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急転直下10

「ううん、大丈夫です。ちゃんと仕事をしていますから」    笑いを堪えながら告げると、うーんと伸びをするような声を出してから小さく笑う。 「じゃあ寂しくなって、電話してくれたのだろうか?」  ちょっとだけ緊張している俺を慮って冗談を言ってしまう恋人に、ちゃんと告げることができるだろうか。 「……あのね、穂高さん。ついさっき職場に、お父さんから電話が着たんだ」 「お父さんから?」  それまで漂わせていた雰囲気が、声色とともに変わっていく。 「午前の便のフェリーに乗ってるみたいで、直ぐに帰るから顔を出さなくていいって言われてしまって……。でも今日は俺、どうしても仕事が抜けられないんです」 「顔を出さなくていいなんて、随分と寂しいことを言ったものだね。本当は逢いたいだろうに」 「穂高さん……」  俺の居場所を穂高さんが実家に置いてくれたお蔭で、お父さんがここに来ることができた。わざわざ顔を出す理由は何にせよ、素直に嬉しいって思う。 「義理の息子になる俺が、千秋の分までお父さんの相手をしてみせるよ。全力でお相手して上手いこと滞在時間を引き伸ばせたら、お泊りさせることが可能かもしれないな」  どこかワクワクした声に、思わず吹き出してしまった。緊急事態だというのに、どうしてこんなに楽しげなんだろう。  電話で姿が見えないというのに、大人の余裕というか逆境への強さというか、そんなものが伝わってきた。すると俺の中にあった不安だった気持ちが、見る間に和らいでいく。 「穂高さんの話術で、引き伸ばすことができるんですか?」 「ん……、それなりに経験を積んでいるからね。それに千秋も、お父さんに逢いたいだろう?」  本当の親子じゃないことが分かってから、はじめて逢うことになる。正直、どんな顔をすればいいのか分からないけれど。 「逢いたいです!」  顔を突き合わせて、ちゃんと言いたいと思った。今まで育ててくれてありがとうっていう、感謝の言葉を――。 「それじゃあ決まりだな。こうしちゃいられない、ちゃんと顔を洗って正装しなければ」  ベッドの軋む音が受話器から聞こえてきた。本来なら夜の仕事に向けて、寝ていなければならないのに。 「ごめんなさい。睡眠をとらなきゃ駄目なのに……」 「いや、大丈夫だ。お父さんが来るという理由で、今夜の仕事はオフにしてもらう。晩ご飯、何を用意したらいいだろうか」  俺の心配をあっさりと交わし、次の話題に移っていく穂高さん。言い出したら全然いうことを聞かない彼を何とかするのは、お父さんでも難儀することだろう。 「……正装ってホストみたいな格好は、絶対に駄目ですからね」  お客様相手に話術を展開させていた穂高さんだからこそ、うっかりとそんな格好をしそうで思わず注意を促してみた。 「千秋に有効だから、お父さんでもイケるかと思ったのだが。やっぱりダメか」  穂高さんの冗談なのか本気なのか分からない台詞に、ぴきんと固まるしかない。そんな無鉄砲な恋人をどうやって説得しようか考えこんでいたら、頬を優しく撫でるように吹き抜けていく海風で気がついた――。  お父さんも今頃、同じものを感じているんだなと思ったら、無性に嬉しくなってしまった。 「何はともあれ、よろしくお願いします。穂高さん、頼りにしています」  笑いながら手短に言い放って、通話を切った。  結局、心配は無用――だって俺の恋人は、どんな困難でも乗り越えてくれると信じているから。

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