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第4話

 ○  四日目〈蛇岐〉  椿の熱は下がらなかった。腹の傷口は閉じないまま、酷く堰き込み腹を押さえるたびに血が滲んでいた。椿は何も食べてはくれなかった。小さくちぎって紅茶に浸したパンも、以前に椿が好きだと言っていたトマトのスープも、ぬるくあたためたミルクも、椿は口に入れるものすべてを拒否した。一日中ベッドに沈んだまま、寝返りさえろくにしなかった。明け方、眠りの深いうちに、椿の乾いた唇に白湯を垂らした。赤い舌が覗いてそれを舐めとり、それを確認してからもう一度唇を濡らした。時間をかけて何度も繰り返し、まだ本能は死ぬのを望んでいないことに不思議な焦燥感を覚えた。  あの人の顔が浮かぶ。任務を果たさなければ、と思った。椿の寝顔を見やる。泣きたい気持ちになった。だれかに縋りたかった。けれどだれもいなかった。  うたって、と強請った椿の声を思い出す。荒く乱れそうになる呼吸を整えて、再び椿の隣に横たわった。指をからめ、椿の額に顎をこすりつけ、小さな声でうたった。自分でもおかしくなるくらい、へたくそな歌だ。母と暮らした家で救いを待ち望んでいた頃に、一度だけ見た酷い映画で流れていた歌。曲名も、へんてこな歌詞の意味も分からない。けれどこれを口ずさんでいる間は、あの人が助けに来てくれる気がしてならなかった。 「おはよう」  翌朝目を覚ました椿は、ゆっくりと上半身を起こして窓の外を眺めた。今日も雪が降っていて、暖房の効いた室内にいても酷く冷え込む。椿は乾いた咳をして、随分と細くくたびれてしまった手で腹をさすった。 「なにか食べよう、椿ちゃん」  はちみつを溶かしたミルクを差し出すと、意外にも椿は素直に手を伸ばした。けれど小刻みに震える手はうまくカップを掴めず、椿は幼子のように俺の手からミルクを飲んだ。ひと口目が喉を過ぎるのを確認して、椿に悟られぬよう静かに安堵した。椿は三分の一ほどを飲むと、もういい、と首を横に振ってカップを突き返した。 「スープ飲む? なにか他のがいいなら、用意する」  椿は再び首を横に振り、か細い息を吐いた。 「蛇岐………」  今にも消えてしまいそうな声だ。期待の意味も込めて、どうした、と返事をした。 「散歩に行かないか。家の中だけじゃ、窮屈で」  そう言う椿の血色はとても良いとは言えず、ここへ来てからというもの少しの間も震えがとまらず、腹の傷は開いて出血している。とても歩けるような状態ではなかったし、ましてやこの寒さで外出なんて出来ようもない。けれどここでそれを拒んだところで、椿は納得なんてしないだろうことは分かっていた。もちろん本意ではなかったけれど、いいよ、わかった、と返事をしてやる。 「あたたかいスープを飲んでからにしよう、冷えるといけない」  条件を出すと椿はしばらく黙り込んで、それでも最後には「わかった」と頷いた。  ほんの少ししかないスープを、椿は長い時間をかけて口に運んだ。ステンレス製のスプーンがスープを掬うたび、かちゃかちゃと耳障りな音を鳴らし、椿は三度、スプーンを落として床を汚した。椿がひと口食べるのを見て、俺もひと口飲み込んだ。ふた口目からも同じようにして、完食したのはスープがすっかり冷めきってからのことだった。  椿の着替えを見守るのはとてもいい気分とは言えなかった。腹に巻かれた包帯は血が乾いて赤茶けて、あの日からまともに食事もしなくなった椿のからだは鎖骨もあばらも、そのかたちをはっきりと見て取れるほどに痩せこけていた。猫のようにまるくきらきらと生気を漲らせていた瞳もひどく落ち窪み、乾いた唇は皮が剥けて青紫に変色していた。 「コート、ちゃんと着て」  震えるからだにコートを羽織らせると、椿は小さな声で「おもい」と呟いた。俺の着ていたコートだ。椿が着るとくるぶしまで隠してしまうから、防寒には最適だと思った。しかしたったそれだけのコートの重さも、きっと今の椿には耐えられなくなってしまったのだ。  散歩に行きたいと言い出してから、既に二時間が経っていた。途方もない時間に思えた。生まれたての小鹿みたいな脚で立つ椿の手を握り、どうしようもなく、心許ない想いに駆られた。その手を引いて、靴を履かせて、外に出て、頬を刺す寒さに泣きたくなった。それを見計らったみたいに椿は、うたって、と俺に強請った。こんなへたくそな歌を聞きたがるのは椿ちゃんだけだよ、そう言うと椿は、そんなことないよ、と力なく笑った。  外はほんの少しだけ雪が積もっていて、歩くたびにさくさくと湿った音を鳴らした。ここへ来た日みたいに椿の手を引いて前を歩き、椿は握り返すこともなく後に続いた。行く宛なんてなかった。ただアパートの周りをゆっくり歩いて、たまに椿を振り返り、そしてまた前を向いて歩いた。十分ほどそうして、そろそろ戻ろうと振り返ると、椿は微かに俺の手を引っ張った。 「手、離して。ひとりで歩ける」  はなして、と椿は再度、降り積もる雪に掻き消されそうなほど弱々しく小さな声で呟いた。寒さで鼻は真っ赤だし、落ち窪んだ瞳は光をなくし虚ろに濁っている。思わず、嘲笑にも似た笑みが漏れた。ひとりで歩ける、なんて。ゆるく握られた俺の手すら、振り解けはしないくせに。ひとりでなんて、歩くつもりもないくせに。 「だって」  からだごと振り返り、正面から向かい合って、細く冷たい両手を握った。 「だって椿ちゃん、手を離したら、ひとりでどこかへ行くだろう」  ここじゃないどこかへ。例えばもう手の届かないほど、どこか遠くへ。  椿は答えずに、立ち尽くした。視線はゆっくりと、右へ左へ彷徨った。俺は黙ってそれを見守った。からだは芯まで冷えていた。手を引けば、椿はまたゆっくりと歩き出した。それからは互いに何も言葉を発することはなかった。俺たちの目に映る景色すべてが、暗く湿って沈んでいた。

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