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第二章 籠の鳥

 誰もいない職場でアテもなく、ただ数字を追っている自分。  不正を隠そうとすればするほどに嘘を重ねる如く、無駄に書類という名の嘘が膨大に増えていく。そんな嘘を見抜き、右から左へ移動させ、手早く処理して急いで仕事を進めた。 「時間……。ああ、もう千秋が帰る頃か。連絡するのを忘れてしまった」  夢中になるとそれに集中してしまい、約束事をつい忘れてしまう。今まで約束事なんて、些細なものだったから。  だけど、千秋と交わした約束は違う。仕事よりも自分よりも、大事な物なんだ。千秋のことを考えると心の中に、ぽっと燃えるような、あたたかい火を感じた。  殺伐とした、目の前に山積みとなっている無機質な書類を目にしながら、傍らに置いてあるスマホに手を伸ばしたときだった。反対側にあった電話が、いきなり音をたてる。  俺がこの時間、職場にいることを知っている人物が、かけてきたに違いない――  口元に、無意味に湛えてしまった笑みを、ぎゅっと噛みしめながら、心の中に点った火も、無理矢理に消し去る。 「もしもし、親父……」  電話の向こう側から、ひしひしと伝わってくる声は、ひどく疲弊していて、この先の自分の未来が、どうなってしまうのかが、容易に想像つくものだった。 (――またか……) 「俺の株を合わせても、ヤバい状況なんだな。ん……、わかった。早急に、義兄さんに掛け合ってみるよ。多分、快く貸してくれるだろうから、それを使って買い占めて――」  副社長一派による下克上。ライバル社と提携して、自社の株をコッソリと横流しし、合併させる算段。その暁に、自分が社長にでもなるつもりか。 「株主総会までまだ時間がある、大丈夫。それにまだ三十八%だろ、ん……。早めに、気がついて良かった。五十いってたら、どんなに足掻いても駄目だろうし」  ――会社のために、俺がなすべきこと。親父が安泰に、仕事の出来る環境でいられるように、どんなことをしてでも、ひたすら最善を尽くす。心の中を無にして、何も感じないように……  会社が安泰ならば、安心してお袋をそこにいさせることが出来るから。 「それと、ここの会社の粉飾。調べが途中だけど、それでも相当なものだったよ。詳しい数字が分かったら知らせるから。ん……、睨んだ通りだった。バッサリ切るからその方向で、代わりを見繕ってほしい」  たとえ、何百の会社員とその家族が路頭に迷っても、自社が安泰ならそれでいい。自分さえ良ければ、それでいいと思っていたのに――  受話器を置いて、書類の山に顔を埋める。 「千秋……」  君が本当の俺の姿を知ったら、きっと嫌いになってしまうかもしれない。そう考えるだけで、胸がしくしくと痛むんだ。何も感じないようにしていたはずだったのに。  痛む胸を抱えながら、ゆっくりと立ち上がり、調査している痕跡を残さないよう、細心の注意を払いながら、後片付けをして職場をあとにした。  迷うことなく向かった先は、千秋の家――  千秋を心の中で想うと、強くなってる自分とどこか弱くなった自分を、ひしひしと感じた。そんな微妙な気持ちを抱えたまま、インターフォンを押す。連絡をいれなかった俺を、怒ってはいないだろうか。  間をおいて開く扉から、ひょっこりと顔を出す千秋を、とても愛おしいと思いながら見つめた。 「……穂高さんっ」  不安で揺れる、情けない俺の姿なのに、逢えて嬉しいという表情をありありと浮かべるなんて。  その無邪気な顔を見ただけで、何もかもが、どうでもよくなる―― 「穂高さん?」  小首を傾げて俺に視線を合わせ、一気に表情を曇らせた。 「とにかく、中に入って。さぁどうぞ!」  腕を掴んだと思ったら、強引に俺の背中を押して、部屋の中に誘ってくれる。 「……穂高さん良かった、逢えて。病気になって、倒れていたらどうしようかなって、心配したから」  いらない心配をさせてしまった自分の態度に、ほとほと嫌気が差す。  