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第9話

 精神的なものか、身体的なものか。医者が頭を抱えているのを、胡乱気(うろんげ)に聞いていた。  言ってしまうと、朔は記憶喪失になった。階段から落とされた事への精神的ショックか、はたまた頭を強く打ったことによる脳の損傷か。医者はどちらでも有りうると話していた。    変な所だけ忘れてしまったのは、おれのせいかな。ほら、おれ心配掛けまくってたから…どこかで忘れたいと思われていたのかもしれない。    忘れたと言うより記憶が引き戻されたの方が正しいだろう。と言うのも、朔の中で今おれは中学生らしい。それも中学なりたてほやほや。朔自体は、おれへの恋心を自覚していない時まで記憶が遡ってしまっている。  つまり、めちゃくちゃ。記憶は混乱しまくっている状態。上手いこと記憶が掻き消されてまっさら─なんだそれ、とは思った。    ついでに言うと、失言もしてしまってさらに混乱させてしまっている。まさか、「おれ、朔の恋人だったじゃん」なんて口から流れ出すとは思いもよらなかった。その時の朔の呆けた顔と来たら…、かっこよかった。…いやそうじゃないだろ。    説明を受け終わった朔がベッドに深く凭れこむ。    「譲、さっきの」    医者が説明に来たことでおれの失言は忘れられたと思ってたのに、朔は覚えているみたいだ。そこは忘れればいいのに。  なんでもない、と笑ってみせたら下手くそと一蹴された。作り笑い苦手なんだよ。    「どういう事だ?」    「だから、何でもないってば。こ…、と、父さんは怪我人なんだから大人しく寝てないと」    「今呼びかけただろ」    気づくなよ。朔って言わないようにしてるのに、どうしても呼んでしまう。癖になってる。その原因は、朔だけど。  訝しげな目から逃げるように視線を逸らした。    「呼びかけて、ない」    「じゃあさっきの発言は?」    「忘れて、びっくりさせたかっただけ」    「怪我人をびっくりさせるなんて、悪魔だな。泣きながら名前呼ばれたら誰だって気になるだろ。白状しろ」    「っ、寝ろ!」    悪魔と言われたことに多少苛立ちを覚えて睨みつける。誰のために言い訳してる思ってるんだ。    白状する気なんてさらさらない。もし精神的ショックで記憶が飛んでいて、おれのことを思い出してその瞬間のことも思い出したら─。  考えるだけでゾッとする。思い出せば、フラッシュバックしてしまうだろう。もし階段に近づけなくなったら?もし人間不信になってしまったら?そうすればまともに生活を送ることさえ困難だ。    それだったら、おれが我慢すればいい。何年も片思いで培われてきたおれの忍耐力は伊達じゃない。また一方的なものに戻るだけだ。いや、前は結局両思いだった。 …両思いで、ここまできたのになぁ…今度は本当に、片思いだ。 大丈夫、今まで通りやっていける、と自分に言い聞かせた。

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