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Final Stage 第4章:長い夜4

***  どうしてだろう、肩口がすごく熱い。しかも痛みがどんどん増していってる。  聞き覚えのある声が直ぐ傍で聞こえたのに、瞬く間にその人の気配が掻き消えたと思ったら、左肩に違和感を覚えた。鈍痛じゃなく、まるで咬まれてるような痛さ。この感じ、前にも体験したことがある気がする。そう、あれは――。 『ゴメン、痛くしてしまって』 「井上さん、思いっきり咬んだでしょ」 『……咬んだ。俺のだっていう印を、どうしても付けたかったから』  店員と客という間柄だったのにも関わらず、いきなり咬みついてきた変な人がいたな。俺は誰のものにもならないと言ってるのに、闇色をした瞳に強い光をまとわせ、絶対に俺のものにすると豪語されたんだ。  何て勝手な人だと内心は腹を立ててしまったけれど、それとは裏腹に惹かれずにはいられなかったっけ。  自分が持っていない大人の雰囲気や胸に響くような低い声色が、否応なしに心を揺さぶってきて、気がついたら好きになっていた――抱かれてからは、もっともっと好きになってしまった。 「ほ……だか、さ――ぃ、たい、よ」  ――俺の最愛の人、井上穂高。かけがえのない唯一無二の存在―― 「千秋っ、千秋、気がついたのかい!?」 「ぁ……れ?」  声を出したいのに上手く出せない。自分の躰なのに、コントロールができないとか情けないな。 「千秋……ちあ、きっ…戻って来てくれて、ありが、うっ……ううっ」  目の前にいる穂高さんが、両目から涙を溢して泣き出してしまった。その涙を拭いたいのに手を動かすことができないなんて、ダメな恋人だな俺は。 「泣かな、ぃで。穂高さん……」  戻って来てくれてって、一体どこから? 俺ってどこかに行ってたのかな? それにどうして島にいるハズの穂高さんが、俺の部屋にいるんだろう? まるで夢を見ているみたいだ。  ……まるで、夢を見ているみたい?  次の瞬間、俺の頬に穂高さんが流した涙がぽとりと落ちてきた。その感触に、これは夢じゃないって分かったのだけれど。  ――俺は何で大事な人を、こんな風に泣かせてしまったんだっけ? 『もう誰にも邪魔されない、俺だけのモノにしてあげるよアキさん』  考え込んでいると、竜馬くんの声が不意に頭の中に響いた。今まで聞いたことのない彼の声色に、躰が自然と竦んでブルブルと震えてくる。  そうだ、俺は――。 「千秋?」  頬を涙で濡らしたままの穂高さんが俺の異変に気がつき、顔を近づけて覗き込んでくれたのだけど、近づいてくるその顔がいきなり竜馬くんに変わった。 「あぁ……や、やめ……い、ぃやだっ!」  夢の中の出来事であってほしいと強く願っていたものが、脳裏で鮮やかによぎった。――俺は竜馬くんに……。 『恥ずかしがることないよ、こんなになってるんだし。もっと声、出して』 「ぅわあぁ! もうイヤだ……やめっ」 「千秋っ!! 大丈夫、大丈夫だから。もう彼はいない。俺が傍にいる」  暴れかけた俺の両腕を掴んでから、上半身をぎゅっと抱きしめられる。痛いくらいに力強く、息ができないくらいに。 「あ、はぁはぁ、ほ……穂高、さんっ?」 「安心してくれ……もう大丈夫だ。俺がいる、俺が千秋を守るから」  ――ああ、この人は穂高さんだった。  鼻腔をくすぐる懐かしい香り。そして俺の大好きな心の中に響いてくる低い声と、熱いくらいの体温すべてが穂高さんだと証明していて、ふっと体の力が抜け落ちていった。 「……穂高さん、ごめんね。俺、竜馬くんに――」 「いいんだ。謝らなくていいから、千秋は悪くない」 「でも……」  竜馬くんに自ら隙を与えたせいで襲われた挙句に感じさせられ、あられもない声をあげてイカされちゃった俺なんて、もう――。 「愛してる、千秋」 「だって俺は――」  ――穂高さんに愛される資格なんて、ないんじゃないの? 「千秋は俺のこと、愛してる?」  慈愛に満ち溢れた視線が、俺をしっかりと捉えた。  愛してるって言ってあげたいのに、今の俺はそれを言ってはいけない気がして、どうしても口にすることができずに、顔を背けるしかない。 「千秋に愛される資格、俺にはないのかもな。助けを求めていた電話に、あえて出なかったのだからね」 「電話に出なかった?」 「ん……。君をまた傷つけるかもしれないと思ったら、躊躇してしまってね。情けない話なのだが、嫌われたくなかったから」 「穂高さん……」  だってそれは俺も同じなんだ。大好きな貴方に嫌われたくなくて、ずっと竜馬くんのことを言えなかった。藤田さん経由でそれを知られたときは、ぞわっと肝が冷えてしまった。  それだけじゃなく、今回は彼に躰を許してしまったのだ……。 「穂高さんに嫌われるのは、俺じゃないのかな。電話に出ないことよりも、最低だって思うよ」 「最低じゃないっ! この事態を招いた原因を作ったのはこの俺だ、俺を責めてくれ! そんな風に自分を責めないで欲しい、頼むから……」  俺の躰を更にぎゅっと抱きしめながら肩口に額を当てて、震える声で告げる穂高さんの言葉が胸に突き刺さる。 「責めないでと言われても、取り返しのつかないことをしてしまったのは事実だよ。大好きな穂高さんを、俺は傷つけてしまった」  呟くように言うと、無言で首を横に振る。何度も何度も――。 「俺よりも……千秋が傷ついてるじゃないか。何もかも自分のせいにして、自ら傷を増やしてる。