千秋の言葉に、両拳をぎゅっと握りしめた。 「悪かった、連絡疎かにして……」  覗き込むようにして見つめる視線とぶつかった瞬間、一気に身体の力が抜けて、膝が折れてしまう。目の前にある千秋の身体に、ぎゅっとしがみついた。 「……千秋。……ち、あき」  君のぬくもりが心地いい。――君の香りが、俺の荒んだ心を和ませてくれる。 「何か辛いことでもあったんですか? 大丈夫?」  気遣うように訊ねながら、右手で優しく、ゆっくりと頭を撫でていく。 「……一緒に暮らしたい。ずっと傍にいたい。君の優しさに包まれていたい……」  縋りついた身体から伝わる、君のぬくもりのせいで、今は言ってはいけないであろう言葉が、自然と口から出てしまった。  だって間違いなく、困らせてしまう種類の言葉だ。 自分の言ったことで、遠くなりかけてる千秋の心を引きとめるべく、その細い身体をもっと抱き寄せて、掴んでいる腕に力を入れた。 「あの、穂高さん。一緒に暮らしたいのはやまやまなんですけど、俺が卒業するまで待てませんかね。それまでは時間が許す限り、なるべく一緒にいてあげますから」  この短時間でいろいろ考えて、俺が納得するようなことを言ってくれたのは分かる。だが―― 「……俺は今すぐにでも、君と暮らしたい」  夢物語に、付き合ってはくれないだろうか? 「それは、俺も一緒にいたいですよ。だけど……」  一緒にいたい、か。これだけでも充分なのに、どうしてだろう。ワガママなくらい、もっと求めてしまう。 「分かってる。現実、愛だけでは生活できないからね」  自分の置かれた状況を口にすると、途端に心が醒めていく。千秋……、君に酔いしれていたいというのに。  身体に回している腕の力を抜いて、千秋が着ているトレーナーを跪くように指示すべく、上下に引っ張った。導かれるように膝をついた身体を、ぎゅっと抱きしめる。 「ね、……何か、困ってることでもあるんですか? 悩んでいることとか」  心配そうな声が耳に聞こえているというのに、頭の中は素早く電卓を叩いていた。今回の俺は、どれくらいの勢いで、稼がなければならないのか―― 「ううん……。優しい千秋の傍にいたいだけ。一緒に暮らすには、まずお金が必要だね。今の俺の稼ぎじゃ、新しい所に住むには足りない……」 「穂高、さん?」  無機質な声で答えてしまったせいで、またいらない心配をさせてしまい、はっと我に返る。 「家の敷金に礼金、まとまったお金が必要だ。何も考えずに全部、煙に消えてしまっていたから」  苦笑いをしながら、煙草を吸う仕草をした。本当は稼いだお金は余すことなく、親父に渡している状態。――残念ながら貯金すらない。  だが今回は自分のために、プラスアルファで稼がなければならないね。君と一緒にいたいから。そのためにちょっとだけ俺の真実を、明かさなければならないのは、胸が苦しい。それは、汚い自分を晒すことになるから。 「俺ね、今の仕事をする前、実はホストをしたことがあって」 「ホストっ!?」  目を見開き、ビックリした声をあげた千秋の頭を、ゆっくりと撫でた。 (予想通りの反応、だな――) 「ん……。親父に会社を叩き出されて、一文無しで困り果てた時に友人が、声をかけてくれてね。身体ひとつで出来る仕事だからって。住む場所も洋服も提供してくれる上に、短期間で随分、稼がせてもらった」 「…………」  真実に嘘を、上手い具合に混ぜ合わせる。 「軽蔑、した?」  掠れた声で告げて、触れるだけのキスをしてみる。千秋の顔を覗き込んで目を合わせると、視線を伏せてから、力なく首を横に振った姿に、落胆を隠せなかった。 「軽蔑はしませんけど。……またホスト、やろうとしてます?」 「ん……。千秋と一緒に暮らしたいから」  俺の言葉に眉間にシワを寄せると、面白くなさそうに、くちびるをを尖らせる。  当然の態度だよな。だけどこれしか俺は、金を稼ぐ術を知らないんだ、ゴメン……。  ふてくされた千秋の柔らかい頬を摘んで、引っ張ってみる。