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父さん、お別れして1

 『すぐに病院へ来てください』    病院まで、あと10分。何度タクシーの運転手に「もっと速く、急いで」と頼んだのだろう。それでも気ばかり焦っている。どうにも出来ない。速くしてくれ、とどんなに言っても運転手には速度制限無視も信号無視も出来ない。分かっている、理解しているつもりだ。    『お父さんが、階段から─』    電話口の焦った物言いの言葉を呑み込むことが出来なかった。呑み込む前に胃酸が逆流して喉が焼けた。咳き込んでしまって、電話の相手にまで心配された。そんなことは良いから続けてくれと噎せたまま言った後、後悔する。    『階段から落ちてしまわれて』    心臓が張り裂けそうな不安の中、ようやく病院に着いて「廊下を走らないで下さい!」という看護師の非難の声を無視して、足を動かした。先にタクシーの料金を払っておいて正解だと思った。どこの部屋なのかはもう伝えられている。    『今、集中治療室にいらっしゃいます。とにかくすぐ来てくだ──』    最後の方は聞いていなかったと思う。聞き終わる前に電話を切ったからだ。  集中治療室の一枚目のドアを開け転がり込んだ先に、大きな窓が張ってあった。ここまで脱兎のごとく走ってきたら、酸欠で、加えて考えることすらままならない有様。こんな状態で立っていられるのが不思議なほど、足取りがふらつく中一歩、また一歩とガラスに近づく。  大量の管、心音機、あとはよく分からない機械が沢山ベッドの周りを取り囲んでいた。ガラスに張り付くように手をつく。手形が付いていくのは、おれの手が段々下に降りていっているから。    ベッドに寝かされている患者は、足を包帯で巻かれ、頭を包帯で巻かれ、腕に管を刺され、胸に吸盤が貼られ、痛々しいとしか言えない。    ─なんで    呟きは動き回っている医者の足音に掻き消された。    この、集中治療室に横たわっているのは    その、ベッドで痛々しい治療を受けているのは    ベッドに吊り下げられているプレートに書かれているのは    『官乃木 朔』    おれの恋人だった。

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