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残り火本編第一章 火種5

***  いつ来るであろう――  どんな顔して接客をすればいいか。そんな不安を抱えながら仕事をしていた。  店のドアが開くと、それを知らせる音が鳴るシステムになっている。その音を聞くたびに、緊張感が一気に高まって、胸をドキドキさせていた。 「い、いらっしゃいませ!」  声もどこか硬くなってしまう。意識しすぎだ……  頭を振って仕事に集中しても、ドアが開くたびに身体が反応してしまった。散々翻弄された結果、バイトが終わる頃には疲労困憊状態になってる始末に、苦笑いするしかない。 「……現れなかったという事は、諦めてくれたって事。なのか?」  この日、井上さんは現れなかった。自分としては、助かったというべきなのかもしれないけれど。正直、本人が来ていないのに勝手に翻弄された俺ってバカみたい。  そんなことを考えながら、ゆっくりと自宅アパートに辿り着く。その日は悪夢を見ずに、いつも通り寝ることが出来た。しかし――  次の日も井上さんが現れなかったのである。これは本当に嬉しい展開だ。  昨日よりはビクビクせずに仕事が出来たのは、やっぱり睡眠のお陰だろうな。質のいい睡眠は大事なものだから。  来たら来たで、いつも通りすればいいやと腹をくくったら、すんなりと仕事が出来た。もう車に乗ることもないし(つか、ありえない!)  店の中ではお客様だけど、一歩外に出ちゃえば出ちゃえば変質者になる。襲われそうに なったら声を上げてやればいい! 助けを求めれば何とかなるだろう。  そんな気合を入れて仕事をしていたのに、結局現れなかった。何だか、肩透かしを食らってしまったかもしれない――  バイトの時間も、あと五分足らず。ホッとしながらレジの傍で、書き物をしていた時だった。 「こんばんは、千秋……」  深い闇から聞こえるような声と言えばいいのか。はたまた、あの世からのお迎えに呼ばれるような声と言えばいいのか。とても低い声が、俺の耳に聞こえてしまった。 (――しまった、油断した。ドアの開閉の音、聞き逃したのかもしれない。来ないだろうと、高をくくったのがまずかった)  恐るおそる顔を上げて、声の主を確認する。 「いらっしゃいませ……」 「忙しいところ悪いね。いつもの」 「はいっ! ただいま、ご用意いたしますっ」  いつも以上に俊敏に動き、煙草を手に取ってテキパキとレジに金額を打ち込んで、ニッコリと笑った。多分、かなぁり引きつった笑顔だと思う。……なのに。 「今日もいい笑顔してる。逢えてよかった」  こんな作り笑いを、心底嬉しそうに眺めてくれた。 「あ、ありがとう、ございます……」  お金を手のひらで受け取る。いつも通り冷たい指先。――あの時の燃えるような熱を感じられなかった。 「……昨日は来られなくてゴメン」  レジに打ち込んでいる最中、不意に話しかけられる。  視線を井上さんに移すと、寂しげな表情を浮かべていた。 「外勤から内勤に変わって、引継ぎが忙しくてね。煙草はここでしか買わないと決めていたから、結構辛かったよ。それよりも――」 「はい?」 「君に逢えなかった方が、何倍も辛かった。逢いたかったよ千秋」  嬉しさを噛みしめるような艶っぽい声で言われてしまい、どうしていいか分からなくて、視線を逸らしながら、あたふたするしかない。 「そんなこと言われても、こ、困ります。はい、これお釣りです」  お釣りを渡す手が明らかに震えていた。その手をぎゅっと握りしめられる。まるで捕まえたと言わんばかりの握力で。 「千秋……」  掴まれた手を、痛いくらいに握りしめられた。そこから伝わってくる熱。――さっきまで冷たかったのに、すごく熱い。  誰もいない店内。声を上げても誰も助けに来てはくれない。 「や……」  やめて下さいと口を開きかけたら、 「外で待ってる……」  俺の言葉を止めるように、すかさず言ってきて、身を翻した井上さん。入れ替わるように入ってきた、次のバイトの人が俺を不思議そうに見る。 「お疲れ様です、どうしたんですか?」  レジ前に腕を伸ばしたまま固まってる俺を見て、首を傾げられてしまった。 「やっ、何でもないよ。お疲れ様でした」  しっかり頭を下げてから、事務所に向かって逃げるように走る。 掴まれた右手が熱いまま――それを何とかしたくて、ぎゅっと握りしめた。

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