――機嫌、直してくれないかな。 「お金がある程度貯まったら、直ぐに辞める。それまで千秋には、寂しい思いをさせてしまうが――」  離れてしまった心の距離を埋めるべく、ゆっくりとその身体を床に押し倒した。 「君と一緒にいるために、俺は頑張るから……」  不満げな顔を見やりながら、くちびるを重ねる。何度も触れるだけのキスをしてから、上体を起こして着ているコートとスーツを、その場に脱ぎ捨てた。  手早くネクタイを解き、目隠しすべく千秋に縛り付ける。 「えっ!? 何でっ!?」 「……ちょっとの間、これで我慢してくれ。気づいているんだろ? 俺がいつもの俺じゃないのを」  慌てふためいていた千秋が、一気に大人しくなった。 「うん……。何て表現したらいいか分からないけど、どことなく落ち込んでる顔してるなって」 「そんな顔、君に見せたくないから。元に戻るまで、そのままでいてくれないか?」  言い終えてから、千秋のくちびるを舌を使って、すーっと横になぞってみる。 「うぅ、っ……」  頬がキレイな、薄紅色に染まっていった。 「イヤなことはしない、から。……ね?」  その頬にそっとキスを落としたら、身をよじって、甘い吐息を漏らした。 「穂高さんっ。……その、息がくすぐったい、です」 「くすぐったいだけかい?」  震える声で告げられた苦情を、薄く笑いながら聞いてあげると、両手を伸ばして、俺の頭をやわやわと掴んできた。 「気にしないで、穂高さんっ」  俺の言葉の返答にしては可笑しい、千秋の言葉に、首を傾げるしかない。 「あのね、俺は今まで穂高さんのことを、ずっと見てきたから……。風邪引いて寝込んだり、これからってときにお腹を鳴らしたり。だから、その……。無理しなくていいから」  掴んでる頭を胸元に引き寄せたと思ったら、優しく撫で擦ってくれた。何度も――  千秋の鼓動、すごく早い。心地いい早さだよ、今の俺にとっては。言葉と一緒に優しさが、じわりと伝わってくる。 「千秋……。ありがと」  千秋の胸の上でしっかりお礼を言うと、頭を撫でていた手を移動させ、両手の指先が俺の表情を確かめるように、顔の上をなぞっていく。そのせいで、分かってしまっただろう。 「あっ……」 「悪いが目隠し、外せない。泣いてる顔、見られたくはないからね」  指先が目頭に触れた瞬間、溜まっている涙が、すーっと流れ落ちていった。それを優しく拭ってくれる千秋の手が、とてもあたたかく感じてしまって尚更、涙が滲んでしまう。  人のあたたかさって、こんなにも心地いいものだったんだろうか。――感情を持つと、己の足元が崩れる。情に流されて判断ミスをすれば、地を這いつくばることに繋がるのだから。  そう教えられてきたから感情を殺し、今までやってきた。だけど――  千秋を前にすると自分の中にあるリミッターが、簡単に解除されてしまう。無償の優しさをくれる彼を、求めずにはいられない。心の奥底で燃え上がる炎を、ぶつけずにはいられなくて。  涙を拭ってくれる片手を掴み、手のひらにそっとキスをしてみる。そのままその手を、自分の首にかけた。 「穂高さん?」 「千秋、好きだよ。……たまらなく、好き」  ちょっとだけ鼻をすすってから顔を寄せて、柔らかいくちびるにキスをした。何度想いを告げても、まだまだ足りなくて―― 「んっ、……ぅ、ほ、だかさんっ……」  何か言いたげなそのくちびるを、自分のくちびるで塞いでしまう。もっともっと、君を愛したいから。 「千秋……。千秋っ、……もっと――」  君に愛されたい、狂おしいくらいに愛されたいんだ。  肩に回した千秋の手が、俺の頭をぐいっと引き寄せてくれる。 「っ、……くっ!」  唐突に引き寄せられたせいで、歯と歯がぶつかってしまったけど、その衝撃さえ愛おしく思うよ。 「ふぁ、……はぁ、はぁっ……」  貪るようなキスから解放すると、いつも肩で息をしている千秋。喘ぎながら濡れたくちびるを半開きにして、呼吸している姿を見てると、また塞ぎたくなる。  