傷ついていく君を、俺はどうすればいいのだろうか?」 「どうすればって……。こんな俺、面倒くさいでしょ。嫌いになったでしょ?」 「嫌いになんてならない。愛してるって言ったじゃないか」  鼻をズルズルすすりながら、触れるだけのキスをしてくれた。それは今までにしてくれたキスの中で、一番優しいものに感じることができた。  穂高さんのくちびるのあたたかさがじわりと自分のくちびるに伝わり、冷え切っていた心をどんどん解してくれる。 「んっ……ほ、だかさ……ん、好きでいて、いいの?」  ――他の人に躰を許してしまった俺は、貴方を好きでいていいのかな?  涙を流しはじめた俺に、角度を変えて柔らかいくちびるを何度も押し付ける穂高さん。太い血管に、あたたかい血が廻っていく感じが伝わってくるよ。心だけじゃなく、躰もどんどん温まっていく。 「好きなんて感情じゃ足りない、よ。愛してくれ、千秋」 「穂高さん……愛してる、俺は、穂高さんを愛して」 「千秋っ、愛してる。何があっても、君をずっと愛し続けるから」  躰が温まったお蔭で、腕を動かすことができそうだ。ゆっくりだけど確実に、両腕を穂高さんの広い背中に回してあげた。 「穂高さん、どうして震えてるの? 俺も同じように愛し続けるよ?」  くちびるを重ねたときは分からなかった、穂高さんの躰の震え。小刻みに震える背中を何とかしたくて、優しく撫でさする。 「……ただ嬉しくて。千秋に愛されてるって感じることができただけで、涙が流れてしまってね。さっきまでの君は意識が飛んでいて、話をしかけても無反応だった。だから荒療治な戻し方をしたんだが、きちんと戻ってきてくれただけじゃなく、俺を愛し続けるって……、言って、くれて。ありがとう、千秋」  そうか、現実を受け止められなかった俺は、意識をどこかに飛ばしていたんだ――。 「きっと穂高さんだから、戻ることができたんだね。こちらこそ、ありがとう」  背中を撫でさすっていた両手を使って、穂高さんの頬を包み込んであげた。目に溜まっている涙を、指先でそっと拭う。だけど拭ってるそばから、どんどん涙が零れ落ちていった。 「こんなに大泣きしてる穂高さん、初めて見るかも」 「……俺が泣いていたら、千秋は慰めなければならないから、泣くことができないだろう?」 「それって、悲しくても泣けないじゃないか」 「君にはなるべく、笑っていてほしいんだ。ずっと傍で笑っていてくれ」  両手で包み込んでいる顔が突然自分に近づいてきて、奪うようなキスをした。傍から見たら俺が引き寄せたみたいに見えるだろうけど、やっとお互いに素直になって、和やかになりかけたところで、こんな激しいキスをするなんて。  ――どこで、穂高さんのスイッチが入ってしまったんだろう? 「とりあえずシャワーでも浴びて、さっぱりした方がいいだろうか?」  ひとしきりのキスの後、切なげに瞳を揺らしながら訊ねてくれた言葉に、思わず眉根を寄せてしまった。  貪るようなキスの前なら、その質問にそうだねって答えていたと思う。しかしながらキスだけで煽られてしまった躰は、残念なくらいに穂高さんを求めていた。  身体の奥の奥が疼いてしまって、しょうがない状態だ――。  だけど嫌だよね。他の人が抱いた後に、直ぐに抱いてくれって言われても、普通なら躊躇するだろうな。 「あの、穂高さん……」 「ん……?」  着ていたトレーナーを脱ぎ捨て、中に着ていたTシャツに手をかけながら、顔だけで振り返る。少しだけ見え隠れする、背中から腰にかけてのラインがすごく艶かしくて、ムダにどぎまぎした。  久しぶりに見る恋人の半裸に、ムラムラしちゃうとか何やってんだよ。  頬に熱を感じ、それを悟られたくなくて布団を鼻先まで引き上げる。そんな俺に異変を感じたのか、脱ぎかけたTシャツを元に戻して駆け寄った穂高さん。 「あ……」  折角の半裸が――。 「どうしたんだい、千秋? 具合でも悪くなったとか?」  心配そうな表情を浮かべる穂高さんに、ムラムラしてることを非常に言いにくいぞ。  ――どうする、俺!? 「あー……その、えっと」  言い淀んでいたら鼻先まで引き上げていた布団を、いきなり力任せに引き下げられてしまった。 「わっ!?」 「すごく顔が赤い。もしかして今までのショックで、熱が出てしまったのかもしれないね」  形のいい眉毛をぎゅっと寄せて、引き下げた布団を優しく元に戻そうとしてくれる。慌ててその手を掴んで動きを止めつつ、反対の手で穂高さんのTシャツの裾をぐいっと掴んだ。 「違うんだ、そうじゃなくって。具合は悪くない、全然……」  俺の俊敏な行動に、目を見張りながら小首を傾げる。  謎に思うのは当然だろう。さっきから変なことばかり、言ったりやったりしているし。 「あの、ね……穂高さんが欲しくて。すごく……だけどあんなことがあった後だから、その……俺とするの、嫌かもしれないって思ったら、言い出しにくくて。うー」  言った途端にTシャツを掴んでいた手を、強引に外されてしまった。  その冷たい態度に恐るおそる視線を上げたら、微妙な表情を浮かべた穂高さんの顔があった。 「ぅ……」  明らかにピリピリした雰囲気が伝わり、息を飲むしかない。  怒るのは当然だよ。他の男に感じさせられ、その熱を引きずったままでいるせいなのかよく分からないけど、それを何とかしたくて欲しいという言葉で強請ってしまったのだから。

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