰らせるわけにはいかないんだし)
両腕に手提げ袋を引っ掛けて自転車を漕いで自宅に向かい、居間に荷物を置いてから穂高さんの車のキーを手に、ドキドキしながら運転席に乗り込んだ。
いつも指定席になってる助手席が恨めしいこと、この上ない。
恐るおそるスイッチを押し、エンジンをスタートさせた。ナビに表示される、インフィニティのロゴとエンブレムをぼんやりと眺める。身体に響いてくる聞き慣れた重低音なのに、自分がエンジンをかけたというだけで、一気に緊張感が増してしまった。
その緊張感を何とかしようとキョロキョロして、改めて運転席周りをチェックしてみた。
オートマチック車だからギアをドライブに入れて、普通に動かせばいいのは分かる。なのにどうしてハンドルに見知らぬスイッチが、こんなにもたくさんついているんだろう?
――よくよく考えたらシートだって革張りだし、電動で座席が前後するところをみると、この車って高級車になるんじゃ……。
(うわぁ、擦ったりしたらどうしよう!?)
ハンドルに付いてるスイッチを触らないように、上の方をぎゅっと握りしめて自分を落ち着かせるべく深呼吸を数回したのちに、ギアをドライブに入れてから、ぐっとアクセルを踏みしめてみた。
ズシャッ!
「ひいっ!!」
思った以上に、勢いよく飛び出した穂高さんの車。教習所で乗った車と何かが違う!
慌ててブレーキを踏み、家の前の道路を塞ぐ形で停車してしまった。
助手席に乗ってるときには感じられなかったキビキビした車の動きに、穂高さん自身を重ねるしかない。どうにも、俺の手には余ってしまう。よく平然とした顔して運転しているな。
だけど泣き言を言ってる場合じゃない。見舞いの品を取りに行ってから、穂高さんを乗せて帰らなきゃならないんだから。
ブレーキから右足を外し、さっきよりも慎重にアクセルを踏んで、真っ直ぐに伸びている道路を突き進んだ。都会と違って車が滅多に通らないので、どんなにノロノロ運転していても、誰にも文句を言わないのがすごく助かってしまう。
すぐさま漁協に辿り着き、息つく暇もなく何回か往復して見舞いの品を後部座席に運び入れ、先ほどの道を北上すべく診療所を目指した。
「む、迎えに来ました……」
数分後、やっとのことで辿り着いた俺を、周防先生の奥さんが出迎えてくれたんだけど、穂高さんと一緒に夕飯までご馳走になってしまったので、一時間近くお邪魔したんだ。
「マスクとうがい手洗いを、絶対に忘れるんじゃないぞ!」
夕食後お暇しようと挨拶した俺に、しつこく念押ししてきた周防先生。診療所から出発した車が見えなくなるまで、丁寧に見送ってくれた。ものすごいノロノロ運転の車だというのに――。
自分の運転や夕飯まで戴いてしまったことなど、いろいろと申し訳なく思っていたら。
「千秋、もっと肩の力を抜いてごらん」
「へっ!? 肩?」
「そう。それにハンドルを握りしめてるその両手も、もっと力を抜くといい。無駄な力を入れてると、咄嗟のときにハンドルが切れなくなるからね」
む、難しいことを注文してきたな。
言われた通りに力を抜こうとしたんだけど、ちょっとだけしか抜くことができなかった。
「その調子、いい感じになったね」
「ほ、本当?」
運転していると会話に集中できなくて、短い返事をするのが精一杯だ。
「ん……。ペーパードライバーなのに、俺のために運転してくれて嬉しいよ千秋。ありがとう」
ヘッドライトに照らされる道路を見据えて、ちょっとだけアクセルを踏みしめてみた。少しでも早く、穂高さんをベッドに寝かせてあげたいと思ったから。
法定速度以下だけどエンジンの音が身体に響いてきて、ちょっとだけ運転が楽しくなる。
「どう、いたしまして……」
ううっ、頑張った甲斐があった。労いの言葉を聞いただけで、涙が滲みそう。
感動もひとしおの中、右手前に自宅が見えてきた。今まではUターンしてやり過ごしていたけど元に戻すべく、きちんと車庫入れしなきゃ駄目だよね。
「千秋、ハンドルから手を放してくれ。それとアクセルをちょっとだけ緩めて」
「はいっ!」
パッと手を退けたら、穂高さんの右手が素早くハンドルを握り、鋭い視線で周囲を確認した。ああ、カッコイイ――。
見惚れている間に、玄関前にちょっとだけ車の角度をつける。
「ブレーキを踏んで、リバース」
その言葉に、慌ててブレーキを踏んだけれど。
「り、リバース? ……ってバックか!」
「車はギアを逆回転することで後ろに下がるから、逆回転という意味のリバースを使うんだよ。それで表示もRになってるワケ」
教習所で、習ったような習っていないような。
ちょっとだけオロオロしながら、ギアをリバースに入れた。
「さっきと同じように足首を使って、柔らかくアクセルを踏んでみてくれ。そう……いい感じ」
車載モニターがあるのにルームミラーとサイドミラーを見ながら、くるくるとハンドルを切り、綺麗な弧を描いて車庫入れをしていく。
「はい、ブレーキ。お疲れ様、千秋。よくできました」
ブレーキを踏んだ俺の足を確かめてから自らギアをパーキングに入れて、魅惑的に微笑みながら頭を撫でてくれた。
「何だか、共同作業みたいでしたね。お疲れ様でした穂高さん」
褒められたのがくすぐったくて俯きながら告げてしまった言葉に、頭にあった手が顎に添えられて上向かせられる。いつもは冷たいはずの穂高さんの手から、じわりと熱を感じた。
きっとまだ、微熱があるんだろう。
「早く家に入って、汗を流してから横にならなきゃ。ね、穂高さ――」
心配になって視線を合わせたら、港にある街灯の反射で煌く闇色の瞳が俺を射すくめた。熱で潤んでいるのか、いつもより煽情的に見えるそれに胸が高鳴ってしまって言葉が出ない。
「千秋……」
シートベルトをものともせずに、穂高さんの顔が近づいてきた。くちびるが触れる前に、そっと瞳を閉じる。
「…………」
……あれ――どうしてやってこないんだ? いつもなら間を置かずにやってくるはずなのに。
それを不審に思って目を開けたら、眉根を寄せて押し黙ったままの顔がすぐ傍にあった。
「頑張った千秋にご褒美をあげたいのだが、五日間は絶対に手を出すなと、しつこく言われたことを思い出してしまったんだ。これ以外に、千秋を褒める術がないのが情けないというか……」
手を出すなと言いつけられているのに、空いた手がスラックスからワイシャツを強引に引き出そうとしているのに気がついた。
「ちょっ、待って! 俺は言葉で褒められただけで十分ですから。ダメですよ、周防先生に言われたんでしょ。この手は何をしているんですか!?」
穂高さんの動きを阻止すべく、慌ててその手を握りしめる。
「あれ、何をやっているんだ俺は。きっと、インフルエンザがそうさせているに違いない、うん」
俺によって阻止されている手を小首を傾げてしげしげと眺めたと思ったら、またしても手を出してくる穂高さん。シートベルトで動けない俺の身体を、ぎゅっと抱きしめてきた。
「もう!! ダメですって」
両手で必死に押しのけようとしても、ビクともしない。熱のある病人とは思えないよ。
「分かってる。これで我慢するから……。五日分の抱擁をしているだけ」
こんな風に告げられてしまうと無下にできなくて、大きな背中に両腕を回しながら、よしよししてあげたのだった。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!