でも、我慢――。濡れたくちびるを右手親指でそっと拭うと、迷うことなくそれを口に含んでくれるから。  目隠しをしたまま恥じらいながらも、音をたてて吸い上げ、きゅっと甘咬みするくせに。もっと強く咬んでもいいのにも関わらず、優しい君はそれをしない。  いつもならこの時点でベッドに移動するが、その時間すら惜しいと思っている俺は、薄紅色に染まっている頬にやんわりとキスを落としてから、千秋の首筋に舌を這わせる。途端に甘い吐息が、口から漏れた。  床に置かれたままになってる、千秋の手の上に重ねるように自分の手を置き、ぎゅっと握りしめてみた。 「穂高さんの手、あったかい」 「ん……。見えなくても、俺の手だって分かるだろ?」 「うん。大きくて骨ばってて、俺のことをしっかりと包み込んでくれるから」  目隠ししてても分かる、きっと千秋は目を細めて、嬉しそうにしているだろう。 「あのさ、ここではじめちゃっていいかい?」 「えっ!?」 「背中が痛くならないように、配慮はするから。ね? いいだろう?」  俺の提案に、ちょっとだけ口をすぼめて考える仕草をしてから、こくりと頷いた。 「だったらこの目隠し、外してください。穂高さんの顔、見たいです」 「それはもうちょっと、俺が落ち着いてからにしてくれないか」  その言葉にキレイなくちびるを引き結んでから、気遣うように話しかける姿に、胸が軋んでしまうよ。 「……まだ辛くて、泣いているんですか?」 「涙は、千秋が優しく拭ってくれたから大丈夫なんだが、悪いね……。違う意味で、落ち着かないんだ」  床の上で可愛らしく、小首を傾げた千秋。俺の言ってる意味、分からないだろうな。  無言で、着ているトレーナーをいきなり脱がせた。 「うぁっ!? 穂高さんっ!?」  見慣れているはずの千秋の半裸が、今日はやけに綺麗に映るな――  瞳を細めてまじまじと見つめたとき、肩口につけた痕が、ふと目に入った。 (――誰にも触れさせない、俺だけの……) 「目隠ししてから君は、俺のことを知ろうと、一生懸命に心を傾けてくれたね。頭を撫でてくれたり、指で顔に触れたり」 「はい。見えないからどうしていいか、正直分からなくて、穂高さんに触ったんですけど」 「じゃあこれから俺のすることを、肌の上で感じてくれ。俺の想いを、直に感じ取ってほしいんだ」  見えない分、感じられるものがある。耳に聞こえる音や肌に伝わる感触で、教えてあげるよ。 「夜の仕事をはじめたら、今までのように逢えなくなるから。だから忘れないように、刻み込んであげる、千秋……」  耳元で囁いてから、耳朶を口に含んだ。くちゅっという音が部屋の中に響く。 「んぁっ、……くすぐったぃ」 「声、抑えないでくれ。俺が忘れないように」  いい色に染まってる頬に、くちびるをそっと押し当てただけなのに、くすぐったそうに身体をくねらせた。 「ほ、だかさんの、息だけでも、……感じちゃって。何かおかしい……」 「いいんだよ、それで。もっと感じさせて、悦ばせてあげる。俺がどれだけ千秋のことを想っているか伝えてあげるから、受け止めて」  言いながら、自分の服を全部脱ぎ捨て、千秋とひとつに重なる。  愛を刻み込むたびに、恥らわずにあげてくれる君の甘い声を、耳の奥に焼き付けた。  互いを握りしめる手のひらから、じわりと熱が伝わり、更に体温を上げていく。その度に鼓動も高鳴って、どうしようもない胸の疼きを感じた。 「千秋、……千秋、愛してる」  絶頂を迎えるその瞬間まで、奥深くにキレイな君の中に、溶け込んでしまいたい――  ネクタイを外したその顔は、どこか憂いに満ちていて寂しげで。 「穂高さんっ、……俺も穂高さんを、愛してる、よ……」  掠れた声で告げられた告白が、心の中に刻み込まれた。千秋の寂しさをどうにかしたくて、一晩中抱き合ったのだけれど、最後までそれを何とかすることが出来なかった。

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