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第5話
○ 五日目〈我妻椿〉
震えているのにも、慣れてしまった。全身が怠くて重いし、意識も濃い霧がかかったように霞んでいる。
蛇岐にすすめられたスープを断った。ミルクも紅茶もパンも、痛みどめのくすりも、口に入れるものすべてを拒んだ。馬鹿馬鹿しい。甲斐甲斐しく世話を焼く蛇岐。逞しく頼もしい、立派な体躯をしていたのに、あんなに痩せてしまって。両手の指につけていた重く分厚いシルバーリングは、ついに昨日蛇岐の指から抜け落ちた。不意に、鈍い音を立てて床に滑り落ち、蛇岐は何事もなかったかのようにそれを拾ってテーブルの隅に置いた。夜中のことだ。湯を沸かし、それをわざわざ冷まして、蛇岐は俺の唇を濡らした。何度も何度も、太くかさついた指が唇の上をすべる。朦朧とした意識の中、あのリングに飾られていない蛇岐の指は、なんだか物足りないな、と思った。
静かな夜。飲み込まれそうな静寂だ。こんな夜は、きっと夏であっても寒いのだろう。まだ十一月なのに毎日雪は降るし、どれだけ部屋をあたためても、蛇岐に隣で寝てもらっても、どうしようもなく寒かった。
「蛇岐……………」
ベッドの中で繋ぎ合った手を引き、きつく指をからめた。蛇岐は目を閉じていたけれど、喉を鳴らして返事をし、俺の額に頬をつけた。
「蛇岐」
もう一度呼ぶと、なに、と掠れた声が返ってきた。
「寒い」
言うと、蛇岐は隙間なく身を寄せて、あの日から少しずつ体温の低くなる腕で俺を抱き締めた。途方もない、出口のない恐怖はすぐそこまでやってきている気がした。近付く足音も実体もないけれど、しかし確かに、すぐそこまで迫っている気がしてならなかった。
からだは急速に、温度をなくす。呼吸さえをも飲み込んで、実体のない何かが胸に詰まった。次いでやってくるのは、吐き気だ。眩暈がして、呼吸を忘れ、ひどい吐き気に襲われる。〈我妻椿〉という人間そのものが、足元から歪んで消えていくみたいだ。
なくなってしまう。俺という人間がいた事実が。
今ここで消えてしまう。獅子雄という人間がいなくなってしまったのと同じように。
はっとして、目の前の蛇岐の胸に縋りついた。互いの脚を擦り合わせ、自らがこの場所に在るということをしつこく確認した。蛇岐の胸に顔を押し付けて、荒い呼吸を繰り返し、何度も何度も確認した。まだ、俺が生きて呼吸をしているということを。
少しだけ顔を上げると、きちんと開かれた瞳が俺を見ていて、寒くて震えているはずなのになぜだか大量の汗が噴きだした。喉からおかしな音が漏れる。吐き気は治まらないし、からだの震えだってちっともよくならない。ただ恐くて、混乱して、それを受け入れる術を持っていなかったのだ。自分がどうして泣いているのかさえ分からない。
蛇岐の頬を両手で包んだ。乾燥してざらざらしていた。霞んだ視界の中で蛇岐はどんな表情をしているかなんて考えもしなかったし、考えたところで、きっと蛇岐はいつもと同じように、何にも動じないのだろうとも想像できた。蛇岐、と小さく囁くと、なに、と静かに返ってくる。言葉の最初と最後に空気を含ませて、抑揚のない、しかし確かな意思を持った声だった。
「蛇岐」
もう一度呼ぶ。蛇岐はまた、なに、と返事をした。
「抱いて、俺のこと」
言うと蛇岐は、どんなふうに、と言葉を返した。
「強く抱きしめたらいい? それとも膝にのせたらいいの」
ちがう、と首を横に振った。
「ちがう、もっと強く」
そして、深く。獅子雄がそうしてくれたように。
「セックスしよう」
蛇岐は束の間(本当に、ほんの一瞬)息を詰めると、いいよ、と言った。その代わり、目は閉じていて、と蛇岐の大きな手が両目を塞いだ。
「獅子雄さんは、どういうふうにしてた」
そんなこと訊かれたって、わかるはずもなかった。知らない、セックスなんてしたことないから、と言うと蛇岐は、そう、と言った。
蛇岐の手付きは、苦しくなるほど優しく繊細なものだった。俺は言われたとおり目を閉じていたし、蛇岐は少しも言葉を発さなかった。頭の先から足の先まで、まるでセックスという行為そのものを誤魔化すような、入念な愛撫を続けた。浅い呼吸を繰り返し、蛇岐の盛り上がった肩に触れ、時折漏れる小さな息遣いを聞き、互いのからだは虚しく震えた。何にも発展しない、セックスだなんてとても言えやしない行為の最中、蛇岐はゆっくりと覆いかぶさり、骨が軋んでしまうほど強く抱きしめられた。素肌が触れ合い、確かな温度を感じて目を開ける。視界の端に、薄暗闇の中に煌めく金髪が映った。
ああ、とため息と共に声が漏れる。
「ああ、蛇岐だな……………」
蛇岐なんだな、と呟く。すっかり冷えてしまった広く大きな背中を撫でて、当たり前じゃん、と言う蛇岐の表情を想像した。俺たちは裸のまま朝まで抱き合った。それ以上のことなんてなにもなかった。ただ裸のからだをくっつけ合って、互いの呼吸を見張りながら、もう何度目かの寒々しい朝を迎えた。
空が明るくなっても、蛇岐はそれまでのように、スープ飲む、とは訊かなかった。なにか食べよう、と促すこともなかった。俺たちはベッドで抱き合って、六日目を迎えた。
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